【岩手県】義経・弁慶最期の地と中尊寺金色堂/西磐井郡平泉町

 平安時代末期に起きた源氏と平氏による源平合戦。兄の源頼朝公が掲げた武家政権樹立の〝功労者〟〝源氏の英雄〟でありながら〝悲運の最期〟を遂げた源九郎義経公。歴史上の人物の中でも、抜群の知名度と人気を誇るその武将を匿い支えた藤原氏ゆかりの地「奥州平泉ロマン」をめぐります。

JR東日本 東北本線 平泉駅

最寄りの駅は「JR平泉駅」。世界遺産の歴史ある地域なのもあり、それを意識した駅舎になっています。駅前も綺麗に整備されていてとても清潔感があります。駅舎左側にはロッカーもあり、重い荷物の人も安心です。

駅の中には観光案内所もあります。七夕祭りのシーズンでしたので、大きな吹き流しが飾ってありました。座れるベンチもありますが、空調はないので夏場は少しキツイです。二つ隣りの「一ノ関駅」には冷房付き待合室がありましたので、そちらを多く利用しました。

JR平泉駅の隣りには、レンタサイクル屋さんがあって便利です。電動アシストもあり、手荷物も無料で預かってもらえます。朝は8:30から営業しています。

壁に各観光地や史跡への道のりマップがあり大体の所要時間がわかります。レンタサイクル屋さんでもマップがいただけます。平泉駅から中尊寺へ向かう線路沿いの道を通れば、比較的効率的に回れます。では、早速スタート!

無量光院跡むりょうこういんあと

最初に訪れたのは一番近くにある〝無量光院跡〟。一面に広がる緑の絨毯、所々に小さな池があるこの場所は、平安時代末に奥州藤原氏三代秀衡公が建てた寺院の跡です。浄土庭園として知られ、三方が土塁に囲まれた境内には、梵字が池と呼ばれる池跡があり、その中に本堂跡の礎石が残る西島跡と東中島跡があります。

「吾妻鏡」によると、宇治の平等院を模すと記されています。昭和27年に行われた発掘調査によって本堂の形などが、平等院鳳凰堂に似ていることが確認されました。

中尊寺通り

その先には、綺麗な白い石畳が敷かれた「中尊寺通り」が続いています。しばらく進むと「高館義経堂→」という案内標識が見えてきます。

その案内標識に従い、右に折れ少し鬱蒼とした山道に入っていきます。

義経公最期の地 高館義経堂たかたちよしつねどう

山道を登ってすぐの場所にある「高館義経堂」。石段入口横に受付所があり、入山料は300円になります。

御朱印と義経勝守をいただきました。他にも弁慶の御守りもありました。

階段を上った奥に「高館義経堂」があり、御堂には源義経公の座像がおられます。

「ここ高館(たかたち)は、義経最期の地として伝えられてきた。藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。

文治五年(1189)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。時に義経三十一歳。吾妻鏡によると義経は「衣河館(ころもがわのたち)」に滞在していたところを襲われた。

今は「判官館(はんがんたて)」とも呼ばれるこの地は「衣河館」だったのだろうか。ここには、天和三年(1683)伊達網村の建てた義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。

頂上からの眺望は随一で、西の遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲の山並みが眺められる。束稲(たばしね)山は、往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。

また元禄二年、俳聖松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ「夏草や 兵どもが 夢の跡」は、この場所だと言われている。

義経資料館

義経堂の隣にはミニ資料館があり、義経公の歴史をわかりやすく説明されています。

平治元年(1159)父源義朝公と母常盤御前との間に九男として生まれた源九郎義経公。幼名は牛若丸。翌年に起きた平治の乱で父の義朝公が敗死、母常盤御前と兄と共に逃亡しますが、大和国宇陀郡竜門牧にて自首し平清盛公の元に置かれます。

母と引き離された牛若丸は、8歳(11歳とも)の時に京の鞍馬寺へ預けられ、そこで遮那王(しゃなおう)と名乗ります。16歳になった治承元年(1177)、僧にならず鞍馬寺を出奔した遮那王は、三年後に似仁王の平氏追討令により伊豆で挙兵した源頼朝公と駿河国黄瀬川宿で兄弟の対面を果たし家臣となりました。

以後の武勇はご存知の通り、木曾義仲追討、一ノ谷合戦、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなどでの活躍で時代の寵児となりました。写真:壇ノ浦古戦場跡(山口県下関市)

義経公の人物像

「義経が在京中のことである。後白河法皇の皇子守覚法親王は密かに義経を招いて親しく懇談した後、「源廷尉(義経)ただなる勇士にあらざるなり。張良三略、陳平六奇、その芸を備えその道を得た者か」と賞賛した。義経の戦争は常に短期決戦である。また義経配下には当時の武士団にありがちな傍若な振舞や乱暴狼藉がことさら少ない。

義経の願うところは、一に平氏の追討であり、二に混乱した秩序の回復であった。「自専の慮をさしはさみ…偏に雅意に任せ、自由の張行をいたす(吾妻鏡)」というような独断専行の性向があったことも事実だろうが、「武勇と仁義においては後代に佳名をのこすものか(玉葉)」「もののふなれど情けあるおのこ(平家物語)」いわゆるナイス・ガイだったことは想像に難しくない。

将軍頼朝公との対立

将軍頼朝公に無断で後白河法皇より検非違使左衛門尉という官職を受けた事や梶原景時の書状(義経は手柄を独り占めするなどの苦情)により、武家政権運営の障害になると危機感を募らせた頼朝公は、鎌倉への入国を禁じたばかりか、文治元年(1185)義経公の所領を没収しました。(諸説あり)写真:源頼朝公肖像画

それは誤解と反発した義経公でしたが、もはや関係が修復不可能となると朝廷より頼朝追討の宣旨と伊予の所領を賜り西国の頼朝軍と戦いました。しかし、何故か今度は朝廷より義経追討の院宣が諸国に下され、一転追われる立場になってしまいました。

一時は吉野山で山伏姿となり身を隠しますが、静御前は捕らえられてしまいました。その後、比叡山〜奈良〜伊賀〜美濃〜米沢を経て奥州平泉の藤原秀衡公の元へ向かいました。写真:吉野山義経の隠れ塔(奈良)

義経公の最期

「文治五年閏四月三十日、今日泰衡(やすひら)が義経を襲撃した。これは朝廷の命に依ったものであり、鎌倉殿の仰せに従ったものでもある。泰衡は数百騎の兵を従え、藤原基成の衣河館にいた義経と合戦に及んだ。

防戦した義経の家人らは全滅し、義経は持払堂に入り、妻二十二歳と娘四歳を殺害した後、自殺した。前伊予守従五位源臣義経 年31」。こちらは高館義経堂から離れた場所に妻子の墓があります。

高館で悲しくも梅雨と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内でここから300m程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷したようです。

それから逝世紀かが経過するうち、英雄の散り果てた所は「高館」と呼ばれる地に定まって、以後長く伝えられることになる。幻想の義経主従の最期の戦いに想いを馳せる文人墨客を招き寄せ、涙を絞る風景がそこにあった。それもまた歴史となって語り継がれる。

常盤御前ときわごぜん

常盤は保延四年(1138)京都の生まれと想定されている。1000人に1人の美女として13歳で九条院に仕え、16歳で源義朝に嫁し、以後七年の間に三子すなわち全成(今若)。義円(乙若)・義経(牛若)を出産した

夫義朝が討死したのが23歳のこと、その後、敵将平清盛のもとに置かれ一女をもうけ、間もなく一条大蔵卿藤原長成に再嫁し、長成との間には能成と女子が生まれている。44歳の年、義円が討死したのをかわきりに、四年後には義経没落に連座して能成が解官、常盤自身も鎌倉方に捕縛されている。

義経が自害した春、常盤は52歳になっていた。常盤の没年は定かでないが、長子の全成が源頼家に謀殺された時まで存命していれば、それは66歳の夏のことであった。

静御前しずかごぜん

義経公は伝説世界では好色で知られる男だが、史実として確認される義経公の妻妾は、正妻の河越重頼娘、側室の平時忠娘、そして白拍子の静の三人である。歴史上静の存在が確認できるのは、文治元年(1185)10月から翌年九月までの1年余りに過ぎない。

武蔵坊弁慶むさしぼうべんけい

武蔵坊弁慶は、架空の人物か?答えは否である。大物浦で難破し吉野山中へと逃亡した義経の数少ない郎等の一人として弁慶の名が「吾妻鏡」に記されており、研究の間ではその実在が概ね認められている。

とは言っても五条橋の決闘や三井寺の引き摺り鐘、あるいは安宅関の勧進帳や弁慶の立ち往生を史実と見ることは勿論出来ない。史実の義経の周辺には北国落ちに協力した比叡山の僧兵俊章や、京と平泉の連絡役を勤めた千光房など弁慶伝説の中に仮託されて言った僧兵が多数実在していた。

こちらは、JR米沢駅近くにある「常信庵」というお寺で、花沢城主、佐藤庄司正信(奥州藤原氏の重臣、佐藤元治の一族)が忠信兄弟の菩提を弔うため建立しました。佐藤兄弟の兄継信は屋島の戦いにて平家の能登守教経が放った矢から義経を守り、身代わりとなって討死した人物です。

弟の忠信は、兄頼朝と不和になった義経とその一行が吉野山に逃れたとき、危うく僧兵に攻められそうになるところ、自らの申し入れで僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させ、のちに六條堀川の判官館にいるところを攻められ自刃を遂げた人物です。東北に逃れた義経公もこのお寺に立ち寄り「きゃらぼく」の木を植えて菩提を弔ったというロマンがあります。

弁慶の墓所

武蔵坊弁慶のお墓は、高館義経堂から600mほど離れた中尊寺参道入口の手前にあります。体格に見合った大きな墓石です。

文治五年(1189)義経の居城高館焼き打ちされるや、弁慶は最後まで主君を守りついに衣川にて立ち往生す。遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ石碑が建てられた「色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊」

中尊寺ちゅうそんじ

ご存知の通り奥州で栄華を誇った藤原氏の本拠地である「中尊寺」。おとづれた令和六年は世界遺産である金色堂が建立900年となるため記念の看板が設置されています。義経公を匿ったことにより、後に藤原氏は滅亡させられます。

中尊寺の境内は周囲5.4km、面積約134万平方メートルにおよびます。前九年合戦、後三年合戦の後、奥州藤原氏初代清衡公は、奥州世界の中心、関山丘陵に中尊寺の造営を始め、大伽藍(だいがらん=大きな寺院)を完成させました。

「吾妻鏡」に記される堂塔四十余宇、禅坊三百余宇のうち、金色堂が現存するほか、発掘調査で平安後期の堂宇跡や、大池、三重の池などの園池跡が確認されています。

名物 弁慶餅

参道は長い上り坂で結構きついですが、途中に茶店やお寺がありますので休憩できます。こちらは名物の「弁慶餅」が販売されている茶店です。室内はクーラーが効いてますので暑い夏は助かります。

こちらがクルミ醤油タレが塗られその場で焼いてくれる「弁慶餅」。とてもふんわり柔らかく美味しいお餅です。1本330円くらいだったと思います。

茶店内で食べる事が出来て、そのほかにもソフトクリームなどがあります。壁には弁慶に因んだ薙刀が飾られています。

弁慶堂

茶店の先にある「弁慶堂」。その名の通り武蔵坊弁慶が祀られているお堂です。

弁慶堂には、「勝軍地蔵菩薩」「弁慶立往生木造」「義経公坐像」「弁慶自作立像」「弁慶主従笈」「草花天井絵画」そして御朱印所もあります。

お堂の中には弁慶と義経公の木造が安置されています。迫力ありますね。

主君の義経公の坐像も見えました。

境内には、フォトスポットのくり抜きパネルがあります。〝弁慶の立ち往生〟でしょうか。

御朱印は二種類あります。書き置き1枚800円だったかと思います。弁慶に因んだ御守りが販売されています。

月見坂

弁慶堂の横には月見坂という上り坂があり、展望所から平泉の風景を眺めることができます。奥州藤原氏の時代に思いを馳せられる場所です。

中尊寺本堂

長い坂道を上ると「中尊寺本堂」が見えてきます。中尊寺は平安時代の嘉祥三年(850)、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山された寺院です。前九年・後三年の合戦を経て、安倍氏、清原氏から藤原清衡公へと引き継がれ奥州藤原氏の本拠として仏教文化の栄華を極めました。

「御本堂は明治四十二年(1909)の再建で中尊寺の山内十七ヶ院を包括する中心道場。奥州藤原氏の追善、天台宗各祖師の御影供、正月修正会など、一山の法要のほとんどがここで厳修される。」

御本堂の拝観も出来、御朱印所があります。

奥州藤原氏三代の墓所 金色堂

参拝客のお目当ての中尊寺金色堂は、本堂の先にあります。「讃衡蔵(さんこうぞう)」、いわゆる宝物館兼資料館でしょうか。そちらで拝観券を購入する必要があります。

建物の右側に拝観券が販売されています。讃衡蔵の中には、中尊寺金色堂の装飾品である夜光貝や映像で藤原氏の歴史が放映されています。「撮影はNG」ですのでお気をつけください。

金色堂も撮影NG讃衡蔵内でも唯一撮影がOKなのは、こちらのパネルだけです。実物もとても黄金で美しく、記念すべき年に来られて良かったです。天治元年(1124)、奥州藤原氏初代清衡公が当時の最先端の工芸技術を結集させ、仏教の極楽浄土の有様を表現した清衡公往時の御堂。南宋の歴史書にも登場し、これを見た貿易商人たちによって日本が「黄金の国ジパング」として世界に伝わりました。

中尊寺金色堂は、豪華な黄金の建物なだけではなく、奥州藤原氏四代のお墓でもあり、平安時代に栄華を誇った初代藤原清衡公、二代基衡公、三代秀衡公、四代泰衡公が黄金の棺の中で眠っておられます。

金色堂でも御朱印がいただけます。こちらは通常の御朱印ですが、建立900年記念版もありました。

金色堂にも句碑があります。俳聖松尾芭蕉翁が訪れ一句詠まれました。「五月雨の 降り残してや 光堂(ひかりどう)」 

話は逸れますが、昔の瓶コーラの自販機がありました。レトロですね。流石に派手なアメリカンな赤い自販機が景観を損なうと感じたのかは知りませんが、ラッピングではなく、本物の木の板を貼り付けて昔風にしていました。栓抜きで開ける感覚覚えてますか?

今回お世話になったレンタサイクル。電動アシスト付きでしたので、すごく楽に、予定より速く回れました。ありがとう。

JR東日本 一ノ関駅

こちらはJR平泉駅の二つ南の「一ノ関駅」。秋田新幹線との接続駅でもあるので、大きな駅舎です。看板にありますが、温泉郷もあるので大きなバスロータリーがあります。

駅前のある交番と電話ボックスもこのように「歴史ある平泉」の景観を意識した建物になっています。

一ノ関駅の駅舎内は冷房の効いた大きな待合室の中に土産品店、駅弁当屋、立ち食い蕎麦屋さんがあり、待ち時間を潰すにはとても便利です。

夏の暑い時期でしたので、ぶっかけおろしそばをいただきました。他の方は熱々の鶏舞うどんをハフハフしながら食べていました。

気になる駅弁も4種類あります。迷いますよね。

こちらは「やまびこ弁当」。色々食材が入っている、いわゆる幕の内弁当ですね。1200円になります。

ライバル梶原景時と頼朝公の苦悩

兄頼朝公との対立によって悲運の最期を遂げた義経公。その一因に、頼朝公の腹心「梶原景時」という武将の存在がありました。梶原景時は、挙兵直後の石橋山合戦に敗れ、山中の洞窟に潜んでいた頼朝公を見つけた際、

梶原景時

お助けしましょう、もし戦に勝ちましたら、お忘れなきよう。

と言って敵軍ながら見逃し安房に逃れさせた人物。頼朝公にとっては「命の恩人」。彼は後に頼朝公が大軍を率いた時、子の景季と共に馳せ参じ見返りとして寝所の警固を任され「一の郎党」として地位を得たのでした。そこに彗星の如く現れた〝戦の天才〟弟の義経公。頼朝公を支える二つの剣は、その後、何度もぶつかり合う事になります。

元暦元年(1184)一ノ谷決戦(鵯越え)での一幕。

源義経公

我ら搦手から突入いたす。範頼殿(兄)は敵陣正面の森へ出て、攻めかかられよ!

と大将義経公が指示を出していると、軍監の景時が口をはさみました。軍監とは大将(義経公)の補佐役のこと。

梶原景時

平氏は五万余、我ら総勢でも二万に過ぎず、これを二手に分けるはいかがなものか。強いて挟撃策をとの仰せなら、鎌倉の援軍を待たれるべきと存ずるが。

源義経公

これは異なことを聞くものよ。我が軍監は、数で戦をすると思うておるか。九郎に従う者は小勢にて充分。兵の数が心配とあらば、景時、汝は範頼殿につけ!

そして合戦の結果は、小勢で向かった九郎義経公の奇襲戦法で源氏の大勝利に終わりました。

次いで讃岐國「屋島の合戦」でも同じような事態が。世に言う「逆櫓(さかろ)論争」

梶原景時

坂東武者は陸での戦は強いものの、水上での戦には慣れておりませぬ。この不利を補うには味方の船に逆櫓を立てるに如(し)くはなし。

源義経公

逆艪とは何か?

〝艪〟とは船尾に付ける長い棒のことで、人が手で左右に漕ぎ方向を変える道具。

梶原景時

船首と船尾の両方に艪をつけて進退の自由を図る策にて。

源義経公

初めから逃げ支度をしてどうするのだ。

梶原景時

お言葉であるが、無謀にもただ進むのは野猪武者というものにて。

源義経公

汝はそうするがよい。この義経は、サカロだのニゲロだのというものはいらぬ。それに、この義経はいやしくも鎌倉殿の代官であり、三軍の将。それを臣下の分際で野猪武者呼ばわりするとは何事か。

両者が太刀を抜きかけたところを、周りにいた三浦義澄、畠山重忠、土肥実平が止めに入る騒ぎとなりました。軍議の後、わずか五十騎で出陣した義経公は屋島の奇襲に見事成功し、景時らが率いる船団が到着したのは、平氏軍が敗北して逃げ去った後でした。またもや失態をした景時。

瀬戸内の制海権を掌握した義経公は、三月二十四日、ついに長門国壇ノ浦の合戦にて平氏を殲滅。出陣から平氏滅亡までわずか40日、驚くべき大戦果を挙げました。一方、幾度も失態で恥をかいた景時。二人の溝は埋まらぬどころか、さらに深くなりました。それは戦以外でも。

梶原景時

六条の館は源氏の棟梁が住まう所。鎌倉の御所を差し置き、はてもさても九郎殿は分ををわきまえぬ御方だ。

「文筆に携はらずといへども、言葉を巧みにするの士(吾妻鏡)」と言われた景時より悪意をもって伝えられた数々の書状によって、鎌倉の頼朝公の心も揺らぎました。数々の苦渋を味わった梶原景時にしてみれば、ゆくゆくは梶原一族が頼朝公の片腕となり畿内・西国を支配への思惑があったのでしょう。

「命の恩人」の梶原景時を信じるか。「肉親の弟」をとるか。頼朝公の苦悩が思い浮かびます。義経公がいなくなり喜んだであろう梶原景時の命運も正治元年(1196)頼朝公の死によって尽きました。一年後、御家人衆66名の糾弾を受け、西国の領地を向かう途中、一族もろとも抹殺されてしまいました。それぞれの数奇な運命に思いを馳せ、平泉を旅してみてはいかがでしょう。写真:源頼朝公肖像画

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