【静岡県】宗良親王終焉の地と戦国古戦場/浜松市 建武十五社 井伊谷宮

静岡県の西部、浜名湖の北に位置する引佐町(いなさちょう)。浜松市中心部から北上する国道257号線の周辺には南北朝時代や戦国時代ゆかりの史跡があります。マップにある通り一番近い駅は天竜浜名湖鉄道の金指駅となります。

井伊谷宮いいのやぐう

井伊谷宮は「新宮さん」として地元に愛されている神社で御祭神は、後醍醐天皇の第四皇子「宗良親王」。明治元年に明治天皇の勅旨により創立の儀が仰出され、御祭神御在世の縁故により彦根藩主井伊掃部頭が主体となって明治五年にご鎮座、六年に官幣中社に列せられました。

もちろん各種お守りやお札、御朱印もいただけます。

宗良親王むねながしんのう御墓

井伊谷宮の御社殿の裏側に進むと宗良親王のお墓があります。明治初期に陵墓に定められました。信濃国(長野県)や美濃国(岐阜県)にもお墓があります。

後醍醐天皇の第四皇子 宗良親王

後醍醐天皇の建武の新政後足利尊氏が反旗を掲げ南北朝争乱期が始まると、宗良親王は父に従い延元三年(1338)四月、伊勢から北畠親房公と連携するため奥州へ下向される途中、遠江国(静岡県浜松市)付近で船が座礁してしまいます。

そのとき一行を助けた井伊氏の招きで井伊谷城に入られ南朝の拠点としました。そこで井伊道正の娘を正室とし尹良(ゆきよし)親王が誕生されたとされます。

一方、越前国(福井県敦賀市)の金ヶ崎城では南朝新田義貞軍と北朝高師泰(こうもろやす)・越前国守護斯波高経軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられました。この「金ヶ崎城の戦い」は、建武四年三月落城によって集結。恒良親王は捕らえられ、尊良親王と義貞公の子義顕が亡くなりました。義貞公は脱出に成功しましたが、その後の「藤島の戦い」にて敗死。

劣勢のなか宗良親王の井伊谷城も足利側の手に落ち、信濃・越後へと拠点を移しました。文和二年(1353)拠点である越後小国城も落とされますが、翌年共に行動する新田義貞公の子義宗の活躍もあり、次第に勢力も拡大。応永元年(1368)甥の脇屋義治(脇屋義助の子)と共に越後と上野国の国境で挙兵しましたが、上杉憲顕によって鎮圧されて義宗は討ち死。南朝側の抵抗は終息しました。

周辺の史跡 三方原古戦場

浜松市中心部から井伊谷宮へ向かう途中にある史跡「三方原古戦場」。現在は駐車場の一画に石碑が建っています。言うまでもなく戦国時代に織田・徳川連合軍と武田軍が戦った場所です。

「上洛を目指した武田信玄は元亀三年(1572)10月3日2万5000の軍勢を率いて甲府を出発、同年12月22日には浜松城の北側に広がる三方原に進出してきた。徳川家康は家臣の反対を押し切って1万1000(徳川8000と織田信長の援軍3000)の軍勢を率いて浜松城を出発、武田信玄の軍勢に迫った。

徳川軍はいつでも攻撃できるような鶴翼の形をとり、家康の陣形を確認した武田信玄は魚鱗の陣形をとった。戦いは日暮れに近い頃、ここ三方原の根洗付近で開始されたが、徳川軍は武田軍の前に惨敗。総崩れとなって浜松城に退却した。

この戦いで敗れた家康は多くの教訓を得た。「浜松市史」にはこれを次のように記している。「この敗戦によって弾力ある積極性の重要さを身をもって体験した。

また、敗戦の駆け引き、短時間で勝敗を決するという哲理を学びとったのである。家康が野戦の名将となったのは、この三方原の敗戦によってえた経験が大きく作用している。」

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