【愛知県】信長公天下統一始まりの地/清須市清洲城

戦国時代を語る上で避けては通れない城の一つ「清洲城」。本能寺の変で横死した織田信長公の後継者を巡って秀吉公と柴田勝家公が意見をぶつけ合った地として知られています。

JR東海 清洲駅

東海道本線の途中駅「JR清洲駅」。思っていたよりこじんまりとした無人駅。駅の周りを整備されているようでバリケードで囲まれていました。近くにはレンタサイクル店があります。ここから清洲城までは少し歩くので借りた方がいいと思います。重い荷物を持って酷暑の中を歩くのは大変です。

清洲城

キレイな朱色の橋の向こうに聳える「清洲城」が見えてきました。とてもキレイな天守は平成元年に建てられた鉄筋コンクリート製の模擬天守で、本来の清洲城は慶長十四年(1609)に廃城になっています。

城内には、清洲城の歴史資料館にもなっていて展示物は映像も放映されています。

もちろん天守にも登って眺めを堪能できます。朱色の橋と長い貨物列車。現在五条川のほとりにあった清洲城跡は、中央を通る東海道本線と新幹線で分断され、線路の南側は城跡公園、本丸跡は線路の北側にあります。

城跡公園の織田信長公像

清洲城の前の橋から線路の下を通って城跡公園に行くと信長公像が建っています。

横には信長公を見つめる正室「濃姫(のぅひめ)」の像も建っています。明智光秀の娘・小見の方を母に誕生。天文十七年(1548)、政略結婚で信長公に嫁ぎます。濃姫とは「美濃から嫁入りしてきた姫」という意味です。

一般的には、知的で気性のしっかりした女性であり、信長公の苛烈を和らげる良き妻であったとのイメージがありますが、これは後世描かれた小説などの影響によるもので、その実像はほとんどわかっていません。結婚後は歴史の表舞台に一切名を残さなかったせいか、病弱説や離婚説など様々な説が取りざたされますが、これも根拠はありません。

戦国の覇者・信長公の正室という立場にあったという事実だけが濃姫という女性の謎めいた魅力となって、人々の想像を掻き立てています。

「織田信長公天下統一の第一歩が、ここ清須から始まり、幾多の困難を乗り越え、二人の絆や支えあいにより勝利を収めた歴史の地」

清洲城のはじまり

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清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重(しばよししげ)が守護所下津城(現稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要所の清洲に築城されたと伝えられています。その後文明八年(1476)に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲城に移ったとされています。

家臣織田氏の躍進

この時期の尾張国は、守護代(守護の代理:家臣)の織田氏が力を持つようになり、尾張の上四郡は岩倉の織田氏、下四郡は清洲の織田氏が分割支配し、主家の斯波義統の頃には織田信友が清洲城主となっていました。天文十三年(1544)斯波義統の家臣梁田弥次右衛門らが斯波氏を蔑ろにする信友を殺そうとした事に激怒した信友は、本丸に立て篭もった斯波勢を討ち義統は自刃。

なんとか城を脱出した義統の遺児岩竜丸は、那古野城の信長公に救いを求め元治元年(1545)清洲城に攻め寄せた信長公は信友を切腹させ入城、主家清洲織田氏の領地であった下四郡を手中に収め尾張支配の本拠地とします。その後、岩竜丸を元服させ斯波義銀と名乗らせましたが、永禄四年(1561)信長公に反抗したため追放、ここに斯波氏は滅び織田信長公は事実上尾張の主となりました。写真:安土駅前の信長公像(滋賀県)

永禄三年(1560)桶狭間の戦いに出陣したのも清洲城からでした。その後、小牧城、岐阜城、安土城へと居城を移しながら近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ邁進しますが、

ご存知の通り天正十年(1582)六月二日未明、本能寺にて天下布武を目前にし明智光秀に討たれ落命。享年四十八。写真:本能寺跡(京都)

清洲会議

柴田勝家

明日登城候へ、お城において各申し談じ、天下人を相定めるべし!

と織田家筆頭家老である柴田勝家公により出され、六月二十七日(十三日山崎の合戦)主君信長公亡き後の後継者を誰にするか会議が清洲城で開かれ、柴田勝家・羽柴長秀・羽柴秀吉・池田恒興の四人が議論しました。

柴田勝家公が推すのは次男織田信雄。秀吉公が推すのは長男織田信忠の嫡男【幼名:三法師】秀信。(信忠は本能寺の変時、二条御所で明智軍と戦い自刃)山崎の合戦で手柄をあげた秀吉公の擁立に羽柴長秀も賛同、柴田勝家公は反対しますが、結局渋々同意したことで三法師が後継者に決まりました。写真:絵本太閤記

その後三法師は安土城に入ることになりましたが、焼失改修中だったため一旦岐阜城の織田信孝の元へ預けられました。納得のいかない柴田勝家公は信孝と結び秀吉公へ対抗意識を燃やし、安土城の仮館へ三法師は移った後も。写真;安土城天主跡(滋賀県)

滝川一益公と共に秀吉公を挟み撃ちする計画を立てたことで翌年天正十一年(1583)賤ヶ岳の戦いとなり柴田勝家公は北ノ庄城で滅び、信孝公も自刃する結果になりました。写真;北ノ庄城跡(福井)

清洲越え

清洲城の城主は、福島正則公、松平忠吉公と移りますが、最後の城主徳川義直公が新しく名古屋城を築城した事で、城下町もろとも名古屋城へと移る事に。世に言う「清洲越え」と言われる大移動が行われました。その時に清洲城は廃城。城下町も荒地になってしまいました。そのことも現在の清洲城内で資料展示されています。御城印は城を結ぶ橋の手前にあるお土産品店で販売されています。

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