赤穂十七義士の遺髪塔/熊本県山鹿市日輪寺

江戸時代に起きた日本で最も有名な出来事といえば赤穂浪士四十七人でおなじみ「忠臣蔵」ですね。熊本県山鹿市にある日輪寺には、赤穂浪士のうちの十七人の方の遺髪塔があります。

元禄赤穂事件

元禄十五年十二月十四日、赤穂藩の四十七名が吉良邸にて吉良上野介公を討ち取り仇討ちを果たした有名な「元祿赤穂事件」。近年でもドラマや映画がヒットしました。もう解説するまでもなく有名なお話ですが、こちらにはその四十七義士の遺髪塔があります。事件後、それぞれ熊本細川藩へ17名、松山の松平家に10名、毛利家へ10名、水野家へ9名。計46名は四つの大名屋敷にそれぞれ預けられました。お一人だけ泉岳寺で別れたとされる寺坂吉右衛門さんはその後83才まで生きられました。

赤穂十七義士遺髪塔と由来

一、赤穂義士の接待役

元禄十五年十二月十五日夜半、芝白金(現在の東京都港区)の細川藩邸では藩主網利公自ら義士を玄関に出迎えて「武士の鏡だ」と激賞し接待役の藩士、堀内伝右衛門さんも義士が切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けました。

二、義士の遺髪塔建立

義士達は彼らの遺言により浅野家墓所の泉岳寺に葬られましたが、伝衛門さんは、せめて遺髪なりともと貰い受け、自分の知行地たる杉村(寺島の一部も)に持ち帰り菩提寺である日輪寺の境内に遺髪塔を建立しました。伝右衛門さんご夫妻のお墓は境内の墓地にあります。

三、現在の遺髪塔

建立から二百年経ったある日、草むらの中から古い碑が掘り起こされました。風雪に傷んだ古い碑を中心にすえ、前方に大理石の碑と屋根、右外側に由来記の大きな碑が建てられました明治四十五年二月四日の事である。その後昭和四十四年に屋根の修復、玉垣の新設、四十六年に左外側に十七義士記名碑建て(赤穂市長)の工事が行われました。

ちなみに四十七士の中で最年長の堀部弥兵衛金丸さん(ほりべやひょうえかねざね)のご親族が熊本細川藩におられ、当時の史料などが現在でも残っています。境内の奥にも大石内蔵助さんの像が立っています。男達の忠義・友情・生き様・歴史ロマンに浸れる場所ですね。

書き置きタイプのご朱印で日付はご自身でお入れください。

日輪寺

日輪寺の境内には他にも史跡があります。楼門をくぐるとすぐそばにあるご神木。平安時代から南北朝時代にかけて九州を制し隆盛した菊池氏。その中でも特に有名な菊池武時公が、鎌倉時代にお手植えされたと伝わる「羅漢槙(らかんまき)」や武時公の御息女であった了心素覚尼様のお墓などあり代々熊本藩主に大切に庇護されました。

境内中の階段を登ると大きな「おびんずるさま(撫でぼとけ)」の像(お釈迦様のお弟子十六羅漢の一人)などもあります。3号線沿いにあり駐車場も広く、トイレも綺麗でした。

東京港区 泉岳寺

赤穂義士のお墓といえばこちら東京都港区高輪にある「泉岳寺」

こちらには大石内蔵助良雄銅像があります。右手には連判状を手に東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿だそうです。

萬松山 泉岳寺 慶長十七年(1612)、今川義元公の孫、門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて、将軍徳川家康公により幼きころに身を寄せた今川義元公の菩提を弔うために江戸城に隣接する外桜田の地に建立されました。(曹洞宗)しかし寛永十八年(1641)の大火により焼失。その後、三代将軍家光公により現在の高輪(たかなわ)に移転再建。その際に尽力されたのが、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名。また赤穂藩主浅野家の菩提寺であった事から元禄十五年(1702)十二月十四日の義挙の後は四十七義士の墓所としても知られます。

境内のお隣にお墓がありました。よくテレビなどで出てくる場所ですね。

これどうするのか気になってましたよね子供の頃。入口で300円払うと、半分に割った竹の上にお線香が乗っているこちらをいただけます。あとはそれぞれのお墓に位置に行って乗せていきます。

どなたのお墓はわかるよう案内板がありました。

大石内蔵助良雄公のお墓です。全員分に多めにお線香がありますので安心してお参りできました。御朱印もあるみたいですが、コロナの影響で休止されてました。またの機会に。

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