【福岡県】高杉晋作との憂国の絆/野村望東尼山荘跡

 幕末史上の大英傑と言われた「高杉晋作」公。もう今さら説明不要の人物。天保十年(1839)萩に生まれ奇兵隊と共に動乱の幕末を駆け抜けた青年は結核という病に冒され、わずか二十七歳でこの世を去りました。その晋作と心を共にした三人の女性たち「妻の雅子・おうの・望東尼」。その中で、あまり知られてない歌人野村望東尼と高杉晋作との絆の物語。

 福岡市の中心部近くにある平尾山荘・望東尼山荘跡。こちらには野村望東尼ゆかりの石碑・銅像・復元された山荘・資料室があり無料で見学できます。少し離れていますが最寄りのバス停は西鉄バス「教会前」か「動物園前」。

野村望東尼とは

文化三年(1806)福岡生まれ、名は「もと」黒田家の家臣である浦野重右衛門勝幸の三女。文政五年(1822)十七歳の時に福岡藩士の郡利貫と結婚しますが、わずか半年で離婚。

その後、二十四歳の時に詩歌をたしなむ野村新三郎貞貫の後妻となりました。四百十三石取りの野村家は由緒正しい家柄で、もとは先妻の生んだ三児もこよなく愛育しながら幸福な家庭を築きます。そして二十七歳の時に歌人である大隈言道へ弟子入りしました。その後、政争を嫌った夫の貞貫は平野村に山荘を建て棲居しますが、次々と不幸が二人に訪れました。

 自分の子(四人)、先妻の子たち(三人)が次々と亡くなり、安政六年(1859)には、貞貫までもが病で亡くなってしまいました。残された「もと」は、五十四歳になった時に「望東尼(ぼうとうに)」と称し剃髪して亡き夫と子供達の菩提を弔いました。

写真は山荘跡の石碑です。幕末回天の時代、国を憂う若者たちと交流するなか望東尼も次第に志士たちの熱い思いに心動かされ、京都や大坂へ行き来しながら志士たちへ情報を提供したり、この山荘で、月照や平野次郎国臣をはじめ多くの志士たちをもてなし、時には匿う事もありました。

こちらには小さな祠があり、平野次郎国臣と中村恒次郎の短歌が刻んだ円筒形の納めてあるそうです。

高杉晋作との十日間

 長州藩内の俗論派の粛清を避け亡命した高杉晋作もこの山荘で匿われた一人。元治元年(1864)十一月十日この山荘に突如現れ、長州の情勢を憂い下関へと出立するまでの十日間ここで生活を共にしました。短い滞在期間でしたが、お互いに相通じる憂国の思い、敬愛の心が深い絆となり二人を結びつけました。

滞在中、禁門の変の責任により長州藩の家老三人が処刑されたとの報が入り、晋作さんは危険を承知で急ぎ長州へ帰る事になりました。裁縫が大の得意であった望東尼は、すぐさま和歌三首と共に羽織、袴、じゅばんを縫い餞別として贈りました。

まこころを つくしのきぬは 国のため たちかへるへき 衣手にせよ

「まごころを尽くし筑紫国で縫った着物を、国(長州)の為に帰る際の着物にして下さい」という意味です。

無事に下関に着いた晋作さんは、

高杉晋作公

この世では、もう二度と会うことないけれども、あの世でお礼をしたい。

その後、世に言う「功山寺決起」へと続いて行きます。

望東尼の危機を救った晋作

 しかし、慶応二年(1866)九月、志士たちを匿った罪で望東尼は福岡藩に捕まり、姫島(福岡県糸島市)への流刑にされてしまいました。それを知った病床の晋作さんは、すぐさま報国隊の六人を船で姫島へ向かわせ、無事に島から救出し下関へ迎えて恩に報いました。島の人たちも見て見ぬ振りをして応援したと言う話です。そして下関で病床の晋作さんと再会できました。

今生の別れ

 下関に着いた望東尼は、とりあえず白石正一郎邸に隠れます。白石正一郎とは、下関市竹崎町にある荷受問屋「小倉屋」のご主人で西郷さんや龍馬さん、晋作さんとも親交があり、奇兵隊の援助もしていた方です。やがて赤間町「奈良屋」の主人、入江和作宅で、吐血しながら病に苦しむ晋作さんに付き添い、世話をしながら日々を過ごします。

病床でお二人のやりとりは有名ですね。

高杉晋作公

おもしろき こともなき世に(を) おもしろく 

「面白い事をない世の中でどう面白く生きようか」。後の句を望東尼に頼みます。

野村臨東尼

すみなすものは 心なりけり

と下の句「それはどう思うかはあなた次第、心を澄まして生きて暮らす事が大切です」をつけると

高杉晋作公

おもしろいのう…..

と、笑ったといいます。晋作さんらしいですね。これが辞世の句となりました。姫島から望東尼を救った翌年の慶応三年四月十四日午前二時、下関新地にある林算九郎方の離れに移された病室で、妻雅子や望東尼らに見守られながら高杉晋作は二十七年七ヶ月の生涯を閉じました。それから半年後の十月、幕府は朝廷に大政を奉還し、翌年九月に「明治」と改元されました。

高杉晋作終焉の地

JR下関駅から少し離れた場所にある高杉晋作さんの終焉地です。現在は住宅地の中にあります。亡くなった後もたくさんの人達が来られてたんでしょうね。

その後

防府天満宮

 東望尼は晋作の死後、しばらくは下関にいましたが、やがて山口県の小田村素太郎のもとに身を寄せます。慶応三年九月、討幕軍の出征を見送るため三田尻まで行き防府天満宮で七日間戦勝祈願の参詣をしますが、同時に行った断食と姫島での衰弱の為か病にかかり病床へ。そして大政奉還が行われた一ヶ月後の慶応三年十一月六日にこの世を去りました。享年六十二。亡くなる七時間前に詠まれた最期の和歌は

野村東望尼

冬ごもり こらえこらえて ひとときに 花咲きみてる 春は来るらし

「冬の寒さを、長い間じっとこらえていましたが、やっと花が咲きほこる春が来るようです。」その一ヶ月後、王政復古の大号令が発せられ、時代は「明治」へと移りました。

防府天満宮は「日本最初の天神さま」として知られています。望東尼が戦勝祈願をし。七日間毎日詠まれた和歌七首が奉納されました。境内には、銅像と歌碑があります。小さいですが歴史館もあり長州藩に関する展示物があります。

望東尼の墓所

まずJR防府駅から南へ15分ほど歩いて大楽寺というお寺を目指します。こちらには萩藩の第七代藩主であった毛利重就公の分骨廟があります。

ほかにも毛利水軍の梵鐘や女優の夏目雅子さんのお墓がある事でも知られています。

そちらから道案内通りに公園の奥の方へ進みます。数百mくらいでしょうか思ったより結構先にあります。

高台にある桑山公園の一角にがお墓がありました。お墓は三田尻港と瀬戸内海の方向を向いています。

JR西日本 防府駅

山口県にあるJR防府駅。割と新しく綺麗な構内で、観光案内所が中にあります。レンタサイクルも貸し出されています。

駅から防府天満宮まで1200m、毛利氏庭園と毛利博物館までは2600mと離れていますので。バスがレンタサイクルを利用した方が楽です。

毛利氏庭園・毛利博物館

こちらが毛利庭園・奥に毛利博物館があります。戦国時代に毛利氏と信長公や秀吉公が取り交わした書状などの展示もされています。

庭園と建物がとても綺麗です。こちらは大正・昭和時代に天皇陛下がお泊まりになられた部屋も見学できます。

最後に…..

高杉晋作さんが亡くなる前に、望東尼さんたちへの最期の言葉(遺言)は

高杉晋作公

しっかりやってくれろ

だったそうです。きっと口癖だったんでしょうね。

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