【京都府】平安の庭と鳥羽伏見の古戦場/京都市城南宮・鳥羽離宮跡

京都府伏見区は京都の歴史文化が詰まった地区で、伏見街道沿いにある伏見稲荷神社や伏見城跡など観光スポットがありますが、「伏見」と聞いて連想するのは、やはり平安時代と幕末期の場面ではないでしょうか。

鳥羽離宮跡

鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮の事です。その範囲は東西1.5km、南北1kmにもおよび、当時の日記には「都遷りがごとし」と言われるほどでした。現在と違って鴨川は東から南に流れ、西に桂川が流れて、水閣を築くのに絶好な地形でした。

造営は応徳三年(1086)に始まり、北殿・南殿・泉殿・馬場殿などが相次いで完成し船で行き来していました。現在の安楽寿院を含む東殿には、三重塔三基、多宝塔一基が築かれました。このように東殿の区域は、死後の世界を用意したもので、まさしく極楽浄土を現世に築きあげたことが分かります。

これらの塔には白河法皇(成苔堤院陵)や鳥羽法皇(安楽寿院陵)、近衛天皇(安楽寿院南陵、再建多宝塔が現存)の遺骨が収められ、墓前にお堂が造られました。写真:安楽寿院

こちらは【第七十四代】鳥羽天皇安楽寿院陵です。父君の堀河天皇が29歳の時に病で崩御されたため、白河法皇の御意志により五歳で即位。皇太子は崇徳天皇。白河法皇が崩御されると、鳥羽上皇が代わりに院政を始めました。

近衛天皇安楽寿院南陵。崇徳(すとく)天皇から皇位を三歳で引き継がれた第七十九代天皇です。まだ幼いので当然鳥羽上皇が院政を強固にして支えましたが、眼病により十七歳で崩御されました。

こちらは第七十二代白河天皇成菩提院陵です。白河天皇は延久四年(1073)後三条天皇から二十歳で皇位を継ぎ、後に堀河天皇を即位させ院政を敷き上皇となられました。

院政最盛期の証でもある鳥羽離宮跡は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していきました。

方除の大社 城南宮

赤い鳥居と奥の御八代が美しい「城南宮」。歴史は古く、延暦十三年(794)都の守護と国の安泰を願い平安遷都の際に京都の南に創建されました。御祭神は、城南大神(国常立尊・八千矛神・息長帯日売尊。引越・工事・家相の心配を除く「方除(ほうよけ)の大社」と親しまれています。

白河上皇 雪見の御幸

「城南宮を取り囲むように広大な離宮を築き、院政を行われた白河上皇は雪見がお好きで、牛車に乗って雪化粧の離宮を巡られた」

源氏物語 花の庭

こちらには、「源氏物語 花の庭」という庭園があり、春の山・平安の庭・室町の庭・桃山の庭・城南離宮の庭など各時代を庭園で表現されています。北側の庭と南側の庭があり、期間によっては両方拝観できます。

拝観料は800円でしたが、期間によって違うようです。神苑は、思っていたより広く、神社の周りをぐるっと回るようになっています。午前9時〜午後4時半まで。コースは、神社横の社務所で拝観料を払いチケットを貰い、春の山→平安の森北側の庭を巡り、

中出口の門から出ると向かい側にまた入口受付がありますので、チケットを見せて「南側の庭」(城南離宮の庭→室町の庭→桃山の庭)に入リます。

「目の前の築山は、城南宮の神域とともに城南(鳥羽離宮)の数少ない遺構の一つで、「春の山」と伝わる。そもそも城南離宮とは、平安時代末期、鴨川下流、水郷景勝の当鳥羽の地に白河・鳥羽上皇によって造営され、以来後白河・後鳥羽上皇に至る院政の府であり、寝殿・阿弥陀堂など堂塔の建築群と広壮な園池からなる平安文化の美の象徴であった。

神苑の全域にわたり椿・梅・桂・撫子・若菜・双葉葵・萩など源氏物語出所の植物百種を植栽し、我国唯一の源氏物語花の庭になっています。左端の草木は、くまつづら科の「紫式部」という名の植物です。もちろん作者の名前に由来しています。

平安の庭

平安の庭は、平安時代をイメージして庭園になっています。

中の島(神仙島)池の汀の野筋(秋野)の景観は、平安絵巻絵さながらで「曲水の宴」の遣水(やりみず)が流れ、春の山吹、秋の七草などの景色は野趣に富む。

「曲水の宴」(きょくすいのうたげ)は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事で、毎年4月29日と11月3日に平安の庭で行われています。

平安の庭を拝観した後、中出口から一旦参道に出て東入口(マップの赤い矢印)に入り室町の庭の方へ入ります。

室町の庭

女瀧・男瀧・守護石・礼拝石・蓬莱島(亀石)の石組は和敬清寂の池泉廻式庭園。鯉が泳ぐ池の上には八重の紅枝垂れ桜の枝が伸びています。

桃山の庭

芝生の海、海岸線に岩島が続く豪快な枯山水庭園、つつじが美事に咲くそうです。茶の湯の世界の侘び寂びを表現しているのでしょうか。

室町の庭の一画に見事に真っ赤な「赤松」があります。

もみじの丘

大きくはありませんが、文字通り〝もみじ〟尽くしのコーナーです。秋の紅葉シーズンでしたので真っ赤に染まっていました。

城南理宮の宮

かつての城南離宮の建築群と築山や池泉を縮尺して表現した枯山水庭園です。

しばし、絵巻物の世界に浸った後は、参拝した後はおみくじです。

こちらでは白馬の神馬おみくじがありました。何故かは御朱印をいただく時に分かりました。

御朱印

【城南流鏑馬発祥の地】にちなんだ切り絵御朱印です。なるほど。

こちらは通常の御朱印です。摂社の真幡寸神社の分もいただきました。

流鏑馬と城南宮

応徳三年(1086)白河上皇が院政の拠点として城南離宮(鳥羽殿)を営まれると城南祭は一層賑わい、鳥羽上皇もご覧になられました。神興行列が華やかに進み、馬場(現在の石畳の参道一帯)で流鏑馬や競馬が披露されました。

承久三年(1221)五月、後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者備えと称して兵を集め、鎌倉幕府執権北条義時追討を図られました。はじめて朝廷側と武家側の対決という構図となったこの戦いは、武家側の勝利に終わり、後鳥羽上皇は隠岐へ配流され同地で崩御されました。写真:後鳥羽上皇

錦の御旗と鳥羽伏見の戦いの地

慶応四年(1868)正月三日、城南宮の一帯に布陣した五百数十名の薩摩兵は、小銃に弾を込め、西参道に四門の四斤山砲を据えて都を目指す旧幕府軍を待ち受けます。大群が強行突破使用とするや砲撃、ここに鳥羽伏見の戦いが始まりました。

西郷隆盛や大久保利通らの朝廷への働きかけが実り、四日、仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任命されて錦の御旗が翻り、官軍となった薩摩や長州勢の士気が高まります。

御所から東寺の本堂に入られた征討大将軍は、五日、錦の御旗を押し立て鳥羽街道を南進、鳥羽、淀、伏見を巡見されました。

徳川慶喜は六日夜に大坂城を脱出、船で江戸へ戻ります。こうして官軍が勝利を治めるのです。写真:東寺(京都)

錦の御旗の始まりと明治維新

錦の御旗は、承久三年(1221)五月、後鳥羽上皇が城南離宮の馬場(現在の城南宮参道)で行う流鏑馬にこと寄せて兵を募られ、赤色の錦の旗を十名の武将に授けたことが最初と言われています。

この承久の乱から六百四十年余り、慶応四年正月三日の城南宮参道からの砲撃によって、鳥羽伏見の戦いが始まりました。そして再び錦の御旗が翻って大きく歴史が動き、九月、明治と改元されました。

明治天皇の大坂行幸

新国家の方針五箇条の遵守を天皇・公卿・藩主らが京都御所で天地神明に誓って(五箇条の御誓文)から七日後の三月二十一日、数え十七歳の明治天皇は大坂に向かわれ、その途中、城南宮にお立ち寄りになりました。城南宮では紀州藩の兵士二百名が守衛に当たります。

鳥羽離宮跡公園

城南宮と国道1号線の大きい道を挟んだ向かい側にある「鳥羽離宮跡公園」があり、南側には鳥羽殿もあったようです。

かつて、ここに鳥羽離宮があった事を記す石碑が建っています。

こちらは「鳥羽伏見の戦いの勃発地 小枝橋」と記されています。「小枝橋は、慶応四年(1868)正月三日、京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。

大政奉還し大坂城にいた徳川幕府十五代将軍慶喜は、薩摩を討つため城らくを決意します。大坂から淀川を上って竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府本体が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。

これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。

幕府側

将軍様が勅命で京に上るのだから通せ

新政府軍

勅命ありとは聞いていない!!

新政府軍との押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がアームストロング砲を発射し、この砲声を合図に幕府軍1万五千と新政府軍六千の激しい戦いが始まりました。

こうして始まった戊辰戦争は、よくとしの函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」は、ここ伏見から始まったと言えます。」

周辺の立ち寄りスポット

京都市営地下鉄・近畿鉄道 竹田駅

最寄りの駅ですが、城南宮から少し離れています。

竹田駅から城南宮周辺を通る路線バスも多いので利用できます。今回は徒歩で途中の鳥羽離宮跡、天皇の御陵を散策しながら城南宮に向かいました。

城南宮にはシェアサイクルのステーションもありました。

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