京都御苑西側の京都大宮御所近く「寺町通り」沿いにある天台圓淨宗廬山寺は、平安時代中期の長編古典小説「源氏物語」の執筆者紫式部の邸宅跡として知られています。

すぐ近くの京都御苑『清和院御門』(現在位置)には有料駐車場があります。この門から道に出て北へ3分ほど歩くとお寺に着きます。

天台圓淨宗 廬山寺

「現在の廬山寺(ろざんじ)は、豊臣秀吉の時代にこの地に移されたもので、正しくは廬山天台講寺という。もとは天慶元年(938)に慈恵大師良源(元三大師)が船岡山南麓に開いた與顔金剛院に始まる。

(中略)四辻善成の『河海抄(かかいしょう)』に、紫式部邸の位置が「正親町以南、京極西頰、今東北院向也」とあることから、この地を紫式部邸宅跡と推定している。

また、曽祖父の堤中納言こと藤原兼輔の屋敷があった地で、式部の父の藤原為時に譲ったことから、ここで『源氏物語』や『紫式部日記』が執筆されたという説があり、平安時代の貴族邸を模した庭には式部邸宅跡の顕彰碑が立つ。」

この地が紫式部の邸宅跡と分かったのは、昭和40年頃で諸文献の考証により比定されました。それを記念して石碑・庭などがあります。

「有馬山 ゐなのささはら 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする」(小倉百人一首58番)
ー有馬山から猪名の笹原に風が吹けば(笹の葉が)そよそよ(そうよ)と音をたてる、人(来ないあなた)をどうして忘れられようか。ー作者は名を藤原賢子(ふじわらのかたいこ)、父は藤原宣孝、母は紫式部。

長保二年(1000)に出生、永保二年(1082)に薨じた。親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母となり、従三位典侍に昇進した。三位である共に太宰大貳三位(だいにのさんみ)と呼ばれた。歌人としては母親に匹敵するほどの才女で、歌集「大貳三位集」を遺した。極めて聰明で人徳があり、乳母典侍として後冷泉朝の宮廷文化の昴揚に大きく寄興した。

「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」(小倉百人一首57番)ー久しぶりにめぐり会って、それかどうか見分けるまもなく、雲に隠れてしまったあの夜半の月のように、あなたはあわただしく帰ってしまわれた。お名残りおしい事です。ー

作者の紫式部は、越後守藤原為時の娘で、名は香子と言ったらしい。生年は天延元年(973)頃、没年は長元四年(1031)頃と推定される。夫・藤原宣孝の卒後、中宮・藤原彰子に仕えた。

中古三十六歌仙のひとりとされ、大作『源氏物語』の他「紫式部日記」「紫式部集」といった作品がある。その文名は広く知られており、ユネスコによって世界の偉人のひとりに選定されている。
源氏庭

白砂と杉苔のコントラストが美しい平安期の庭園『感(かんじ)』を表現した作庭です。杉苔は大和絵の雲鳥を模し、白砂には箒目は入っていません。お寺の中は撮影NGですが、こちらの庭は撮影できます。毎年6月末から9月の初めまで『紫色の桔梗の花』が咲くそうです。
御朱印

御朱印は沢山種類があり迷います(6種類ほど)。

その他にも紫式部に関連するものを取り扱われていたので、少しお財布に余裕が必要です。





















