【滋賀県】木曽義仲と松尾芭蕉の墓所/大津市義仲寺

滋賀県大津市の住宅地の中にある「義仲寺(ぎちゅうじ)」。旧東海道沿いのこの地域は、古くから粟津ヶ原と呼ばれ、琵琶湖に面して景勝地でした。こちらには平安時代末期の武将で有名な木曽(源)義仲公と松尾芭蕉翁のお墓があります。

「義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、室町時代末に佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。門を入ると左奥に俳聖松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は芭蕉門人又玄の作です。境内にはこの句を始め、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。昭和42年11月に国指定史跡となりました。

拝観料は300円で9:00〜17:00まで(11月〜2月は16:00まで)。休日は毎週月曜日

山吹塚(供養塔)

まず手前にある可愛い塚「山吹塚」「山吹は、義仲の妻とも妾とも云う。病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津道来て義仲戦死の報を聞き、悲嘆のあまり自害とも捕らわれたとも云われその供養塔である。元は大津駅前に塚が在り、改築のため此の地に移されたものである。」

巴塚(供養塔)

「木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で此処栗津野に来たが、義仲が強いての言葉に最後の戦いを行い敵将恩田八郎を討ち取り、(義仲公より死なぬよう諭され)涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕らえられた。和田義盛の妻となり義盛戦死の後は尼僧になり各地を廻り当地にしばらく止まり義仲の菩提を弔ったという。それより何処となく立ち去り信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う。」

木曽義仲公の墓

囲いの中に宝筺印塔「木曽義仲の墓」「治承四年(1180)義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上がってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なくこの地で討死されました。享年三十一。」

松尾芭蕉翁の墓

「芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅宿で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人。遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜此処に埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽義仲の右に葬る」と在り、今も当時のままである。現在は旧暦の気節に合わせて毎年十一月の第二土曜日に「時雨忌」を営む。」

境内庭園には「翁堂」が在り、紅葉の季節に訪れましたのでとても綺麗でした。

お堂の中には松尾芭蕉翁の坐像があり見学できます。「古池や〜」「奥の細道」「一期一会」は有名ですね。生涯で千を超える俳句を詠まれました。

巴御前ゆかりの無名庵

木曽義仲公が亡くなった後年、麗しい尼僧が訪れ、墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養をしていました。里人が問うと「われは名も無き女性」と答えるのみでした。この尼こそ義仲公の側室巴御前の後身でした。

尼の没後、この庵は「無名庵」「巴寺」と呼ばれ、木曽塚、木曽寺、義仲寺とも鎌倉時代後期弘安の頃の文書に記されました。※普段は一般の方は入れません。寺務所に予約すれば、句会を始め文化サークルなどに使用できます(予約制)。

俳句みくじがあります。お好きな方はいかがでしょう。芭蕉翁は無名庵をよく訪れました。貞享二年(1685)三月、五月に滞在。元禄二年(1689)奥の細道の旅の後、十二月に京都、大津に在り膳所で越年。一旦故郷の伊賀上野に帰り、三月に再び来訪し九月まで滞在。元禄四年(1691)六月から九月まで滞在。最後の旅でも立ち寄りました。

こちらは史料館があり、展示物の他、お土産なども販売されています。

松尾芭蕉翁 最後の旅

元禄七年(1694)五月十一日に江戸を出発、伊賀上野に帰郷、閏五月十八日膳所に入り、二十二日落柿舎へ。六月十五日京都から当庵に帰り、七月五日京都の去来宅に移った後、

七月中旬から九月八日まで伊賀上野に帰郷。八日伊賀上野を立ち、九日夕方に大坂着。元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなりました。

辞世句「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

御遺言「骸は木曽塚に送るべし」 

木曽義仲公の挙兵

平安末期の武将。河内源氏の一族。源義賢の次男で頼朝公と義経公とは従兄弟の関係。生まれは武蔵国の大蔵館(現:埼玉県)。二歳のときに父が甥の義平に殺されてしまいます。義仲公は哀れだと木曽に逃がされて中原兼遠のもとに送られ、そこで名を木曽次郎としました。

治承四年(1180年)平清盛の実権掌握に危機感を感じた後鳥羽上皇は、子である以仁王(もちひとおう)の平氏討伐の令旨のもと源頼朝公・源義仲公に挙兵を呼びかけます。挙兵した義仲公は越中で平氏を破ると破竹の勢いで京までかけ上り、旭将軍と呼ばれ征夷大将軍になりましたが、皇位継承にまで介入したことで後鳥羽上皇と不仲になり、頼朝公が送った義経・範頼軍に討ち取られてしまいました。写真:(上)木曽義仲肖像画(義仲寺)、(右)後鳥羽天皇肖像画

御朱印

御朱印もあります。「巴御前・朝日将軍・正風宗師(松尾芭蕉)」見事な筆使いは圧巻です。正風宗師とは芭蕉一門の師と云う意味らしいです。

JR西日本 膳所駅

JR西日本の膳所駅です。ロータリーもあり白を基調とした綺麗な駅舎です。手前には滋賀県名物の〝飛び出し坊や〟がいらっしゃいます。街中にたくさんいます。

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