【愛知県】徳川家康生誕の城/岡崎市 岡崎城

 「徳川家康公生誕の地」で有名な観光地となっている愛知県岡崎市にある岡崎城。「東海道の要所」として数多くの譜代大名が城主になり治めた岡崎藩。そちらを探訪してみましょう。

現在の岡崎城は昭和三十四年に三層五階の鉄筋コンクリート製で復元された復興天守で、昔のお城の建物は明治六年に全て取り壊され、石垣と本丸西側にある家康公の産湯の井戸と言われるものが残っています。

場内にある甲冑に陣羽織姿の徳川家康公の銅像です。東軍と西軍に別れて戦った関ヶ原の合戦で勝利を収めた後、大坂の陣で豊臣家を滅ぼし江戸幕府を開いた将軍。もう説明不要の人物。こちらのお城で生誕されたので像があって当然。城内には他にも銅像が沢山あります。

若き日の家康公が松平元康の頃の騎馬像。日光東照宮の方向を向いています。

こちらは徳川四天王の本多忠勝公の像。名槍「蜻蛉切」も持たれています。

こちらは肖像画でおなじみに家康公の「しかみ像」。三方ケ原の戦いで武田軍に大敗し多くの部下を失ったことに対して自戒の念を忘れないように描かせた肖像画がモデルとなっています。

残念ながら、訪れた時にお城は改修工事の真っ最中で立ち入り禁止。現在は工事が終わり歴史資料館になっているようです。最上階からは岡崎市内を爽快に一望できるようです。

歴代の城主

享徳元年(1452)三河守護だった仁木氏の目代(役人)西郷氏の一族、弾正左衛門稠頼(つぎより)により矢作川の東岸に当たるこの地に築城が始まり、三年後の康正元年に完成しました。築城の最中、上空に龍神が現れ城の守護神になる事を約束した伝説により「龍城」とも呼ばれました。

その頃、北方の山間より攻めて来た松平氏の勢いが凄まじく西郷稠頼の子の頼嗣は、松平信光の子の光重を養子にして難を逃れようとしますが、大永四年(1524)その光重の養子である信貞の時、安祥城主松平清康によって信貞は城を追われ以後、岡崎城は清康の孫の家康公の代まで松平氏の本拠地となりました。

家康公の誕生

天文十一年(1542)十二月二十六日に、このお城で松平竹千代(のちの家康公)は生まれました。ですが父の広忠の死後、今川氏の駿府へ人質として送られ暮らす事になります。岡崎城には今川氏の山田新左衛門らが城主として入りました。駿府での人質生活は厳しく、毎日集めた薪を荷台に乗せて売り歩いて生活していた竹千代。やがて元服し、今川義元から「元」の一字を賜り「二郎三郎元信」と名乗ります。築山殿と夫婦になり、名前を「元康」と改名しました。

 やがて転機が訪れます。永禄三年(1560)今川義元が兵を挙げて上洛途中、織田信長との桶狭間の戦いで横死すると、今川勢は岡崎城を空にして一目散に駿府へ引き揚げて行きました。かくして十二年目にして晴れて元康は故郷の岡崎城の城主に返り咲きました。解放されたのを機に元康から「家康」に改名しますが、小豪族の松平氏のままでは「三河守」という守護への叙任が朝廷から下りないことから系図を偽り藤原氏や源氏にゆかりのある「徳川」へ改名し晴れて公家および守護大名になる事が出来ました。

嫡男信康とその母の死

家康公が今川氏の旧領であった遠江(静岡県西部)に侵入し、元亀元年(1570)浜松城へ移ると、嫡男の信康が岡崎城の城主になります。しかし、天正七年(1579)信康とその母筑山殿は武田氏と通じているとの嫌疑がかかり、織田信長公の命で筑山殿は斬られ、信康は自害させられました。介錯は家康公との命でしたが、出来ず側近の服部半蔵に頼みました。

その後、岡崎城には石川数正が城代として入りましたが、天正十三年(1585)豊臣秀吉公の誘いにより岡崎城を捨て大坂へ出奔してしまったため、本多重次が城代へ。天正十八年(1590)家康公が浜松から江戸へ移ると、今度は秀吉公の家臣田中吉政が近江八幡から五万石で岡崎城主に。さっそく城下町の整備と築城に取り掛かりましたが、お城は地震で倒壊していまいます。慶長五年(1600)関ヶ原の合戦後に田中吉政は筑後久留米に移り、替わって本多康重が上州(群馬)から入城します。

栄華を極めた本多氏時代

城下町の整備を引き継いだ本多康重の子康紀と次代の忠利の時、お城の大々的な改修が行われ、元和三年(1617)には初めて三層の天守閣が築かれました。とても美しいお城だったようでドイツ人医師でオランダ商館から来たケンペルは「城の中央の高い塔は、その西南に面した側の姿が最も鑑賞にあたいする」と述べた。城西を流れる矢作川と南側の支流菅生川は上り下りの川船で賑わい、「五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く」と言われるまでに。

本丸の入り口には家康公の遺言が座刻まれた石碑があります。「わが命旦夕に迫るといへども 将軍斯くおはしませば天下のこと心安しされども将軍の政道その理にかなはず億兆の民 艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし天下は一人の天下に非ず 天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし 元和二年 四月十七日」

龍神神社

お城の横には岡崎東照宮龍神神社があります。龍神まさに守り神の神社です。

こちらでは通常の御朱印の他に、毎年十二月二十四日から家康公の生誕日である十二月二十六日までのの三日間だけの限定御朱印があるようです。

御城印を二の丸から降りた駐車場の受付でいただきましたが、お城の改装中のための臨時処置だと思われ、通常はお城の中での販売されていると思います。

JR東海 岡崎駅

JR岡崎駅。コンクリート製のまだ新しい綺麗な構内でした。

家康公というとやっぱり江戸をまずイメージしますからねぇ。

最近、駅の構内に増えて来たピアノです。こちらもご当地らしいラッピングがいてあり高級感ある仕上がりでした。

家康公の右腕 本多正信

 徳川家康公には、常に右腕となる側近がいました。その名は「本多正信」。家康公とはまさに一心同体で、「君臣の間、相違うこと水魚のごとし」(魚は水が無ければ生きいけない)と言われるほど一番信頼を寄せる人物。江戸幕府の創設にあたっては、この人が大きな役割を果たしました。

正信の先祖は豊後(現在は大分県臼杵市にある本多館跡)本多郷の出身で、足利尊氏に仕えた本多助定が尾張の横根郷と栗飯原郷を賜って移り住み、その子孫が三河の松平泰親家と主従関係を結びました。家康公より四歳年上で幼い頃より家康に仕えました。今川義元が桶狭間で横死したのち、三河に帰り独立戦争を起こした家康公。「家康に忠義する三河武士団」対「反抗する一向一揆衆」との合戦。正信は恩義を受けていた酒井将監の勧めで、一揆側に加わり上野城に立て籠もりました。結局、その一揆側は家康公に鎮圧され、正信は改易、妻子を三河に残したまま他国に追放されました(二十七歳)。

 京都の松永久秀のもとに身を寄せていましたが、久秀が将軍義輝を討った後離れ、一向宗が強い加賀へ向かいました。元亀元年(1570)家康公が織田信長の求めに応じて遠州浜松から敦賀に遠征した姉川の戦い時、大久保忠世からの連絡で家康公の陣を訪ね、帰り新参として受け入れられました。大久保忠世とは、困窮のどん底にあった正信の妻子へ米や味噌を送って面倒をみていた人です。

関ヶ原での正信

関ヶ原の合戦では、正信は忠隣とともに秀忠公の補佐役として、秀忠軍の編成、兵站、作戦など全てを任され采配を振るいました。家康公が自分の後継者として秀忠公へ期待する気持ちを汲み取り二人とも気合いが入っていましたが、宇都宮で軍を編成し中山道を経由して上方へ向う途中に事件が起きます。「繰り引き事件」です。

東軍に恭順を促す家康公を拒絶した信州上田の真田昌幸・幸村親子の上田城へ迫った際、近くに隠れていた上田の伏兵と遭遇。すると秀忠軍の牧野新次郎がいきなり突きかかりました。続いて大久保忠隣や本多忠政、榊原康政の軍も真田軍に襲いかかり上田城まで一斉に追撃。この時、正信は下知させて追撃をやめさせました。

本多正信

軍令を待たないでいきなり戦うとは見苦しいぞ!早々に引き返すべし!

家臣たち

これが戦のやり方だ、戦を知らない佐渡の腰抜けが。

「繰り引き」とは戦いながら少しづつ兵を後退させる行動の事で、実戦ではあまり使わないので後々まで「佐渡の腰抜け」と嘲笑されました。しかし、これは正しい判断で、最高指揮者である秀忠公の許可も取らず勝手な行動をした家臣たちの方が悪く、家康公の意図を汲んだ正信の采配は見事でした。家康公は正信の事を、戦闘よりも政略・行政にあると見抜き、主にそちらへ起用され、正信も本領を発揮します。のちに四天王に代わり、大久保忠世の息子忠隣と共に側近中の側近となりました。

鷹狩り事件

 慶長十年(1605)秀忠公に将軍職を譲った家康公は大御所として駿府城にこもり、江戸と駿府の二元体制の政治を始めました。そして正信は忠隣と二人で秀忠公を支える老職に就くことになりましたが、お正月明けに家康公が行った鷹狩りで事件が起こりました。

鷹狩りが大変お好きな家康公、ご機嫌で東金の猟場へ出かけましたが、家康公専用の猟場内で勝手に網が張って鳥を捕っている者を発見。激怒した家康公が調べさせると、「総奉行の内藤や青山が許可した」と判明(鳥の害に困っていた地元の者が二人に相談し許可したの事)

徳川家康公

誰に断りがあって許可を出したのだ!許せん!

すぐさまその話は秀忠公へ届きます。驚いた秀忠公はすぐに内藤と青山を厳罰に処し、家康公が籠愛する阿茶の局に頼み二人を解任したと伝えさせますが、家康公の怒りは治らず困り果てた秀忠公。

徳川秀忠公

正信、なんとかならぬか

本多正信に相談しました。すると

本多正信

よろしい。拙者が大御所様に会って参りましょう。

そして、正信は東金の家康公の元へ向かいます。

徳川家康公

正信か。なんの用じゃ。

本多正信

実は大御所様、早く将軍職の補佐役を解かれて大御所様にお仕えしたく、今日はこうしてお願いに参上しました。

徳川家康公

なんじゃ。秀忠と何かうまくいかない事でもあるのか?

本多正信

そうではございません。大御所様が内藤と青山に怒っていると聞き、将軍秀忠様は直ちに両人を処罰しようとなさっています。されば私めも大御所様の趣に背くような事があれば、将軍秀忠様は必ず私めを処罰するに違いありませぬ。ですから早く大御所様にお仕えしたいのです。

………..。

徳川家康公

ははは…参った。一本取られた。分かった。処分は任せる。

ようやく家康公の怒りも収まり、結局、両名は謹慎処分で収まりました。一件落着。正信はその後も家康公の後継者秀忠公を支え続けましたが、元和二年(1616)七十五歳で家康公が亡くなると後を追うように病で亡くなりました。享年七十八。子の正純は、跡を継ぎ江戸に移り秀忠公のもとで父と同じく幕府を支えました。

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