元寇の記憶が残る島/長崎県壱岐島①

 九州は朝鮮半島や中国大陸に近く、九州と対馬の中間地点にある壱岐島(対馬との距離72km)。古来より国境付近の島ゆえに人的交流や貿易の中継港として発展する一方で、いわゆる外敵からの攻撃や海賊による被害など隣国との間で戦も数多く起こりました。その中で最も有名なのは、鎌倉時代に起こった「元寇」

 当時世界征服を目論むモンゴル帝国クビライ率いる元・高麗・蒙古連合軍との間で、国の存亡をかけて二度戦った戦い。

文永の役(文永十一年1274)、弘安の役(弘安四年1281)。離島の壱岐は、その当時の緊迫した様子を遺した史跡が現在もあります。そちらを今回は巡りました。観光でも楽しい場所もあるのでご紹介。

JR九州 博多駅

まず博多駅の真向かいにある「博多駅西日本シティ銀行前F」バス停から博多ふ頭行きへ乗ります。

博多ふ頭第1・第2ターミナル

 バスの停留所の前のこちらの建物のチケット売場へ。ジェットフォイルヴィーナス号は全席指定席で5000円ちょっとくらいです。赤い高速艇で二階建ての乗客だけ乗せて約1時間で壱岐島へ着きます。車両で行く場合は、隣の建物のフェリーを使う事になりますが、10時頃に出発で3時間ほどかかりますので、日帰り散策はきついかもしれません。

 基本的に飛行機の様に乗船中はトイレ以外はシートベルトを着けて着席ですので、気軽に船内外を散策できません。1階に売店はありますが、お店の方がお菓子や飲み物を巡回して販売しています。

 御朱印ならぬ御船印がありました。全国のフェリー会社や遊覧船の運営会社が続々参加してる様です。郵船フェリーだけでも他にも色々ありました。

御船印帳までありました。巡回の売店の人に言えば、持ってきてくれます。

 行き先の壱岐島の郷ノ浦港は、島の南西側(地図左下)の入り込んだ港になります。島が四角いので、名所を丸く回れる感じです。

島に到着すると、お出迎えの方が沢山いました。レンタカー会社の方も多かったです。レンタカーを予約されている方は、こちらで手続きして送迎してもらいます。

 郷ノ浦港について目に入った大きな「春一番発祥の地」という表示。現在、よく使われているこの言葉は、ここ長崎県壱岐市の郷ノ浦港の漁民の方が使われた用語。江戸時代頃から、こちらの漁師さんたちが、春先に現れる突然の暴風雨を指してそう呼んでいたそうです。

壱岐市立一支国博物館

 島の東側にあるタワーがある「壱岐市立一支国博物館」。一支国とは「いきこく」と読み、壱岐島の事です。魏志倭人伝に『又南、一海を渡る千余里、名づけて瀚海(かんかい=玄界灘のこと)という。一大国(一支国の誤り)に至る」とあります。

 国指定特別史跡の原の辻遺跡を一望できるビューシアターや人面石という人の顔を模した遺物などの展示があり、全体的に古墳時代のものが多かった印象です。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)

 約千年前の寛仁三年(1019)蒙古襲来の約二百年前に起こった出来事。中国の刀伊賊(女真族)の武装集団が対馬・壱岐・九州北部沿岸へ侵入し領民を襲いました。当時は有明海まで被害があり、それを語り継がれる史跡が数多くあります。島北部に向かう道の途中にある史跡を訪れました。「藤原理忠(りちゅう)精忠碑」があります。

 藤原忠理公は、すぐさま領民を助けるため140隻の船団で壱岐へ討伐に向かいますが、大軍の前に玉砕。命を落とします。お参りしました。まわりに駐車場などはなく、看板も道路側には見えません。大きい道路沿いから入ったほうが見つけやすいです。

文永の役 蒙古襲来一度目

●新城古戦場跡・千人塚

 文永十一年(1274)十月十四日、浦海海岸に上陸した元軍は島内に侵入すると暴徒のかぎりをつくしました。そして守護代の館(樋詰城、現在の新城神社)へと向かいます。

守護代の平景隆公を首将とする百余騎の武者は迎え討つべく出陣し各地で激戦になります。しかし相手は圧倒的な数の蒙古軍。反撃に出た景隆軍でしたが、庄ノ三郎ケ城の前の島人原の戦いで大敗し樋詰城に退きますが、翌十五日に全滅してしまいました。

●新城神社・樋詰城跡

 文永の役古戦場跡にほど近い場所にある「新城神社」。壱岐の守護は対馬と同じ少弐氏で、壱岐には守護の代官として平景隆公が桶詰城の城主でした。明治十九年(1886)に平景隆公と元寇の戦死者を祭神として新城神社が創建された後に壱岐島司藤原理忠公と刀伊の入寇の戦死者が合祀されました。

●境内にある壱岐守護代 平景隆公の墓所

 大勢の元蒙古軍に囲まれ、樋詰城の館で籠城する平景隆公は、襲来の報を一刻も早く太宰府へ知らせるべく姫(娘)と家臣の宗三郎に頼み、港へと密かにお城から逃します。翌日、総攻撃を受け城は落城し、景隆公は一族と共に自害します。お供えしてきました。

●姫御前塚

 新城神社からカーブが続く道なりに南へ数分行くと、まん丸い大きな木が見えてきます。その根元に塚があリます。

 父の平景隆公に命を受けた姫と家臣の宗三郎の二人は、共に島を脱出するため港へ向かいます。が、途中で姫が元軍に見つかってしまい毒矢で傷ついてしまいます。なんとか川のそばの山中まで逃れてきたところで毒が体中にまわり、とうとう動けなくなってしまいます。もはやこれまでと宗三郎に一人で脱出するよう命じ姫はこの地にて自刃。宗三郎は一人島を脱出し博多へ渡り、蒙古襲来を伝え使命を果たしました。

 「姫御前」と呼ばれ里人たちに愛されたお姫様は、その後、手厚く葬られこの地を「姫御前塚」と呼び霊を弔いました。今も訪れる人が絶えません。横にある案内板にはこうあります。

「美しき姫御前、この地に眠る」

たくさんの花と水をお供えしてきました。壱岐は全滅してしまいますが、博多では九州を中心とした武士団が反撃に転じ、暴風雨もあり蒙古軍を撤退させることができました。

一旦ここで休憩して観光スポット巡り。

観光スポット・神社巡り

はらほげ地蔵

 海岸にお地蔵さんが6体並んでます。今は干潮なのでお参りできますが、満潮になると胸まで海水に浸かります。「はらほげ」とはお腹に丸い穴が空いているから(腹がほげている)だそうです。その穴にお供えものを入れておいて、再度干潮になる際に海に流れる時にお祈りをされてたみたいです。

小島神社

 はらほげ地蔵へ行く途中にある神社で、内海湾にある小島の神社。こちらも干潮時に小島に渡れます。小島の中央に神社があるそうですが、危険そうだったので下でお詣りしました。御朱印もあります。近くのお店にも授与所がありいただけます。

こちらの店でも御朱印がいただけました。食料品店で、地元の特産品も購入できます。

國片主神社

壱岐島のほぼ中央にある「くにかたぬし神社」。旧号が國分天満宮:國分天神。御祭神:少彦名命。こちらには、面白い招き猫さんがいらっしゃいます。

招福猫さんで、こちらの石像なんと回転するのです。御朱印も書き置きですがいただけました。

猿岩と黒崎砲台跡

郷ノ浦港から少し北へ走ると、案内板に出てくる「猿岩」「砲台跡」。壱岐対馬国定公園内にある景勝地。その名もズバリ猿の横顔に見える奇岩です。

確かに猿そっくりですね。髪の毛まで生えています。おばさんにも見えてきます。笑。駐車場もあって休憩できますよ。大猿が防人をしてくれています。その手前50mの場所に

 東洋一の大きさだったという黒崎砲台跡というのがありました。国境の島だから当然ですね。手前の砲弾は戦艦大和の砲弾(右)と黒崎砲台の砲弾(左)の比較です。

大和の方が大きいですね。現在、砲台はもう撤去されて使われていませんが、でも昨今の世界情勢を見ると、お手入れしてまた使えるようにした方が良いかもしれません。ちなみに入口から入れますが、中に照明が無く真っ暗で引き返しました。スイッチがあるのかもしれませんが、中へ入りたい方は、ライトを御持参で。上からも見える場所もあります。

今回①では壱岐島の下半分を史跡を巡りました。

壱岐島②では二度目の襲来「弘安の役」の史跡・観光スポット巡りです。


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