甲斐の虎武田信玄公については前回やりました。今回は、清和源氏の河内(大阪南部の河内)源氏の流れをくむ武田氏の源流と終焉、武田勝頼公ゆかりの地を巡ります。
甲斐源氏発祥の地 武田八幡宮 御鎮座1200年目
まずは韮崎市の武田八幡宮から。木製の鳥居は、防腐剤の黒さでしょうか黒漆のような重厚感があります。正面の山へ向かう長い参道の先に武御鎮座されています。
「当社は弘仁十三年(822)に勅命により九州宇佐神宮の御分霊を勧請奉祀し、地神の武田武大神と併祀して武田八幡宮と称したという。甲斐源氏の崇敬をあつめ、甲斐武田氏の初代当主となる甲斐守義光の曽孫龍光丸は、当社で元服を行い武田信義と名乗ったと伝わり、以来この郷一帯を寄進して当社を氏神とした。
戦国時代になると武田信虎が信義以来信仰の厚い当社の再建に着手し、その後武田晴信(信玄)が天文十年(1541)に当主になると本殿再建を引き継ぎ、同年十二月二十三日に完成させ、現在もその姿を残している。
勝頼の代になると勝頼夫人が戦勝を祈念して天正十年二月十九日に奉納した願文は、武田氏を守る神社として厚く信仰されていたことを示している。武田氏が滅亡した後も徳川氏などによって保護されながら広く信仰された神社である。』訪れた年は『御鎮座1200年目』のメモリアルイヤーでした。
本殿の横には『為朝神社』が御鎮座されてます。『為朝神社は鎮西八郎為朝を祀った神社で、現歴元年甲辰年武田太郎信義が社殿を建立し、為朝の画像と大長刀を納め神霊を祀った。後文化十三年丙子年三月源氏の直系深沢文兵衛源直房等がその衰類類を憂い、昔日の面影を再現したものである。
古来、疱瘡除けの神として四方民の信仰厚く、遠近より賽する者多かりしが明治維新後種痘の実施と共に参拝者も後を断つに至った。戦後再び人文史美術研究のため詣う人が日を追って増加している。』
為朝神社を含む一帯は、かつて白山城(北烽火台)があったようです。「甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点城郭として、また新府城防衛の拠点として重要な枠割りを担っていた。」
御朱印
創建1200年を迎えた武田八幡宮の御朱印をいただきました。
新府城跡
続いては、同じ韮崎市の県道17号線沿いにある『史跡 新府城跡』。小さいですが沿道と100m先に駐車場があります。「新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正九年(1581)春、武田勝頼が甲斐府中として城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。
勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これによって強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。
ついでに城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年十二月甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年三月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、自らこの城に火を放って退去するのやむなきに至り天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。
廃墟と化したこの城も、同年六月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、我に五倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。
この城は、八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその方に東西二基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。丸太や板で壁を作り当時の最新武器である鉄砲対策も施されていた模様です。
クマ出没注意の看板にビビりましたが、無事本丸へ辿り着きました。『築城起工:天正九年二月十五日 入城:天正九年十二月二十四日 落城:天正十年三月三日(勝頼の在城六十八日間)』この標示柱の他には
「武田勝頼公霊社」と「武田14将霊碑」があるようです。
武田勝頼公の供養塔と武田軍の武将たちが祀ってあります。長篠の合戦で没した者のお墓もありました。
こちらが「武田勝頼公霊社」のようです。この新府城を捨てる事に関しては、家臣で武田二十四将の岩殿城城主小山田信茂の発案によるものとされています。信茂は裏で信長軍に内通しており、のちの悲劇を迎えます。
韮崎中央公園のSL
さて、韮崎市を離れる前に「韮崎中央公園」に寄って少し息抜きしてみましょう。広い駐車場の広い公園で、Jリーグのヴァンファーレ甲府の練習場でもあります。時にはコーラス部の美声が聞こたりします。
こちらの名物は『ミニSL』。休日のみ10時から12時・午後1時〜4時まで運行です。石炭で動くのが特徴で「乗車は子供だけでしょ?」と思うかもしれませんが、「大人でも乗れます」。むしろ乗客は大人の方が多いです笑。
切符売り場で100円硬貨を入れて乗車券を買う方式です。全長242mの林の中を走リます。ぜひいかがですか?ただし、運行は日曜日・祝日のみ。
湯村山烽火台
令和三年で信玄公生誕500年を迎えるにあたり甲府市では、全国から寄付を募り誕生プレゼントとして湯村山に烽火台(のろしだい)を整備しようという企画がありました。(烽火台とは火を燃やし立ち昇った煙で遠く離れた相手に伝達するために使われた台の事)
少額ながらこの企画に寄付をさせていただきまして、ぜひ完成した烽火台を一目見ようと湯村山登山口へ向かいました。25分で着くようですが脚力によります。くねくねととても長い坂で足がガクガクでした。
舗装されてますが徒歩でしか登れません。かつてこの湯村山には湯村山城があったようです。
到着。見事な烽火台が完成していました。しっかり四本足で立っているこの烽火台が使用されるのは、年に一度行われる「信玄公祭り」と併せて行われる「のろしリレー」でのようです。ずっと元気でいてほしいです。
法泉禅寺
烽火台のあった湯村山の麓にあるお寺「法泉禅寺」。禅寺とは、武家の学校といったような所で、ここで立派な武士として教育を受けます。こちらのお寺は南北朝時代に武田信武公が創建した寺とあります。
お寺には「勝頼軍将士供養塔」とお墓があり、その中には『武田信武公と武田勝頼之墓』があります。
武田信武公は、甲斐源氏の祖源義光から数えて十代目、信玄公の九代前にあたる人で甲斐と共に安芸の守護職を兼ね、鎌倉時代から南北朝時代(足利尊氏側に味方した見返りにより安芸を領しました。)に活躍しました。のちに安芸武田氏、若狭(福井)武田氏が信武の子孫から分かれ、武田氏中興の祖と称されました。
信武公の隣に武田勝頼公のお墓もあります。「法泉寺第三世岳禅師が京都から武田勝頼の首級をもたらして密かにこの地に埋め、その標として山桜を植えたのがこの桜である。この山桜は近郊に自生するものとは種類が異なり、奈良の吉野山のものと同種のものである。」
武田勝頼公の首級は、京に送られ六条河原で晒され、その後、京都の妙心寺にて葬儀が行われ埋葬されたと言われています。その葬儀に参列した快岳宗悦和尚が、分骨を貰い受け境内に埋葬されたようです。では、勝頼公が終焉を迎えた地へ向かいます。
武田勝頼公像の生涯
JR甲斐大和駅近くに建立されている「武田勝頼公之像」です。とても見たかった像です。武田勝頼公は武田信玄公の第四子で、天文十五年(1546)、諏訪頼重の娘を母として諏訪に生まれ諏訪四郎勝頼と名乗りました。信玄公の没後天正元年(1575)に家督を継ぎました。
天正三年(1575)五月、武田軍は長篠合戦で大敗し、以後勝頼は領土の拡大より領地の支配といった内政に力を入れるようになリます。また信州:駿府からの敵軍侵攻に備え、天正九年(1581)新府築城に着手、躑躅ヶ崎城から移りました。写真:躑躅ヶ崎城跡(武田神社)
天正十年(1582)二月二十五日、親族衆で富士川沿いの河内領を支配していた穴山信君が織田側に寝返り、三月三日に徳川家康公と共に北上、更に信州の高遠城を落とした織田信忠が南下し、親族をはじめ味方の多くが勝頼の元から離れていきました。
勝頼は小山田信茂の岩殿城へ向かうべく、住み始めたばかりの新府城に火をつけた。一行が勝沼を過ぎたところ小山田信茂の入城を拒否され、勝頼公の進退は窮しました。新府城を出たときは、五〜六百人程いたとされる従者は、この時には四〜五十人しかいませんでした。
武田勝頼公終焉の地 景徳院
甲州市の曹洞宗寺院の「景徳院」。この田野の地で一行は、平屋敷に柵を設け陣所としました。
三月十一日、情報を聞きつけた滝川一益が、滝川益重と藤岡右衛門に命じ一行を包囲させ「天目山の戦い」が始まりました。
勝頼公一行は、奮戦するも逃げられまいと悟った勝頼公は、この地にて自刃。武田氏は滅亡しました。勝頼公三十七、勝頼夫人十九、信勝公十六。写真:自害された場所と言われる生害石
お墓は中央に武田勝頼公の宝篋印塔、右側に勝頼夫人、左側に信勝公の五輪塔です。織田信長が没すると、家康公が甲斐国主になり、勝頼公ら将士の菩提を弔う為に景徳院を建立しました。
小山田信茂は武田氏滅亡後、織田信長公が本陣を置く甲斐善光寺へ赴き嫡男を人質として恭順しますが、信長の長男織田信忠に「長年の恩を忘れて主君を裏切るとは何事か!」と叱責され一族と共に処刑されました。
甲斐天目山 栖雲寺
本来なら辿り着くはずだった天目山栖雲寺は、景徳院から山頂へ向かう途中にあります。こちらは今でも続く禅寺で、楽しい住職さんがおられ、蕎麦切り体験や楽しい座禅会などイベントがあるようです。
栖雲寺は、貞和四年(1348)業海本浄禅師が開山した禅寺で、元の天目山で修行して帰国後、武田家の招聘によりお寺を開いた。以来、武田家の信望が厚く、境内には武田信満の墓があります。勝頼公が最後に目指した場所は、懐かしい恩師がいる禅寺だったのでしょう。きっと…。
御朱印
御朱印も数種類あり、時々期間限定の御朱印もあります。