【福井県】新田義貞公墓と明智光秀夫妻の黒髪伝説/坂井市 称念寺

 福井県の北部坂井市。丸岡城が有名ですが、同じ方面にある「称念寺」。地元のタクシーの人でも知らなかった(笑)お寺ですが、そちらには南北朝時代に南朝側で活躍した武将「新田義貞」公のお墓があります。

それだけではなく戦国武将「明智光秀」夫妻が10年も暮され、その後生まれた「お玉(細川ガラシャ夫人)」の生誕の地でもありました。

 福井駅から丸岡城方面の北へ向かい車で30分ほど(渋滞箇所あり)走らせると新幹線用線路近くに称念寺があります。称念寺は、養老五年(721)泰澄大師が長崎に阿弥陀堂を創建。正応三年(1290)称念坊兄弟等が伽藍(がらん)を整備して、時宗の念仏道場になりました。

境内に入ると緑豊かな庭園があり、「本堂」「新田公墓所」の道案内があります。

まず御本堂にお参りして、境内を見学させていただきましょう。お人形?が飾られています。

「惟仁方はもともと明智十兵衛と行って濃州土岐一族の牢人だったが、越前朝倉義景を頼って長崎称念寺門前に十年居住していた。」(惟任とは朝廷から賜った光秀の姓)「光秀公は称念寺で愛宕権現曼荼羅の中央に描かれている勝軍地蔵尊を拝み、再起を祈願していた。やがて戦国武将として力量を発揮することになる。」

永禄五年(1562)光秀公が門前で寺子屋を開き、翌六年に光秀の子の玉(後の細川ガラシャ)が誕生しました。慶長八年(1603)結城秀康公が称念寺に38石を寄進、以後歴代福井藩からの寄進で寺境内が整備されました。

黒髪伝説とは

「明智光秀公は、弘治二年(1556)、斎藤義龍の大軍に敗れ、妻の煕子(ひろこ)や家族と伴に称念寺に逃れます。称念寺門前に寺子屋を開きますが、生活は貧しく仕官の芽もなかなか出ませんでした。やがて、朝倉の家臣と連歌の会を催すチャンスを称念寺の住職が設定します。貧困の光秀には資金がない中、連歌の会は煕子の用意した酒肴で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉の仕官がかないます。

しかし、その連歌の会の資金は、実は煕子が自慢の黒髪を売って用立てたものでした。光秀はこの妻の愛に応えて、どんな困難にあっても必ずや天下を獲ると誓ったのです。この「夫婦愛の物語」は、称念寺門前の伝承になり、江戸時代の松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に取材しました。その後、芭蕉は、伊勢の山田又玄宅を訪れます。又玄(ゆうげん)は貧しい神官で才能がありながら出世できないことに悩んでいました。

そこで芭蕉は弟子の又玄に「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」の句を贈って励ましたのです。もちろん「明智の妻の話し」とは称念寺の光秀夫婦愛を指します。意味は「又玄よ、今は出世の芽が出てないが、あなたにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか、今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」とでも訳せましょう。芭蕉の師弟愛が伺えます。

なお、その光秀の夫婦愛を見ながら称念寺で永禄六年に生まれたお玉も、両親に劣らぬ夫婦愛に生きた方でした。お玉の生き方が天下分け目の関ヶ原の戦いに影響したと言われるぐらいですから、その夫婦愛は母の煕子譲りの筋金入りと言えましょう。」写真:勝龍寺跡(京都長岡京市)

新田義貞公の墓所

「正安四年(1333)に鎌倉幕府を滅ぼし、その後、足利と新田の戦いは南北朝の戦と発展し、義貞公は暦応元年(1338)七月二日灯明寺畷(福井市)の戦いで戦死しました。その遺骸は時宗の僧によって、称念寺に運ばれ葬られました。

新田義貞公は、源氏嫡流の名家で、南朝方の至誠の武将として讃えられ、称念寺は時の将軍より寄進を受けて壮大な称念寺領の荘園をもち、天皇家の祈願所にもなった。近世には徳川家や福井藩主、明治天皇から手厚く保護を受けていた。」

鎌倉時代末期の南北朝騒乱を記した「太平記」でお馴染みの武将新田義貞公。後醍醐天皇が開かれた南朝側として各地を転戦。終焉の地になった福井の藤島。

こちらには新田義貞公の木造と鎧が保管されています。

関連スポット

燈明寺畷跡(灯明寺畷)(新田塚)

「江戸時代の明暦二年(1656)に、この周辺で地元の農民が新田義貞のものと言われる兜(元応元年1319の年号が記されている)を発見しました。その後、福井はん4代藩主松平光通が万治3年(1660)に「暦応元年閏七月二日新田義貞戦死此場所」の碑をここに建てて以来、この場所が「新田塚」といわれるようになりました。」

最後の戦い

新田義貞公は正安三年(1301)に上野国(群馬県)で生まれました。義貞公は、後醍醐天皇の呼びかけにこたえ、鎌倉幕府討伐のため挙兵し、関東から東海・関西地方と転戦した跡、金ヶ崎城(敦賀市)に入りました。

金ヶ崎城は、建武四年/延元二年(1337)に一度は落城しましたが、その後、義貞公が奪還します。

翌年、義貞公は暦応元年/延元三年(1338)に藤島城に応援に向かうところで敵と遭遇し、矢に射られ戦死したと言われています。

敵に包囲された中、家臣たちは義貞公を必死に逃がそうしましたが、「家臣を見捨てるわけにはいかぬ」と退かず供に戦いました。そして馬も崩れ倒れ泥の中から立ち上がった義貞公の眉間を敵の矢が膝を射抜き、もはやこれまでと自害されました。享年三十七。

藤島神社

JR福井駅から福井鉄道で10分。「足羽山公園入口駅」近くの足羽山公園に御鎮守されている「藤島神社(建武十五社)」。御祭神は贈正一位新田義貞公。こちらに燈明寺畷で見つかった兜が所蔵されています。※ただその兜は後の調査・鑑定で江戸時代のものと判明したそうです。

周辺の観光スポット

丸岡城

称念寺と同じ坂井市丸岡町にある「丸岡城」。丸岡城は天正四年(1576)、柴田勝家公の養子である勝豊が築城した平山城で別名霞が城。店主各区は昭和九年(1934)国宝に指定されましたが、昭和二十三年(1948)の福井大震災に倒壊。

昭和二十五年(1950)文化財保護法の施行により重要文化財に指定され、元の古材を使用して昭和三十年(1955)に修復再建されました。現存天守閣12の中で最も古い建築様式であり、外観は上層望楼を形成し通し柱が無く一層二階三槐の支台となっている。

屋根が全て石瓦で葺かれているのも特徴です。とありますが、最近の調査では、寛永五年(1628)が築造年と判明しました。

御城印

入口受付では御城印も販売されています。

受付の説明文にありますが、丸岡城主を務めた柴田・本多・有馬の家紋と内堀の形状を表す五角形の朱印を押した御城印です。夏季期間限定の朝顔がアレンジされていました。

日本一短い手紙

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

本多重次が天正三年(1575)長篠の戦いの陣中から妻に宛てたとされる手紙を書き記し「本多重次」名の朱印を押した御城印です。お仙の父、本多重次が嫡男仙千代と武士にとって大切な愛馬の事を心配した内容で、お仙は後に丸岡城代になりました。こちらも夏季限定花火バージョンです。

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