戦国時代に活躍した剣豪の中で知名度を誇る「塚原卜伝(つかはらぼくでん)」。囲炉裏で鍋のフタを使い、宮本武蔵の振りかざした刀を受け止めるシーンをイメージする方が多いかと思います(フィクション)「卜伝」という一風変わった名でありますが、どういった意味なのか。またどんな人物だったのでしょう。
茨城県鹿嶋市に御鎮座されている鹿島神宮のそばに建つ塚原卜伝公像。腰に差した大小二本の刀、手には扇子を持った晩年のお姿。
銅像の横に立つ記念碑。ほかの場所にも塚原卜伝に関する解説板が多々あります。その解説板を参考に人生を追っていきましょう。
生い立ち
戦国時代の延徳元年(1489)二月、卜伝は鹿島神宮神職で占いをするト部(うらべ)氏で鹿島城の家老である吉川覚賢(よしかわあきたか)の二男朝孝(ともたか)として鹿嶋で誕生。吉川家は武芸が盛んな家柄で、朝孝は幼い頃より「鹿島の太刀」鹿島中古流の継承者である父より剣術を学び育ちました。
日本武道の発祥
塚原卜伝の実家である吉川家の系譜によると、仁徳天皇の時代に国摩真人(くになずのひと)なる人物がいて、まだ刀法というものが確立されていない古代に武甕槌神(タケミカヅチ)が神代の昔に用いられた韴霊(ふつのみたま)の法則「神妙剣の位」を授かったと伝えられており、これが日本の武道の発祥であると言われています。
一の太刀
それが鹿島神宮の神職に伝えられ、それが発展し後世には鹿島七流として、京八流と共に武道の大きな流れとなりました。師霊(ふつのみたま)の法則「国を平ら(平和)にする一の位」とは天であり、当時の剣の最高峰とも言うべき剣の極致が「一の太刀」で、この天と地の間に立つ人、その人の世から争いをなくし平和な世の中をつくり出すことこそ「鹿島の太刀」の究極の姿である
鹿島新當流は塚原卜伝が剣の神髄を追求し、生涯をかけて伝えたものであることから剣が主体であるが、卜伝自身が戦国乱世の戦場で得た貴重な体験を基にしているので、槍術・抜刀術・棒術などもあり、それらの形をトンボにみたてた図で示したのがトンボ絵です。
明応三年〜四年(1494〜1495)朝孝は常陸塚原城主塚原安幹の養子となり、殿様と剣術の師となる松本備前守政信から「香取の太刀(天真正伝香取神道流)」をも学び、剣術の腕前をグングン上げていきました。永正二年(1505)元服を機に名を朝幹から「塚原高幹(たかもと)」と変えると
高幹はもう一人前だ。強く立派な城主になるため広い世界を見ておくことは大事なことだ。行って参れ!
これまでのご恩は忘れません。もっと強くなって帰って参ります!
そう言って高幹は、京へ武者修行の旅へ出かけました。「鹿島立ち」をした高幹このとき十六。(鹿島立ちとは、当時鹿島の武士たちが旅立つ際に鹿島神宮に無事を祈願した事に由来します)
一回目の廻国修行
修行の旅に出た翌年に京の清水寺に着いた高幹は、そこで偶然地侍にいじめられて困っている人を目にします。
困っている人を黙って見過ごすわけには参らぬ!
正義感の強い高幹は、それを止めようと割って入ります。
何を生意気な小童め!邪魔立てすると後悔するぞ!刀を抜け!
止むを得ぬ!お相手いたす!
周りには大勢の人が集まり固唾を吞んで二人の勝負の行方を見守りました。高幹にとっては、知らない土地での初めての決闘。結果は高幹の太刀が一閃、倒れたのは相手の地侍の方でした。この勝負が京で評判となり、高幹には多くの大名から仕官の誘いが舞い込みました。
大名に仕官
剣の腕前を見込まれ大名に仕官した高幹。その頃の京都は戦国時代の動乱の真っ只中、ゆえに高幹は、休む間も無く数々の合戦と決闘の日々の過ごしました。
真剣の試合は十九度、戦場の働き三十七度、一度も不覚を取らず、矢傷六ヶ所以外に傷一つ受けず、立ち会って敵を討取ること二百十二人。
高幹の鹿島の剣が唸りを上げた一方で、血生臭い毎日に心身ともに疲れ果て、永正十五年(1518)帰国を決意し鹿島へ戻りました。
帰国した高幹は剣の師である松本備前守政信に疑問をぶちまけました。
先生、剣の目的は人を斬る為のものではないのではないでしょうか
すっかりやつれ変わり果てた高幹の姿に、
しばらく鹿島神宮の森の中で無心となり修行をしたらどうか
答えを自分で見つけてみよと松本備前守政信の勧めで高幹は、鹿島神宮にて一千日参詣を行いながら修行に励み荒れた心を鎮めました。
どうやら悟りを開いたようだな!
はい!鹿島の神様から「心を無にして事に当たれ」という声を聞きました。鹿島の太刀は国を平和にする剣であり、剣の強さは世の中の役に立ってこそ剣の達人であると思います。
私はこれから卜部(うらべ)に伝わる鹿島の太刀を天下に伝える為「卜伝(ぼくでん)」と名乗り、再び修行の旅に参りたいと思います。
鹿島新當流
鹿島新當(かしましんとう)流は、甲冑武道を基礎として想定された実践的古武道で、主に守り主体の太刀で、どんな攻めにも対応できる負けない太刀です。剣聖塚原卜伝が千日参詣の後に「心を新しくして、事に当たれ」という神示を得て鹿島新當流と呼ばれるようになりました。
二度目の廻国修行で決闘
大永三年(1523)塚原卜伝は、松本備前守政信の勧めで鹿島の二度目の修行の旅に出ました。そこでの決闘のエピソード。ある日、川の渡し舟の中で剣の腕前を大声で自慢している侍がいました。
ガハハ!わしより強いものはおらぬ!お主も強そうに見えるが、何流を使うのか!
無手勝(むてかつ)流を少々…。
と笑顔で答えました。からかわれていると思い激怒した相手の侍は
ほう。じゃあ、わしと勝負しろ!
と決闘を要求しました。すると卜伝は
ここでは皆んなに迷惑がかかるので、あの小島で立ち会おう!
舟は小島に着きました。相手の侍は舟から小島に降りるや、さあ来いと卜伝を待ち構えました。すると卜伝はとっさに船頭から櫂を借りると舟を小島から離しました。
相手の侍は、しばらくポカーンと呆気にとられ見ていましたが、ハッと我に帰り
やい!卑怯者!さっさと舟を戻せ!
と叫び続けましたが、卜伝は
はっはっは!これが無手勝流だ、しばらくその島で頭を冷やすが良かろう。
周りの客は大笑い。卜伝の作戦に感心しました。この2回目の廻国修行は、主に西日本が中心で山陰地方から九州の太宰府付近まで赴き、行く先々で剣を教えたようです。その頃はまだ剣豪として知られる前の事です。
この廻国修行中に実父の死が伝えられた為、卜伝は十年ほどで修行を終え天文元年(1532)頃に鹿島へ帰りました。その後、塚原城に入り城主となると、翌年に妙(たえ)という妻を娶ってお城の経営と弟子の育成に尽力しました。
三度目の廻国修行で足利将軍に指導
城主になって十年程が過ぎた天文十三年(1544)春に妻が亡くなると、養子の彦四郎幹重(みきしげ)に城主の地位を譲り、弘治三年(1557)第三回の廻国修行に出発しました。
七十歳近い卜伝は、自らが完成させた「一の太刀」という国を平和をもたらす剣を伝えるべく、第十三代将軍足利義輝を始め、第十五代将軍足利義昭、戦国大名細川藤孝(幽斎)など名だたる武将たちに剣術を教えました。写真:細川藤孝公像(熊本市)
伊勢国へ
特に足利義輝将軍は剣豪の域に達するほどまでに。その後の卜伝は伊勢国(三重県)へ入り、伊勢の国司である北畠具教(とものり)にも約二年間剣術を指導をして、唯授一人の「一の太刀」を具教に授けました。
甲斐国へ
永禄七年(1564)、伊勢から美濃国(岐阜)〜信州国(長野)〜甲斐国(山梨)を訪れた卜伝は、武田信玄公に剣技を披露したほか、今川家や配下の武将たちにも指導しました。その中には山本勘助、原美濃守、海野能登守などもおり弟子になっており「甲陽軍鑑」にも卜伝が大名のような待遇を受けていた姿が残されています。
上野・下野・江戸崎へ
その後、卜伝は甲斐国から下野(しもつけ)に移り、戦上手と言われた唐沢城の城主佐野修理大夫昌綱の居館に滞在して五人の子のうち上三人に剣を教え、二男天徳寺了伯、三男祐願寺は後に武芸者として世に知られました。
剣聖塚原卜伝 永眠
永禄九年(1566)頃、三回目の廻国修行を終えて鹿島の塚原へ帰り、その五年後の元亀二年三月十一日(1571)塚原卜伝は「剣は人を殺める道具にあらず、人を活かす道なり」の生涯を終えました。八十三。遺骸は夫人と共に梅香寺跡に埋葬されています。
東国最古の神社 鹿島神宮
東国最古の神社で、香取神社、息栖(いきす)と並ぶ東国三社の一つとなる鹿島神宮。御祭神は武甕槌大神(たけみかづち神)。神武天皇が東征遠征の半ば、日向(宮崎)から大和(奈良)へ海路で向かう途中に思わぬ窮地に陥れられましたが、韴霊剣の神威により救われました。
その神威に感謝され御即位の年の皇紀元年(紀元前660年)にこの地に大神を勅祭されたと伝えられていますご覧の通り 大きな杉林の中に御社殿があります。現在の本宮社殿は、元和五年(1619)徳川二代将軍の秀忠公により寄進されたものです。
また奥宮は、慶長十年(1605)江戸幕府初代将軍徳川家康公により本宮の御社殿として寄進されたものですが、秀忠公が現在の本宮を奉納されたことで、奥参道を曳いてきました。
武甕槌大神の荒魂をお祀りされています。楼門は水戸初代藩主徳川頼房公により奉納され、いずれも重要文化財に指定されています。
広いゲージの中に多くの神鹿さん達が保護されています。「古くから鹿は鹿島神宮の御祭神・武甕槌大神のお使いであると言われています。これは国護り神話で、天照大御神のご命令を武甕槌大神に伝えに来られたのが、鹿の神霊とされている天迦久神(あめのかくのかみ)であったことによります。」
「神護景雲二年(768)、藤原氏が氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建するにあたり、御分霊を神鹿の背に乗せ奈良へ進みました。その足跡は、東京都江戸川区の鹿骨鹿島神社を始めとして、東海道を三重県の名張まで言い伝えが残されており、この伝承から奈良の神鹿の起源は鹿島に求めることができます。
鹿島の神鹿は、長い間大切に保護されており、一時途絶えた時期もありましたが、昭和三十二年、奈良と神田神社から神鹿を迎え現在の鹿園が開園されました。膝折るやかしこまり鳴く鹿の声 曽良」写真:奈良公園の鹿
こちらは社務所横の資料館にある複製された「平成の大直刀」が展示されています。「鹿島神宮の直刀:鹿島神宮には、国宝に指定されている刀長223cmの直刀(韴霊剣フツミノタマノツルギ)が所蔵、展示されています。この大刀は今から1300年前ごろにつくられたものと考えられています。古代に刃渡り2mを超える長丈の太刀を製作する優れた技術があったことを物語っています。」
御朱印
社務所でいただける御朱印は二種類。こちらは「奥宮」の見開きのタイプ
こちらは通常の御朱印です。
お父上、私はこれまで教わった鹿島の剣を、世に出して試してみたいのです。どうか武者修行に出る事をお許しください。