【桜の名所】金ヶ崎城跡/福井県敦賀市

 福井県敦賀市の「金ヶ崎城跡」。桜の名所でも知られています。鎌倉時代から戦国時代にかけて数々の歴史の舞台になりました。特に戦国時代に織田信長公が命からがら逃げ帰った「金ヶ崎の退き口」という言葉は現在でも語り継がれています。

 JR敦賀駅。新しくて綺麗な駅で駅舎左側は工事されています。令和六年春、こちらに北陸新幹線が延伸開業されるため新駅を建設中です。構内も清潔で綺麗な駅でした。

あちこちにその表示があります。色々準備が進められているようです。

ぐるっと敦賀周遊バス

 アニメ界の巨匠、松本零士さんの作品が描かれた周遊バス。こちらへ乗って金ヶ崎公園へ行きました。道中もヤマトのキャラの銅像がありファンの方にはたまらないのではないでしょうか、

 一路、金崎山にある金ヶ崎公園へ。途中気比神宮の側を通り、10分ほどで目的地に着きます。左側には日本海が見える素敵な場所です。ちょうど桜が満開の時期で多くの方が参拝に訪れていました。

金崎宮

マップで見てわかる通り、桜がいっぱいでまさにこのような風景です。金崎宮という神社があり、その周りも散策路が整備され一周りできるようになっています。ただし車は通れませんので徒歩で歩いての散策になります。

まず手前に「金崎宮」という神社が御鎮座されています。境内は桜が満開で綺麗でした。

 この日は「花換まつり」の真っ最中で、沢山の人が参拝に訪れていました。花換って?何かと言いますと

 授与所で「桜の小枝」をいただき、拝殿横の福娘さんに「花を換えましょう」と唱えながら交換してお参りするお祭りです。

 金崎宮と金ヶ崎城の御城印も沢山販売されてました。春限定のもありますね。こちらの神社の御祭神は「尊良親王(後醍醐天皇第一皇子)・恒良親王(後醍醐天皇皇太子)」由緒は「この金崎山は気大宮司氏治の居城でもあり延元二年(1337)三月六日落城す。

その時、城中に在られた尊良親王は自刃され、義顕宇治ら将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子恒良親王は逃れるも後に逃れるも後に幽閉され、翌年京都にて他界される。金崎城落城後350年を経て明治26年、敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王・恒良親王を祭神に社号を金崎宮として御鎮座されたとあります。戦国時代のイメージが強いですが、その前にも歴史がありました。

金崎城落城後350年を経て明治26年、敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王・恒良親王を祭神に社号を金崎宮として御鎮座されたとあります。

わかりますか?左下から吹く潮風に乗って桜の花びらが下から上へ舞うのです。この「逆さ桜ふぶき」がとても美しくて素晴い光景でした。みんなキュンとくると思います。

しばらく歩くと、「尊良親王御陵墓見込地」の碑があります。安政年間にこの辺りにあった石室から銅製の経筒、円鏡、椀が発見され墓所としましたが、他の史料に乏しくまた京都市にある永観堂そばに墓所があることからこちらは自刃の地とされました。

金ヶ崎の退き口

 もう一つ脚光を浴びた場所「金ケ崎の退き口」。元亀元年(1570)織田信長公、明智光秀公、徳川家康公、木下藤吉郎(秀吉公)、対する浅井長政公、朝倉義景公との間で繰り広げられた合戦の舞台。退路を絶たれ挟み撃ちになった織田軍が命辛々逃げ帰る舞台となった場所ですね。戦国マニアの方なら一度は訪れたい場所です。

ぜひ桜の季節に訪れて見てはいかがでしょうか。

その他の名所

敦賀城跡(眞願寺)

敦賀の住宅地の中にあり、見つけるのに迷いましたがお寺の中にあります。 文明三年(1471)朝倉敏景公が越前守護となり。敦賀郡司を置きますがその跡に敦賀城を築城しました。金ケ崎城は郡司館の詰所のようです。城主は天正三年、織田信長公の家臣で敦賀五万石を任された武藤宗左衛門舜秀公。しかし同年七月に摂津伊丹にて亡くなり、長子康秀公が継ぎますが本能寺の変で信長公が亡くなると羽柴長秀に仕え蜂屋頼隆公が城主となりました。

天正十七年、大谷吉継公が五万七千石で入城。お城の整備拡張を行いました。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで敗死するや家康公によって所領は没収。翌六年には福井城主結城秀康公が統治することとなりましたが、近くで火災が発生し城の一部が焼失。ですが復旧工事はされず堀も埋められ縮小、その後元和一国一城令により廃城となりました。江戸時代は小浜藩の奉行所などに利用されていました。

少し大きな道に出ると説明文がある碑があります。

敦賀赤煉瓦倉庫

金ケ崎城跡から見える場所にあるレトロな赤煉瓦倉庫と電車の車両。

こちらにはレストランと鉄道関係の展示物があります。左には昔の車両のキハ28が展示されていました。

気比の松原

こちらは皆さんご存知の日本三大松原の一つ「気比(けひ)の松原」です。バスの便が少ないのでご注意を。

長さ1キロに及ぶ砂浜のビーチです。春先の夕方なので人はまばらですが癒しを感じる場所でした。

しばらく住宅街を歩くと

沿道に桜の木が沢山植えられていて、歩きながら春を感じさせてくれます。ずっと桜の花びらが舞う素敵な街並みでした。

金ヶ崎城の歴史

 鎌倉幕府が開かれる前の養和元年(1182)、木曽義仲公と平通盛公が戦った時の事を記した「玉葉」に「都留賀城」と書かれています。これが最初と思われますが、ハッキリと歴史上に有名になるのが南北朝時代でした。

延元元年(1336)十月、足利尊氏公に追われた新田義貞公は、後醍醐天皇の皇子である恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀に本拠地としました。義貞公は直ちに長男義顕らが杣山城の瓜生半官保に援軍を頼みに向かいましたが、足利側に阻まれやむなく金ヶ崎城へ戻りました。(写真:左は足利尊氏公像、右は新田義貞公像)

勢いのある北朝側の足利軍は十数ヶ国の6万の大軍で、わずか800余りの兵が立て籠もる金ヶ崎城を取り囲みましたが、天然の要害である為なかなか攻め落とせず持久戦の様相になりました。

延元二年二月の極寒の夜中、敵の隙をみて義貞公は再度杣山城へ援軍を頼むべく城を脱出。しかし雪が溶けた三月二日ごろから、足利軍の総攻撃が始まりました。城兵の勇戦奮闘もありましたが、木戸を打ち破られ六日朝ついに落城。尊良親王は自害され、小舟に乗って対岸の蕪木浦に落ちていきましたが、足利軍に捕らえられました。

室町時代になると越前守護代甲斐常治が居城したのち、朝倉景冬一門の居城となりました。戦国時代になると、織田信長勢の攻略により開城となり、以後廃城になりました。

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