【静岡県】世界最長の木造歩道橋/蓬莱橋

静岡県島田市にはギネスブックに登録された「世界最長の木造歩道橋」があります。過去に映画や時代劇ドラマにも登場し話題になった橋の名は「蓬莱橋(ほうらいばし)」。一度は目にした事がある方が多いのでは。

静岡県の一級河川である大井川。その川に架かる長さ897.4mの木造の橋は「厄なしの橋」とも呼ばれ厄除けご利益スポットにもなっています。

「東海道五十三次金谷の不二」葛飾北斎。静岡県榛原郡。東海道の島田宿を出て大井川を渡った向こう宿が金谷です。軍事のため、大井川には橋をかけることも船わたりすることも禁じられていました。手で曳き舟、肩車で渡ったり、輦台渡りなどで川を渡っていました。しかし、水量がますと河止めになる事もしばしば。あの織田信長公も同じように渡ったと信長公記にあります。

 この日は小雨が降る悪天候でしたので、画像が汚く映っていて残念ですが。渡る当人にとっては、人がいなくてよかったかなと。晴れてて欲しかったですけど。さて、この橋ですが人が大勢行き交う交通のための橋ではなく、農業用に作られた橋だという事で幅2.7mと狭く欄干も低いです。現在は観光名所として訪れる方も多く、一般の人でも100円払えば自由に渡れます。入口の真ん中に立っているお賽銭入れのような料金口に百円を入れて、いざ参ります。

 足で踏む度、ギシギシと音が鳴ります。果てしなく続くように見えます。欄干も低いので見晴らしいいです。その反面スリルもあります汗。時代劇を演じるようにいざいざ。

 川底は一面に小石が敷き詰められたようになってます。お天気も悪かったので、グレー色の世界にも見えます。さらに橋の中央に進みます。

橋の中央付近に着きました。川の水が中央に流れていますが、色がエメラルド色で澄んで見えます。ステンレスの上をスーッと水が流れているような感じがして不思議な感じがしました。夏に来るともっと爽やかな感じなのでしょう。画像には映ってませんが、カラスが欄干にいて怖かったです汗。

こちらは初代歌川広重の「東海道五十三次 金谷 大井川遠岸」です。現在と変わっていません。水量が少ない時は半分ほど歩いて渡ってますね。

 向こう岸が近づいてきました。橋の板も所々修復されているようです。豪雨の時に木造だとやはり流されてしまうという事で、昭和40年に橋脚はコンクリート製にされたとの事。

木造だと耐久性の面で難がありますが、そこを手直しして使う事に価値が創出され観光地となりました。

ようやく渡り切りました。ゆっくり歩けば20分くらい。さて、向こう岸には何があるのか気になりますが、休憩所があり一休みできるようになっていて、上へ登ると神社もあるようですが、車が通って来る心配がないのでゆっくり休憩できました。

「お渡り記念木札」もあるそうです。渡ったときは早朝8時頃でしたので、小屋が営業していなくていただけませんでした。

フォトスポットも用意されていて記念撮影できます。情緒があっていいですね。

こちらにもフォトスポット。「長生きの橋」となっています。あんなに歩いてきたんですね。

 さて、橋入口の横には茶屋の横に記念碑。平成9年にギネスに認定された記念碑です。

 その横には勝海舟さんの銅像が建っています。この橋の由緒に関係がありました。碑文を抜粋すると「万延元年(1860)、徳川幕府の咸臨丸の船長として渡米した際に、お茶に世界的な商品価値を秘めている事を認識。帰国後に旧幕臣たちに命じて牧之原台地に茶畑の開墾を始めました。明治6年(1873)には、仕事を失った川越人夫たちも約30haも開墾し始め、明治11年(1878)には41haにまで拡張された。この過程で牧之原から島田に渡り交流する旧幕臣が増えた。当時は小舟で渡っていたが大変なため、許可され橋が架けられた。」とありました。まさに「お茶の架け橋」。お茶の生産で有名な県ですが、そんな物語があったのです。

もちろん観光地なので駐車場もあります。

JR東海 島田駅

最寄りにある二つの駅、一つ目は東海道本線「JR島田駅」

外観は近代的なコンクリート製なのですが、

駅構内にはお茶をイメージした掲示物が沢山。売店もありお土産も買えます。

JR東海 六合駅

もう一つの隣の駅「JR西日本 六十合駅」。二つの駅の中間に橋があるので、どちらからでも徒歩20分くらいで着きます。

こぼれ話

 江戸時代初期、幕府は西国大名の反抗を防ぐ目的で東海道の川には橋をかける事を拒みました。ですので島田宿と金谷宿の間では、人足が徒歩で川の中に入り渡るのが主でした。しかし、わざと深い場所を通り背負っている客を脅し料金以外の物を要求したり、無茶な川越し賃をとる馬方が横行して旅人を困らせました。

元禄九年(1696)その対策として幕府の代官が、川越し賃を仕切る庄屋を選び一切の業務を行う川会所を設け、公共料金を定めた川越し制度を作りました。絵図のように雇われた人足は350人ほどいたという事です。川越し料金は、水深によって異なり、

股下までが四十九文(約960円) 乳までが七十八文(約1560円) 腕脇までが九十六文(約1880円)でした。(元禄九年)

ただ、通常の川岸の水深二尺五寸(75cm)が三尺五寸(1m)になると川越しが禁止されるため、雨天の日が続くと島田宿と金谷宿は足止めになった多くの旅人で溢れかえりました。中には旅費を使い果たし、川越しを諦め引き返して帰る客もいたそうです。 

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