山形の市街地西部に位置する国指定史跡山形城は別名霞ケ城と呼ばれ、築城当時は東西1600m、南北1500mという広大な規模の城域でした。現在はその二ノ丸部分東西約500m、南北約600mが霞城(かじょう)公園となっています。

JR山形駅から歩いて10分ほどの場所にあるのでアクセスは抜群です。山形城内には、山形県立博物館・体育館・武道館・山形市郷土館・多くの施設が並んでいます。

お堀に沿って線路が通っており、ちょっと珍しい眺め。緑色に染まったお堀を眺めながら二ノ丸東大手門を目指します。

山形城は、もともと南北朝時代の延元元年(1356)出羽の南朝勢力に対抗するため出羽按察使(あぜち=地方行政の監督・監察役)として派遣された斯波兼頼(しばかねより:祖は足利氏)が入部翌年に築城したお城でした。此処を拠点とした斯波氏は、強大な権威と政治力を武器に南朝勢力を圧倒しました。

この二ノ丸東大手門は台湾檜(ひのき)を使用し平成三年に山形城二ノ丸東大手門復原工事により完成しました。壮麗かつ堅固な城門です。
最上義光(よしあき)公騎馬像

さらに城内へ進むと、躍動する最上義光公の騎馬像が現れます。最上義光公は天文十五年(1546)に誕生、斯波兼頼公から数えて十一代目にあたります(斯波氏は室町時代より最上氏と名乗ります)文禄元年(1592)義光公は家臣に普請し山形城を城郭化させていきます。

「慶長五年の秋九月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将直江山城守のひきいる二万三千余りの大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し敵を撃退してよく山形を死守した山形城主最上義光が決戦場富神山にむかって進撃せんとする英姿であり、鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります。右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光と刻んでいます。銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります。」
慶長出羽合戦

慶長五年(1600)天下分け目の関ヶ原の合戦時、出羽国でも〔東軍〕最上義光公・伊達政宗公と〔西軍〕上杉景勝公・直江兼続公が戦う「慶長出羽合戦」がありました。その時、山形領内に進んだ兼続公が富神山から指呼の間にあるはずの山形城を望んだ際、霞がかかり分からなかったことから霞ケ城と呼んだという。写真:上杉景勝公直江兼続公像(米沢市)

両軍は長谷堂城で激戦を繰り広げましたが、関ヶ原で西軍が敗れたという報を受けた上杉軍の撤退により最上・伊達軍の勝利に終わりました。義光公は、その功で庄内を含めた出羽山形藩五十七万石を賜り戦国大名最上家の黄金時代を築きました。
山形城本丸跡

現在、本丸跡には復原された木橋と本丸一文字門が建っています。

「本丸一文字門は本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・枡形全体の呼び名です。櫓台石垣の上に載るのは櫓門形式の一文字櫓で、櫓の形が漢字の「一」に見えることからついた名前です。大手橋を渡り高麗門をくぐると石垣・土塀に囲まれた「枡形」に入ります。本丸に入るには右に折れ櫓門を通らなければならず、敵の侵入を食い止める城の工夫のひとつです。」

慶長十九年(1614)に義光公が六十九歳で病没から八年後の元和八年(1622)孫の源五郎義俊の代に後継者を巡る「最上騒動」と呼ばれたお家騒動を理由に改易され、陸奥岩城(福島)二十二万石から入部した鳥居忠政公の時代(1622)に整備された本丸。

最上氏改易の後は鳥居氏・保科氏・松平氏・奥平氏・堀田氏・秋元氏と目まぐるしく城主が変わりました。
幕末時代

幕末期の山形藩主は、水野忠弘公。天保の改革で知られる水野忠邦公の孫にあたります。父の忠精も老中でした。白石会議には筆頭家老だった水野三郎左衛門元宣が参列し列藩同盟に加わりました。その元宣は戊辰戦争後に斬罪に処せられ、忠弘公は謹慎処分で厳封を免れました。

現在の本丸跡は、建物などは無く柵で囲まれた本丸御殿広場になっており、周辺一帯を含め霞城公園として整備されています。

本丸御殿広場を横切る散策コースには、「山形城ARカメラポイント」があり、本丸御殿が現れるようになっています。
周辺の立ち寄りスポット
●最上義光歴史館

山形城の東大手門と線路を挟んだ向かいにある美術館の隣にある最上義光歴史館。月曜日が休館日。そのほかの曜日は朝9:00〜16:30まで入館できます。

その名の通り最上義光公を中心に最上氏の歴史史料が展示されている施設です。訪れた日は花笠まつり開催中の月曜日でしたが、施設は特別に開館されており入館できました。

館内には、迫力ある最上義光公のアップと騎馬像でも持たれていた指揮棒「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」が描かれたフォトスポットがあります。

敷地内には最上義光公像も建っています。
御城印

山形城の御城印も販売されています。(300円)
JR東日本山形駅

白く綺麗な駅舎の山形駅。もちろん新幹線の停車駅なので大きな駅構内です。

改札には山形らしい花笠が飾ってあり、お蕎麦も美味しそうです。


山形のお祭りといえば、何と言っても「花笠まつり」。訪れた日は、お祭りの初日で駅構内の装飾はお祭り一色。

早速、お祭りの団扇をいただきました。描かれているキャラは《JR東日本山形エリアキャラクターつどりぃ》です。最上川と月山・紅花をイメージした新幹線E8の色使いのオシドリに「新幹線つばさ」の〝つ〟を付けた名前となっています。

駅構内では、昼間から花笠音頭が流れ皆さんが踊っておられました。懐かしいと思われる方も多いのではないでしょうか。他県民ですが、小学生の頃に花笠を作って踊った記憶があります。
山形駅の駅弁

山形駅の推し弁と言えば、なんといって「牛肉どまん中」。パッケージではお肉が少しだけ見えますが、開けてびっくり

一面に敷き詰められたボリューミーな牛肉。下のご飯が全く見えません。1620円。
みちのくの覇権を巡る二つの巨星

最上義光公と共に名が挙がる東北の武将と言えば、やはりこの方「伊達政宗」公。前述の慶長出羽合戦では東軍側として両雄が手を結びましたが、そこに至るまでの二人は伯父と甥の縁戚でありながら長い間対立していました。

伊達氏の祖は伊達朝宗(ともむね)。平安時代に起きた源頼朝公の平家討伐や奥州藤原氏との合戦に従軍した功で伊達郡を拝領した事で、それまでの中村から伊達と改名し米沢へ移りました。写真:米沢城跡(米沢市)
室町時代伊達氏の軍門に下る

その後、永正十一年(1514)伊達家十三代当主稙宗が米沢から山形へ進出、羽州探題最上義定と長谷堂城で戦うことに。この激突で伊達氏に敗れた名門最上氏は婚姻関係を結ばされ、伊達氏の傘下に入る事なりました。共存の道を選んだ最上氏でしたが。
両家に亀裂「天正最上の乱」

天正二年(1574)最上家内で義光公と実弟中野義時との間で家督を巡る争いが起き、義時を推す父義守の頼みで義理の弟である伊達輝宗が介入、最上領内へ出兵しました。この最上父子兄弟の争いは義時の自刃により義光側の勝利で決着しましたが、この対立で生じた溝は輝宗の子伊達政宗公の代にまで尾をひく事になりました。
父義守の願い
天正十一年(1583)、重い病に冒された父義守は、病床に娘の義姫と婿の伊達輝宗を呼び、次のように嘆きました。


たとえ出羽奥州で戦して輝宗が一旦勝利を得ても、最上の主となることはない。義光が戦に勝つとも奥州を手にすることもない。両家とも佐竹上杉などに討たれるだろう。


もし、我意に背いて伊達最上仲違いすれば、草葉の陰にて泣き崩れ、この義を守れば我ら霊は心良く子孫の祀りを受けるだろう。
しかし、その願いも届かず以後も両家の抗争が続きました。天正十三年(1585)には伊達家でも父子の仲違いで輝宗公が命を落とし政宗公が伊達家当主になりますが、最上義光公への不信は続き、義光公も伊達政宗公への疑いを抱きながら戦国期を迎え、とうとう二人の対決が現実のものとなりました。
続きは、後日予定「伊達政宗公編」にて。
今我病急にて既に黄泉に行くところだが、とてもむなしい。義光と輝宗は必ず仲違いて合戦に及ぶだろう。これのみ心にかかる。