金峰山①でご紹介したその熊本の金峰山には、他にも数々の決闘を制し日本一となった剣聖宮本武蔵さんは、当時五十七歳の時に客分待遇で細川忠利公の肥後熊本藩主へ迎えられた後、歓迎を受けながら忠利公と共に各地を巡られました。
しかし肥後に迎えられてわずか一年後の寛永十八年(1841)、忠利公が亡くなられます。大きな失意と同時に自分の死にも考えるようになられたのか金峰山の霊厳洞に籠りました。
熊本市西区の本妙寺入口交差点から入り、県道1号線をひたすら登ると金峰山登山道入口の交差点が見えてきますが、そのまま真っ直ぐに進みます。
しばらく道なりに進むとラーメン屋さんと自動販売機がある五叉路に見えて来ます。そこから左へ「霊厳堂五百羅漢」「岩戸の里公園」方面の101号線を進みます。
まず、見えてくるのは「フルーツランド優峰園」。看板にある通り果物狩りができる施設で釣り堀やスイーツなども販売されているお店です。休憩場所といった感じです。
そこを通り過ぎると、「金峰森の駅みちくさ館」が左側に見えてきます。小さな道の駅のようですが、ジュースの自販機以外に食堂や名産品などは販売されてはいません。金峰山に関しての観光案内所のような施設です。※夜は入れず営業していません。
館内の一角には剣聖宮本武蔵に関する展示物がありますので、情報収集できます。武蔵さんは、失意の内に門戸を閉ざし書道・彫刻・座禅に没頭しながらも、自らが編み出した二天一流の兵法書「五輪の書」を書き上げた霊厳堂へ向かうのでした。
こちらは巌流島の決闘で使われた木刀の複製があります。ちなみにバス停もあり桜町バスターミナル20番乗場より河内温泉センター行へ乗れば30分600円で着きます。
岩戸の里公園と修練場
みちくさ館を過ぎると案内標識があり、案内標識に従い交差点から左へ入ります。
「岩戸の里公園」に着きました。駐車場とトイレがあります。座禅をしている銅像らしきものがありますが、これは「勝ち運を呼ぶ武蔵像」。
ドラマが放送された平成15年に建てられました。新型コロナウイルスの終息を願うタスキがかけてありました。
その左横には、道案内標識。右側の小道を通って所修練碑と展望所へ向かってみます。
少しひらけた場所に「宮本武蔵先生所修練碑」がありました。こちらで日々修練をされていた場所のようです。さらに先に進むと
「黒岩展望所」があり、有明海の向こうには雲仙岳が見えます。ここで武蔵さんも藩士や領民たちと眺めていたのでしょう。
霊厳洞窟と五百羅漢
さて、岩戸の里公園で休憩した後、霊厳堂へ向かうため先ほどの左側の道を進みます。突き当たりがT字路になっており、右へ曲がると
霊厳禅寺に着きます。駐車場もあります。こちらのお寺の中に「霊厳洞」への入口があります。
こちらが入場料は大人300円です。料金を払い中へ入ります。御朱印も販売されています。五輪の書などのレプリカなども展示されています。
「五百羅漢」と言われるたくさんのお地蔵さんが並んでいます。
当時六十歳の剣聖宮本武蔵さんは、寛永二十年(1643年)秋から兵法書「五輪の書」を書き始め、正保二年(1645年)五月十二日に完成。門人の細川藩士である寺尾孫丞勝信に授けました。※洞窟内へは入れません。
五輪の書
五十歳で兵法を極め、その集大成として剣術の奥義を記した「五輪の書」は「地・水・火・風・空」の五つに分けまとめました。
●地之巻
●水之巻
●火之巻
●風之巻
●空之巻
終焉の地
その後、千葉城址の邸宅にて、〝剣一筋に生きた男〟剣聖宮本武蔵は六十二年の生涯を閉じました。その旧居址は熊本城下の坪井川沿いにあります。
現在では標柱があるのみなのが少し残念ですが。
墓所 武蔵塚公園内
墓所は、武蔵さんからの「死後も藩主の参勤の列を見守りたい」という遺言通り、熊本市北区のある武蔵塚に、甲冑を着けた状態で葬られました。
●武蔵うどん
すぐ隣のお店「武蔵うどん」さんで販売されている「武蔵定食」です。五輪書に因んでエビが五つも並んでいます。お食事だけではなく、武蔵に因んだお土産などが売っています。
こちらは販売されていた「細川家伝統兵法二天一流 宮川伊三郎派」に関する本です。2000円ぐらいだったと思います。参考になさりたい方はぜひ
西の武蔵塚
宮本武蔵さん墓所は、実はもう一箇所あり『西の武蔵塚』と呼ばれています。金峰山の中腹「東荒尾」という地名の住宅地の奥に霊園の中。
車一台分の細い坂道を上りくねくねと100mぐらい進むと霊園の駐車場に着きます。
横の解説板には「寛永十七年(1640)、藩主細川忠利に招かれて熊本に来た宮本武蔵は、五年後の正保二年(1645)、千葉城跡の屋敷で亡くなった。六十二歳であった。遺言により東郊の龍田町弓削に葬られたというのが通説である。この塚は、浄化の西郊にあるところから、西の武蔵塚と呼ばれ、武蔵の高弟寺尾家の墓域である。
しの直前の武蔵が、寺尾求馬助(きゅうまのすけ)に「兵法三十五箇条」を、その兄孫之丞に「五輪書」を授けて二天一流の正系を伝えたところから、愛弟子の墓域に葬られたという説も生まれて来たのだろう。武蔵は兵法の達人であると共に、優れた芸術家で、その枯淡で風韻のある書画彫刻にその人格が偲ばれる。
「宮本武蔵の高弟寺尾信行は、武蔵野他界後五輪の書に書かれた五方の構え、太刀筋、五つのおもての次第の事を後世に伝える為、四男信盛に武蔵の新免姓を名乗らせ二天一流を継承させたが、江戸末期には野田派山東派山尾派の三流派にわかれ肥後細川藩門外不出として隆盛を極めた。
その後、野田派の二天一流は現在も熊本で相伝されており、先師寺尾信行顕彰の機会に野田派二天会会長大浦辰男氏が墓地石段を寄進。毎年流祖の遺訓を後世に伝えるよう二天一流形の墓前奉納を計画。この日を建立す。昭和六十一年六月十二日 野田派二天一流二天会」
こちらへのアクセスには路線バスもあります。最寄りの停留所は『東荒尾』で。桜町バスターミナルから熊本都市バス島崎保田窪線「荒尾橋行き」で通ります。
島田美術館
熊本市島崎にある「島田美術館」。こちらには武蔵の肖像画を始め、武道具、遺品類が展示されています。また、武蔵の手になる書画彫刻なども数多く収められています。営業時間10:00〜17:00(最終入場16:30)休館日は毎週火曜・第二・第四水曜日(祝日の場合は開館)
駐車場あり。最寄りバス停「城西校北」U4-1城西校北行き/「慈恵病院前」W1-1下荒尾橋行き