【山形県】謙信が眠り、政宗が生まれ、兼続が〝愛〟した城下町/米沢市米沢城跡

山形県の置賜(おいたま)地方の中心地米沢市。かつて出羽米沢藩十八万石の城下町として栄え、上杉氏の拠点であった米沢城。現在は松が岬(まつがざき)公園として整備されていますが、かつてそこに本丸がありました。

松が岬公園まつがさきこうえん

150m四方の本丸の周りをお堀が囲み、右上(黄色)の場所に駐車場、近くの上杉城史苑(お店)付近にバス停留場があります。本丸には上杉神社の他に観光案内所、二ノ丸には「伝国の杜米沢市上杉博物館」があります。

櫓や御殿などは無く当時を偲ばせるのは堀と土塁だけですが、当時本丸には御三階櫓、二ノ丸には四基の二重櫓が建っていました。現在本丸跡には上杉神社が御鎮座され、参道沿いには数多くの石碑や石像が建っています。

上杉謙信公祠堂跡

江戸時代、上杉謙信の遺骸を安置した御堂跡の石碑があります。「謙信は天正六年(1578)三月十三日、越後春日山城で逝去、享年四十九であった。その遺骸は甲冑を着せ甕(かめ)に納め、漆で密閉したと言われている。

その後、謙信の跡を継いだ上杉景勝が会津一二〇万石、米沢三〇万石に移封されるに伴い、謙信の遺骸も移され、米沢城南東隅のこの地に御堂を建て安置した。謙信遺骸の左右には善光寺如来と泥足毘沙門像が置かれ、その後は歴代藩主の位牌も祀り、最も神聖な場所として厳重かつ鄭重に祀られた。

明治四年の廃藩に際し、仏式を改め神式とし、謙信は上杉神社の祭神として祭られる。謙信の遺骸は同九年に歴代藩主が眠る御廟所(上杉家墓所)に移された。」

伊達政宗公の生誕地

もともと米沢城は鎌倉時代に地頭として入った長井時広が居館を置いていましたが、南北朝時代になると陸奥國伊達郡(福島)の伊達氏が置賜へ進出し長井氏は追われました。

天文十七年(1548)伊達晴宗が本拠を米沢に移し、輝宗、政宗の三代にわたり米沢城下が整備されました。天正十九年(1591)政宗公が太閤秀吉公の命で岩出山城へ移ることになり、替わって蒲生氏郷公の家臣蒲生郷安、そして慶長六年(1601)上杉景勝公が米沢に入部し上杉氏の時代になりました。

上杉神社

参道にはためく「龍」「毘」の文字が印象的です。明治時代に入り御殿や櫓などは取り壊され、本丸跡に上杉謙信公を祀る上杉神社が御鎮座されました。

上杉謙信公の像

境内には御祭神である上杉謙信公像が建っています。すぐ側にも跡を継いだ上杉景勝公と直江兼続公の像もあります。

天地人てんちじん

「慶長六年(1601)上杉家は関ヶ原戦の責めを負って、会津百二十万石から米沢三十万石に減封されました。初代藩主は上杉景勝公、その執政が「愛」の前立ての兜で知られる直江兼続公です。二人の主従は固い絆で結ばれ、義と愛の心で領国経営にあたり、米沢藩二百七十年に渡る治政の礎を築きました。

上杉鷹山公像

アメリカ合衆国第35代大統領だったジョン・F・ケネディが日本人記者団からの質問に「日本の政治家で最も尊敬するのは上杉鷹山である」と答えた事でも知った方が多いのでは。

「窮乏の淵にあった米沢藩を卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)七月二十日高鍋藩三万石(宮崎県)の藩主秋月種美の二男として誕生。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。春姫の母な上杉綱憲の娘。

宝暦十年上杉重定の養子に迎えられ、明和三年治憲と改名。翌四年十七歳で米沢十五万石の藩主となりました。天明五年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し鷹山と号した。鷹山の興した米沢織・米沢鯉・深山和紙など産業は現在に伝承されている。「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」上杉鷹山公詠

稽照殿けいしょうでん

上杉神社には、宝仏殿にあたる稽照殿という施設があります。こちらには上杉景勝公・直江兼続公・上杉鷹山公の遺品などが展示されている施設になります。

拝観料は一般700円。入館時間は9:30〜15:45まで。開館期間は3月下旬〜11月下旬まで。休館日は8月を除く第2水曜・展示替(7月中旬)。

上杉神社 御朱印

上杉神社では、同じく公園内に御鎮座されている摂社松岬神社(上杉鷹山公を祀る)の御朱印もいただけます。

幕末の米沢藩

千坂与一高雅の主導で藩論は佐幕が大勢を占め、列藩同盟結成にあたっては仙台藩と共に指導的立場をとり白石会議には竹股美作久綱を派遣して列藩同盟の盟主格となりました。

幕末の米沢藩主は、上杉家13代上杉㬢山(ぎざん)公。【㬢山は斉憲公の号】。戊辰戦争では187人の戦死者を出し降伏。その責で四万石の減封と隠居を命じられ明治元年(1868)に隠居。長男の茂憲公に家督相続が許されました。

当時の藩主は上杉勝道公。白石会議には江口復蔵を派遣したが、戊辰戦争後の処分は受けませんでした。

米沢城の御城印

米沢城の御城印(墨城印)は上杉神社境内で休んでおられる直江兼続公の隣、観光案内所にて販売されています。

販売価格は300円ぐらいだったかと思います。

もちろん、そのほかにもお土産品・武将グッズ・観光パンフレット・レンタサイクルなどもあります。愛の武将隊は大好きな方々です。

飲むと勇気が出そうです。暑さ寒さが厳しい際に特に助かります。

米沢市上杉博物館

松が岬公園内にある大きな施設「伝国の杜 米沢市上杉博物館」。その名の通りご当地の歴史、特に上杉氏を中心に学べる施設です。

入館料は常設・企画展セットで800円。入館は9:00〜16;30まで。休館日は4月〜11月までは毎月第4水曜日、12月〜3月までは毎週月曜日。月曜日が休日の場合はその直後の平日

ご当地グルメ

米沢城の駐車場近くにある上杉城史苑周辺には、ご当地名物が販売されていて味わえます。

山形のソウルフード「玉こんにゃく」。SNSで知ってから、ずっと食べたかった。30℃を超える真夏でも販売してるんですね。しっかりフーフーハフハフして食べました笑。黄色いのは練りからしです。

JR東日本 米沢駅

米沢城へ向かうには、米沢駅から市内を循環する市民バスに乗り「上杉神社前」を目指せば230円ほどの安価で済みます。1時間に1本の割合で、右回りでも左回りでも着きます。

後で知ったのですが、こんな一日乗り放題パスがあったのでした。米沢城の観光案内所や米沢駅でも販売されています。

戦国時代の名補佐役 米沢城主直江兼続公

米沢城主の直江兼続公は、永禄三年(1560)樋口惣右衛門兼豊の長男として生まれました。樋口家は木曽義仲の四天王と言われた樋口次郎兼光の末裔で、父は上田長尾の家臣でした。兼続公は幼少の頃より聡明・利発で、その才を見込んだ上杉景勝公の母である長尾政景夫人(仙洞院=謙信公の姉)の勧めで景勝公の近習となりました。これが、景勝公と兼続公の最初の出会い。

御館の乱での活躍

兼続公が最初に名をあげたのは、上杉謙信公が亡くなり、その後継を巡って二人の養子景勝(甥)と景虎(北条氏康の子)が争った有名な「御館(おたて)の乱」での事。

ここで景勝公は、謙信公の遺言によるものとして春日山城を占領し、城内の金蔵にある巨額な金を手中にしました。これにより二人の勝負はほぼ決しました。この電光石火の策を献じ、指揮をとったのが、その時十九の兼続公でした。 写真:春日山城絵図(上越市)

執政役に抜擢

謙信公の跡を継いだ景勝公。越後の名門である直江家が絶家に瀕していたため兼続公に直江家を継がせ、執政職にも就かせました。これにより兼続公は上杉家の政治全てを統轄することになりました。景勝公は寡黙な人物だったようですので兼続公が表に立ち指揮・献案し、景勝公が決定するというルールだったようです。写真:上杉景勝公肖像画

太閤秀吉公も惚れ込む

上杉家と織田家は敵対関係でしたが、信長公が本能寺の変で討たれ、謙信公も病で亡くなり、跡を継いだ秀吉公と景勝公の新たな時代を迎えました。天下統一を目指す秀吉と交戦か?従軍か?景勝公は悩みます。名門上杉家が風下に立つことに抵抗があったでしょうが、〝戦わず手を結ぶ事〟を兼続公は進言しました。もし交戦していたならば、結果は明らかだったでしょう。景勝公は承諾し秀吉公との会見が実現しました。

時代を読んだ景勝公は豊臣五大老(徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家)として地位を得たばかりか、加増を受け百二十万石の大大名に出世しました。秀吉公にもその器量を買われた兼続公、再三家来になるよう誘われましたが断り続けました。

越後から会津へ転封

慶長三年(1598)秀吉公の命で上杉景勝公は、越後から会津へ転封になりました。これは会津蒲生氏の家中騒動による事と関東により近い会津に移る事で関東の家康公に対する牽制の意味もあったとされています。写真:会津若松城(福島県)

直江状と関ヶ原の戦い

秀吉公が亡くなると、その後の政務は五大老と五奉行の合議によって行う事になりましたが、次第に発言力が大きくなる家康公に天下取りの野心を感じた石田三成公と上杉景勝公。度々難癖をつけて上洛を促す家康公に対し、慶長五年(1600)兼続公が〝喧嘩状〟〝関ヶ原のきっかけ〟と言われる〝直江状〟を突きつけました。

この直江状に激怒した家康公は〝会津仕置き〟と称し大軍で上杉征伐へ向かいましたが、下野に差し掛かったところで「石田三成挙兵」との報を受けました。会津国境には上杉軍が迎撃の布陣を敷いているため、大返ししたら背後から討たれるのは明らか。諸将と軍議を何度も重ね悩んだ末、家康公は仕方なく大返しに踏み切りました。

上杉景勝公の〝第一義〟

一方の上杉側では、直江兼続公が着々と追撃の準備を進めていました。

直江兼続公

殿、ここで家康を追撃すれば天下を獲れますぞ!そのまま江戸へなだれ込みましょう。

上杉景勝公

ならぬ。我が上杉の軍法に敵の背後を襲う戦法なし。

写真:上越市埋蔵文化財センター(新潟県)

直江兼続公

殿、何とぞ御再考を。

上杉景勝公

軍を北へ向けよ。敵は最上義光!最上領へ進め!

景勝公は、他の諸将と同じように長期戦を予想しましたのか、家康軍を追撃せずに北方の最上氏との合戦に挑みましたが、その最中に石田三成の西軍がわずか半日で敗れる予想外の報を受け仕方なく撤退し降伏する事になりました。写真:関ヶ原の合戦絵図

関ヶ原後の処遇

敗れた西軍の石田・小西・安国寺は処刑されました。景勝公の処遇を心配した兼続公は、助命を求め伏見の家康公へ直談判に向かいました。

直江兼続公

主君景勝が押し止めしたにもかかわらず、拙者が独走し徳川様にお手向かいたてまつりました。主人景勝には責任ありませぬ。罪は兼続一人にございます。

必死の助命嘆願が実り、会津藩百二十万石から米沢藩三十万石への移封されたものの、景勝公は助命され名門上杉氏は命脈を保てました。

兼続公がつくりあげた米沢の城下町

米沢藩に移り上杉家の家老となった直江兼続公。今度は領国経営に手腕を発揮しました。前述の通り百二十万石から三十万石に減らされてしまいましたが、家臣を四分の一に減らす事なく全員召抱えたまま上杉家の再興という難題に立ち向かいました。

まず徹底した経費節減に取り組みます。米沢城に天守も高い石垣も土居も無いのはその為です。多くの家臣を住まわせるため、一軒に多数の家族を住まわせ、それでも城下に収容仕切れない下級武士のため周辺に屯田集落(南原・東原・福田・館山など)を作り食糧生産に従事させました。現在でもその頃の栗の古木が現存しています。

その他、治水・植林・殖産産業にも力を注ぎま上杉家へのため、米沢の発展に尽力した兼続公は、自分と妻の死後は直江家を絶家して禄高を上杉家に返上しました。

直江兼続公の墓所 春日山林泉寺

その名将直江兼続公の菩提寺は、米沢市の曹洞宗春日山林泉寺にあります。曹洞宗は禅寺として多くの武士たちの学校でした。

境内は上杉鷹山公がお手植えのしだれ桜、上杉家廟所、武田家の家来の方のお墓もあります。お寺の方も熱心に色々教えてくださいました。感謝です。

こちらがお墓になります。青色の網カバーをかぶっていますが、横の松の選定作業のためで普段はありません。

「米沢藩の基礎を築いた直江兼続とお船の方夫妻の墓で、向かって左が兼続、右が夫人の墓である。墓は「万年堂」と称される家型塔婆(山形地方に多く見られる家型のお墓)で、中に五輪塔がある。正面の三つの穴は直江家の家紋「三盛亀甲花菱紋」を象ったといわれている。」

武田信玄公の娘菊姫

「菊姫は米沢藩初代藩主上杉景勝の正室で、父は武田信玄である。信玄の死後、嫡子勝頼は上杉謙信と和を結び、天正七年(1579)に妹菊姫を越後春日山城の景勝に嫁がせた。菊姫は甲州夫人と呼ばれ敬愛されたが慶長九年(1604)京都で逝去。享年四七。

川中島で激戦を交えた信玄と謙信の子が結婚する数奇な運命は歌舞伎の本朝二十四孝の中の「八重垣姫」のモデルと称される。

吉江常陸介宗信

歴史マニアの方ならご存知の武将様。「吉江宗信は上杉謙信・景勝に仕えた勇将。この景資や孫の景泰も謙信の旗本として活躍した。天正十年(1582)六月三日、宗信らは魚津城(富山県)を守り、織田信長の大軍と戦い、宗信以下一族五名が壮烈な戦死を遂げた。信長が本能寺で自害した1日後であった。吉江家は景資の三男長忠が継ぎ、以後上杉家譜代の重臣として仕えた。」

御朱印

住職の方が、お寺内を案内ガイドしてくださいまして感謝です。

米沢藩主上杉家菩提寺 法音寺

米沢藩主上杉家菩提寺の法音寺。歴代の上杉のお殿様のお墓があります。もちろんあの方のお墓もあります。

「歴代の米沢藩主の墓所で、杉木立の中に整然と廟屋が並び、市民からは御廟所あるいは御霊屋(みたまや)と呼ばれている。

上杉謙信公のお墓

中央正面が戦国時代の名将上杉謙信公の廟で、上杉氏の移封に伴い、越後春日山から会津若松へ、そして1601年、米沢城本丸へ移された。さらに明治九年にこの地に移葬され、墓所全体が現在のように整備された。

上杉景勝公のお墓

謙信公の廟屋に向かって左が上杉家二代(初代米沢藩主)景勝公の廟。元和九年(1623)に景勝公が死去すると火葬に付され遺骨の大部分は高野山に納められ、この地には分骨という形で遺灰や衣類を埋めて五輪塔を置き、入母屋造りの廟屋を建てた。

上杉鷹山公のお墓

右側に鷹山公のお墓で、中央は鷹山公の長男で顕孝公のお墓。十九歳で急死した際、火葬から土葬に改められました。

こちらには初代謙信公、二代景勝公、三代定勝公、四代網勝公、五代綱憲、六代吉憲公、七代宗憲公、八代宗房公、九代重定公、十代治憲公(鷹山公)、世子顕孝公、十二代斉定公の廟があります。

この荘厳な廟所は、東西110m、南北180mで樹齢四百年を越す老杉もあり、近世大名墓所の代表例として昭和五十九年に国の重要な史跡に指定され、平成六年から同二十年にかけ保存修理工事が行われた。お花をお供えされたい方は多めに持って行かれた方がいいです。

御朱印

もちろん御朱印もあります。

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