【宮崎県】島津発祥の地/都城市 都之城址

 宮崎県都城市にあるJR西都城駅から歩いて20分程の場所にある「都之城跡」。現在はお城風の歴史資料館が建っていて都城の歴史が学べる施設になっています。JR西都城駅から歩いて20分くらいの場所にあります。

城山公園の中にあります。入口には駐車場とトイレ、奥には立派なお城の様な建物が見えます。桜の季節でしたのでいたる所で咲いていました。

お城跡の全体マップがあります。正面の大手門から入り本丸の横を通って神社との間の道を行けばいいようです。

大手門の横にある公園には「財部 彪(たからべ あきら)」像がありました。地元都城ご出身の日本海軍大将の方でした。

大きくとても立派な石垣と大手門が正面にあります。上から開閉できる扉が、上には敵の侵入時を考えて石落としなどや鉄砲穴も見えました。

大手門をくぐって中へ進むと、本丸に向かう道の途中に狭野神社があります。

神武天皇が東征の途中に御所があったゆかりの地のようです。

神武天皇ゆかりの八咫烏の根付やおみくじがありました。サッカー日本代表のマスコットでもあります。この日はお留守でしたのでまたの機会に。

五つの破風が美しいお城風の建物ですが、歴史資料館になります。中は吹き抜けの3階建てで、都城の歴史に関する史料が展示されています。

「都之城は、都城島津氏(北郷氏)歴代の居城であった。永和元年(1375)二代義久が築城し元和元年(1615)の一国一城令まで240年の間、本城となっていたところであり、本市地名発祥のもととなった由緒あるところである。」

3階の窓から見た眺めです。出窓の様に窓を開けて外へは出られませんが、風が気持ち良さそうな高台にあります。館内の展示物の撮影はNGですが、かなり展示物は多めで分かりやすかったです。

JR九州 西都城駅

黒い重厚感のある駅舎です。中は広いですがお店などは無く、広い待合室といった感じです。駅名の横には丸に十時の島津氏の家紋です。

駅内にあるポスター。都城島津氏の家紋は十文字と丸の間に隙間があります。江戸時代、島津宗家から区別するため変えるよう指示があった様です。

こちらの駅には、移動に便利なレンタサイクルも置いてました。バス停やタクシーがあります。

島津氏発祥の地 都城の歴史

 島津というと真っ先に思い浮かべるのは薩摩、鹿児島ですね。でも発祥は宮崎県の都城。まずどこにあるのかな?と思いますが、「九州の右脚の付け根」と表すとわかりやすいかと思います。錦江湾付近で起きた火山の大爆発による火砕流と火山灰で大きな湖が盆地になった都城。いつしか草が生え、人が移り住み集落になりました。

大和朝廷と熊襲

 奈良に大和朝廷が誕生し中央集権型の国づくりを始めるため全国へ遠征しますが、南九州には熊襲(くまそ)と呼ばれる地方豪族が反抗し争いが起きました。熊襲は各地の村々を襲い荒らしていたようで、 第12代景行天皇の皇子ヤマトタケルノミコトが討伐してくれた時には村人たちが大喜びだったそうで、現在でもその故事にちなんだお祭りが行われています。「熊襲=クマソ」という呼び名は、熊本県球磨(くま)地方と鹿児島県曽於(そお)地方の呼び名を指していると言われています。征伐されたあとは「隼人」と呼ばれ仕えることになりますが、度々反乱を起こし、大伴旅人に処罰されました。

日本最大の島津荘

 土地の開発を促す為に天平15年(743)、開墾した土地は自分のものにして良く、また亡くなっても子孫のものになる「墾田永年私財法」が制定。力がある者(豪族)は喜んで私有地「荘園」をどんどん開発し、勢力を拡大していきました。平安時代、都城には太宰府の役人であった桓武平氏の平季基(たいらのすえもと)という人物が土地300町を開発し、その頃の政治の実権者であった藤原頼道へ寄進し、警備や管理をしてもらいました。その後も開発が進み島津荘は8000町を超える「日本一の荘園」になりました。平氏・藤原氏も荘園で得た財力を使い朝廷とも深く結びつき全盛時代を迎えます。

島津」という名は、大宝元年(701)ごろより全国各地の道路で16里ごとに馬を乗り換える為に配置された駅名でした。(写真はJR都城駅前)

島津氏の誕生

 文治元年(1185)、壇ノ浦の合戦で平家に勝利した源頼朝公は、全国各地に守護(警備)、地頭(税務)を置き統治。島津荘には京都で公家の警護をしていた「惟宗忠久」という人物が管理を任されました。任命の理由は、親戚が日向・大隅の国司であり、都城の領主だった近衛家の事務の仕事をしていたから。やがて日向・大隅・薩摩の三ヶ国の守護と島津荘の地頭も任され、それを機に自らの荘園の名をとり「島津」と名乗るようになります。これが都城が「島津家発祥の地」と言われる理由です。しかし頼朝公が亡くなり北条氏が実権を握ると体制が変わり、豊かな日向・大隅は北条氏が治め、島津家は薩摩の守護のみへと縮小され、薩摩を居に活動する事になりました。

鎌倉幕府への不満

日向・大隅の統治権が北条氏傘下の高木氏、富山氏、梅北氏へ移った事に不満を募らせてながら薩摩を治めていた島津氏、そんな中に起きた「元寇」。鎌倉幕府北条氏から九州の御家人に出陣の命が下され出陣。

蒙古襲来絵詞にも十文字の旗印を掲げた島津勢の島津久長という武将が出ています。他の九州武士団と力を合わせ戦い二度の襲来を退けましたが、恩賞として日向・大隅への復帰も期待していたのかもしれませんが、結局何も出ず幕府との関係がさらに悪化。後の幕府の失政や世の乱れもあり鎌倉幕府へ不満を持った後醍醐天皇・足利尊氏側御家人の決起に参加し、やがて鎌倉幕府は滅亡。加勢した島津貞久公は褒美として日向国・大隅国の守護を任され島津氏の復帰が叶いました。

南北朝時代 北郷氏が誕生

しかし後醍醐天皇が行なった建武の新政は失敗、主な理由は恩賞への不満や政策への反発ですが、領地安堵・恩賞に関しては、主に尊氏が行っていたのに…。やがてその対立は激化、都城盆地は、かつて日向・大隅の領主だった高木氏・富山氏・梅北氏も加わる北朝の武家方と、大隅の肝付氏が加勢する宮方の南朝方へと別れ、60年にわたる南北朝時代へ突入。島津氏は本領安堵の盟約があったのか北朝の尊氏側につくと、すぐさま尊氏より南朝側の肝付氏への攻撃命令が下り、肝付氏との争乱が始まりました。

観応の擾乱

勢いに乗る足利尊氏でしたが、観応元年(1350)10月、尊氏の側近、高師直・師泰兄弟と尊氏の弟直義との間で争いが起きました。この時、薩摩の島津本家の四代忠宗の六男資忠(すけただ)が足利尊氏側で活躍し、褒美として文和元年(1352)に都城市の北西部にある「北郷」(ほんごう)の地を与えられました。資忠は、薩摩から北郷へ移り、島津の分家として「北郷」に名を改め、永和元年(1375)二代北郷(島津)義久公が都之城を築城しました。

松尾城跡

JR九州 山之口駅

JR山之口駅です。のどかな風景の中に小さくも南国を思わせる木が立つ小さな駅です。

歩いて30分くらい。あじさい公園の中にあるお城の本丸へ着きます。かつて南朝側として武勇を誇った肝付兼重公が治めていた地にあった松尾城。

お城といっても、こちらは展望台になっており、無人で入城料などもありません。

広がる都城盆地を眺められます。肝付兼重公は、元々平氏の流れで大隅の領主でもあったので、取り返したかった事もあるでしょう。南朝側の懐良親王が来薩された際の谷山合戦にも遠征し活躍しました。数々のお城を落とし都城へも進出してきましたが、ついには北朝側の島津勢に敗れ、大隅の肝付の地へと逃げ去りました。現在このお城址は整備され、春は桜、梅雨の時期は紫陽花が咲く憩いの場になっています。島津荘を巡って領地を守る御家人と領民たちの戦いは続きましたが、島津氏の九州統一から豊臣徳川の時代で終わりを告げました。

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