【鳥取県】【熊本県】伯耆の忠臣名和氏の郷/西伯郡 建武十五社名和神社

鎌倉時代末期から室町時代初期までの約60年に及ぶ南北朝争乱。〝もののふ〟達が駆け抜けたその時代は「太平記」などの軍記物で後世に広く伝えられ人気を博しました。建武十五社とは、主に後醍醐天皇が理想とした建武の中興に功のあった全国各地の南朝側の忠臣を祀る神社です。

JR西日本 名和駅

鳥取県北側を走る山陰本線の途中駅「名和駅」

小さい無人駅で、駅舎は海のそばにある事もあり、かなり傷んでる感じです。ここからすぐ上に名和公園がありますので、そちらで一服。

名和公園

日本海が一望できる名和公園からの眺めは爽快です。

この名和公園から南へ進むと名和神社や名和一族の本拠地となる屋敷跡などがあり、北側には御来屋港という漁港近くに元弘帝御船所があります。その辺りを中心に史跡巡りコースが案内されています。

建武十五社名和神社

白い鳥居の先に石畳の参道が続いている「別格官幣社 名和神社」。一時は管理する方が居なくて荒れていたそうですが、現在は綺麗に整備されています。

こちらが御社殿で、主祭神は「名和長年公」。名和一族の将士四十二名も合祀されています。名和長年公は、南北朝時代に南朝側で活躍した「三木一草」の一人と呼ばれています。(楠木正成公、結城親光公、千種忠顕公、名和長年公)名和長年公は伯耆(ほう)のより

【由緒】建武の忠臣名和長年公始め、一族四十二名を祀る神社。元弘三年(1333)、長年公は隠岐島に流れていた後醍醐天皇の脱出を助け、天皇を船上山に迎え鎌倉幕府を破った。後醍醐天皇は、この年、鎌倉幕府を倒し、天皇親政を復活(建武新政)、長年公はこの新政権で重用された。

「名和長年卿は、村上天皇十六世の裔にまして御父を行高と申し奉る。卿は元弘建武の忠臣にして元弘三年、後醍醐天皇を船上山に奉し給い建武元年因幡伯耆の守護に任し従四位下に叙せられ給し、

が延元元年足利尊氏叛するに及び尊氏の軍と激戦数度刀折れ力盡き延元元年「紀元千九百九十六年」六月晦日遂に京都六條の大宮にて戦死し給う 御一族将士もまた或いは討たれ或いは自害して殉死し給えり。」

書き置きの御朱印をいただきました。神社を後にして、ゆかりの地を目指して南へ向かいます。令和六年に末裔の方が宮司になられたようで安心しました。

長綱寺と名和公一族のお墓へ向かいます。道路の至る所に案内標識があるので、迷子になることはないでしょう。

万歳山長綱寺

万歳山長綱寺(ちょうこうじ)は、名和氏の菩提寺になります。萬歳山とは珍しい名前です。

山陰地方ではおなじみの赤い石州瓦屋根のお寺です。

「元徳二年二月名和長高公(後の長年公)の開基にして旧記に「長高先考の為に一宇を創建す。山を萬歳と号し寺を長高と称す」云々とあり、始め天台宗に属し、長高庵と称したるも、其の後、足利氏天下を収攬するに当たり、長高の二字を忌憚し、長綱庵と改む。」萬歳山の中腹から現在地に移転した際に長鋼寺になったようです。

境内にある硯岩。名和長年公が後醍醐天皇を船上山に奉じた際の道すがら、お休みになった岩と伝えれています。元々は別の場所にあったそうですが、お寺の和尚さんの枕元に名和長年公が現れ、「名和の庄の大切な硯岩が米子の皆生方面で、お粗末な状態に扱われている。持ち帰るよう」とのお告げがあり、この地に運んだそうです。

菩提寺ですので、お寺の裏山にお墓があります。「名和公一族郎党の墓」にお参りしに行きました。名和長年公は、功績により後醍醐天皇から賜った九州の八代荘を子の義高公に託しました

熊本県の名和氏

子の義高公は八代荘の地頭となり古麓山に城を5つ築き、古麓城主となリます。後に海運にも精通している名和一族を呼び寄せ代官に任じ、交易港八代を発展させます。しかし、その後、領地紛争で隣の人吉城主相良氏に攻められ古麓城は落城、名和氏は北部の宇土方面に逃れました。写真:八代市古麓稲荷神社からの八代地域

宇土では、守護の座を奪おうとした宇土為光が、同族で肥後守護の菊池能運公によって討たれ滅亡。永正元年(1504)空いた宇土城(古城)に名和顕忠公が入り城主となり統治。顕忠公から四代目の行興公の時「宇土名和氏」を興しました。

ちなみに元寇の様子を描いた竹崎季長公の「蒙古襲来絵詞」は、甲佐神社から宇土名和氏を経て大矢野氏に渡りました。写真:中世宇土城跡(熊本県)

戦国時代、北上してくる島津勢に肥後の城は次々と落とされていきます。一旦は島津氏に靡いた名和顕孝公も豊臣秀吉公の九州討伐軍にいち早く従属。その後、佐々成政が肥後国へ入りますが、失政により起きた肥後国衆一揆の責で切腹。続いて小西行長が宇土を治めますが、西軍側で戦った関ヶ原で敗れ処刑。

加藤清正公の治世に移ってからの名和氏は、名を「伯耆」と変え柳川藩立花家の家臣となり藩政を支え、幕末期に再び「名和」に戻し明治維新を迎えました。写真:柳川城跡(福岡県柳川市)

熊本宇土名物小袖餅と城主名和伯耆左衛門尉(顕孝公)

熊本県宇土市の名物である「小袖餅」。アンコの入った小さなお餅が10個入っています。主にJR九州宇土駅近くの本店ほかで販売されてる名和顕孝公ゆかりのお餅です。パッケージに名和家(小船)風の家紋が入っています。

「永正十四年の或日、宇土城主名和伯耆左衛門尉(なわほうきさえもんのじょう)は民情を見んものと独り忍びで城下を歩かれ、とある町端れの茶店に這入り心ゆくばかり餅を味われました。城主のお顔を知らない茶店の娘静江はさっさっと出て行かれる城主に

静 江

お餅代をいただきます。

と申しました。城主はお金が無いのに気付き、ほとほと困られ遂に小袖を切って

名和伯耆左衛門尉

これを持って城内へ来い。さすれば餅代をとらす

と言って立ち去られました。小袖の紋で城主であることを知った娘静江は、自分の無礼の罰が母に及ぶ事を恐れ、

其の夜、城内に忍び込み

静 江

母を救けて私ひとり成敗して下さい

と嘆願いたしました。

名和伯耆左衛門尉

なんと!ははは…笑

城主は静江の孝心に感激せられ、小袖と沢山のお金を下し置れました。それから静江の孝心と餅の美味を賞へて誰言ふとなく「小袖餅」と名付けられ次の様な俗謡さえ流行しました。

“餅は餅でも小袖の餅は、可愛い静江の味がする”。

この心温まるエピソードは日本まんが昔ばなしで「孝行娘」として放送されました。動画サイト(ユーチューブ)にもあります。

名和氏居館跡

さて、伯耆の名和に戻リます。長綱寺から程近い場所に名和氏の屋敷跡があります。現在は石碑が建ち、その周りは石柱で囲まれて保護されています。

今度は、名和駅の南側へ引き返し御来屋港へ向かいました。

後醍醐天皇御着船所の碑

名和駅から500mぐらい歩くと「御来屋港」。昔ここは「名和の秦」と呼ばれていました。この漁港にひときわ目立つ松の木と石碑があります。神社に記されていたように、名和長年公の手助けで隠岐の島から脱出なされた後醍醐天皇の舟が着岸された場所に因んで建立されています。

「後醍醐天皇御腰掛岩」。以前は海中にあった大岩ですが、漁港の改修に伴い引き揚げられました。名和長年公と後醍醐天皇ゆかりの聖地です。

その横には後醍醐天皇御製「わすれめや よるべもなみのあら磯を 御舟の上にとめし心を」を記した舟の形の歌碑があります。

ここからは隠岐の島は見えませんが、手漕ぎの御舟で何時間かかったのでしょう。ロマンを掻き立てられます。なので隠岐の島へ行ってみましょう。

隠岐の島

隠岐の島へ向かうフェリーに乗るために一旦米子駅へ。

そこから青い境線に乗り向かいます。

鬼太郎くんが境港駅は「0番のりばへ」と言っています。

境港駅に向かう列車は、ゲゲゲの鬼太郎キャラクターにラッピング列車になります。車内放送砂かけばばぁの声でしたよ。他に猫女など他のキャラの列車もありました。

JR境港駅に到着。すぐフェリー乗り場に入れるのは便利です。

鬼太郎くんがいますね。漫画家の水木しげるさんは大阪生まれの鳥取県境港市育ちというご縁で米子鬼太郎空港の名にもなりましたね。至る所にゲゲゲの鬼太郎のキャラがいます。

カニが有名ですが、他にもいろんな海産物があり、加工されたお土産がたくさん売られています。

大事な問題ですね。特に山陰地方の港で見かけます。

隠岐汽船

隠岐の島へ向かうには高速船とフェリーの二つがあります。こちらの高速船「レインボージェット」で南郷港へ向かいました。高速船なので車などは乗船できません。

出発時間が近づくと乗船する場所に並びます。時間があるので先に海産物と「御船印」を買いました。カニのかまぼこがとても面白かったので購入。

最初に着岸する西郷港は、マップ右の〝島後〟と言われる丸い島南側にある港です。毎日お昼12時に港を出発し、隠岐の島の西郷港に着くのは13時間半ぐらいです。配流なされた後醍醐天皇の行在所跡があり、左の〝島前〟西ノ島には後鳥羽天皇御火葬塚や黒木御所跡などがあります。

西郷港に着きました。意外とフェリー乗り場の建物は新しくて綺麗です。wifiも充電できるテーブルもあり、快適な施設です。

奥には観光案内とレンタサイクルもあります。

西郷港のすぐ近くにバスターミナルがあり、「かっぱ遊覧船」なるものもあるようです。結構遊べる要素もあるので、スケジュールに余裕を持った方が良さそうです。

港の周りの隠岐の島町は、お店もたくさんあり都会でした(失礼)。港周辺の街中は自転車で散策できますが、意外と島が広く坂道もあるので夏場は覚悟が必要です。島の反対側に行くにはやはり自動車が便利です。

隠岐の島町のマンホールは闘牛です。隠岐に着いたという実感が湧きます。

入江の中なので穏やかですが、荒い外海を夜通し漕ぐ名和一族と後醍醐天皇の光景を想像します。帰りは「フェリーくにが」にて帰りました。後ろには展望スペースがあるようです。

乗船する時はこの紙に記入します。

フェリーならではの光景です。船の下半分は自動車などの駐車スペース。

上半分が客室ですが、乗客がとても多いので、休日の船室はぎゅーぎゅー雑魚寝状態です。ゆっくり離れて行く隠岐島を眺めながら帰路に。

無事境港に到着しました。帰りは境港から松江駅まで路線バスも出ていますので、そちらを利用しました。

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