【車窓と駅】JR御殿場駅〜JR足柄駅/富士山と金太郎と古戦場【静岡県】

【車窓と駅】シリーズの第二弾になります。今回は「富士山の車窓」です。

JR東海 御殿場駅

静岡県の東部、神奈川県との県境に位置し、富士山の東麓にある御殿場市のJR御殿場駅。三角屋根に白い壁のまるでお家のような外観。御殿場とは江戸時代、徳川家康公が近くの吾妻神社の辺りに建てるよう命じた御殿(隠居所)が由来です。(薨去後に完成)

駅周辺から見る日本一の高さの「富士山」。白く積もった雪が綺麗に映えていて美しさも日本一だと思います。静かで登山でも人気の山ですが、まだ活火山で最新の噴火は約320年前。

宝永四年(1707)に起こった宝永の大噴火では、御殿場一帯には噴石や火山灰が降り注ぎ甚大な被害を受けました。現在でも多くの痕跡が見られます。駅前には、富士火山弾が展示されています。

ムムム。ご当地名物の案内展示でしょうか。色々ありますね。

よく見ると全部ロウ細工なんですよね。すごくよく出来ています。スプーンが宙に浮いてる御殿場プリン・シフォンケーキ、金時力まんじゅう

カステラ・海外でも人気の生フルーツサンド・富士山バウム・食パン・カフェオレ大福・みやまし強力餅・富士山紅茶・玄米茶などなど

その御殿場駅は、夜になると一味違った景色となります。

駅の隣に目を向けると

綺麗な富士山の周りを囲む星たちのイルミネーション。数年前から駅前イルミって増えましたね。大きくはありませんが子供たちやカップル、観光客には嬉しい演出です。

富士山の車窓

JR御殿場線から見る富士山です。JR御殿場駅からJR足柄駅までの短い区間ですが、綺麗な景観を鑑賞できます。手前に東名高速道路の陸橋が見えます。

富士山の眺めが楽しめる車窓です。※最後に大きな汽笛が鳴りますので音量注意です。(この汽笛は、飼い主さんと線路近くを散歩中だった犬が、突然線路内に入ってきた為です。飼い主さん共に間一髪避け出て無事でした。)

JR東海足柄駅

「JR足柄駅」に到着しました。利用した列車はオレンジのラインがお馴染みのJR東海313系。降りずに乗っていくと神奈川県の海沿いを掛け抜けながら横浜へ向かいます。

足柄といったら、おかっぱ頭でまさかりを担いだ「足柄山の金太郎」ですね。お相撲相手のクマさんも隣にいます。

「金太郎生誕の地 足柄山の麓、鮎沢川をとりまく自然。やさしい里の人々。こららに包まれ、小山町で生まれ育った坂田公時(さかたのきんとき)こと「足柄山の金太郎」は、まちの英雄であり、町民が誇りにしている伝説です

小山町には金時神社、頼光対面の滝、爪切り地蔵など金太郎ゆかりの地が多く残されています。」頼光対面の滝とは、平安時代の武将である源頼光と金太郎が対面したとされる滝です。

最近新しくなった足柄駅。変わった屋根の形の駅です。左側の階段の先は待合室かと思ったら、どうやら無線LAN付きのコワーキングスペースのようです。(詳細は不明)待合室は駅の右側にありました。

駅舎裏のトイレ側にコイン式ロッカーがありました。木材を利用した造りになっていて、小さい穴に指を入れて開けるようになっています。少し指が痛かった><。

この足柄駅を起点として金太郎ゆかりの地である足柄古道・銚子ケ淵コース(全長約3キロ)が設定されています。先ほどの頼光対面の滝もあります。そのほか足柄峠には金太郎の生家や遊んだとされる大岩などがあります。

金時山までは180分、足柄峠までは90分かかるようです。YouTubeなど動画サイトでも登山の様子が配信されています。

すごくのどかな駅周辺です。写真右側のお店でお土産を買いました。とても優しそうなお爺ちゃんがサービスして下さいました。

金太郎の絵柄が入ったお煎餅ほか販売されています。

竹之下古戦場

箱根の山々と足柄周辺は、もう一つの歴史の舞台にもなりました。鎌倉時代末期から室町時代初期の約60年に及ぶ南北朝時代に起きた新田義貞対足利尊氏との「竹之下の戦い」です。

現在はJR足柄駅から歩いて5分ほどの「嶽之下宮」内に、その石碑が建っています。

竹の下古戦場の石碑です。特に解説板などはありません。箱根一帯でのこの戦いは、南北朝時代の大きな分岐点の一つとして、また数多くのドラマが生まれた太平記の聖地です。知らない方が大半だと思いますので、改めて何が起こったのか解説します。

竹之下の戦い

「経緯]建武二年(1335)中先代の乱を鎮圧し鎌倉を奪回した足利尊氏は、征夷大将軍を自称し、勅命を得たと功のあった者へ勝手に恩賞を与えました。しかも同族であり宿敵でもある新田義貞の領国をも奪い取って家来に与えました。写真:鶴岡八幡宮(神奈川県)

中先代の乱とは

元弘元年(1331)新田義貞軍に攻められ鎌倉幕府が陥落する際に脱出し信濃国に逃れた北条高時の遺児時行が、北条得宗再興を掲げ挙兵した事に端を発した争乱。〝中先代〟とは先代の鎌倉幕府北条氏と次の室町幕府足利氏の中途にあたる為、そう呼ばれました。北条時行は捕まり処刑されますが、末裔の横井小楠が幕末時代に活躍する事になります。

当然ながら京から勅使中院具光が鎌倉を訪れ尊氏に伝えました。

勅使中院具光

天皇は、速やかに乱が平定された事を感謝なさっている。ただし、恩賞は綸旨をもって充てがうものである。このうえは、早々に帰京せよ

足利尊氏

……直ちに帰京いたします。

そう返答し帰京しようとしますが、弟の直義が諌めました。

足利直義

きっと公家連中や義貞、誰も彼もが兄者を憎んでいるに違いない。そんな都に戻る事はない。鎌倉に留まるべきである。

その助言を受け鎌倉に留まる尊氏。たちまち〝尊氏謀反〟の噂が広がります。真偽か確かめる為に後醍醐天皇が使者を鎌倉へむかわせようとした日に

足利尊氏

新田義貞の一族を討ち、天下を泰平にする事を願う。

という上奏文が京へ届けられました。激怒した新田義貞は尊氏の8つの逆罪をあげて賊徒討伐の上奏文を書きました。二人の上奏文は公卿会議にて比べられた結果、勝手に出陣した事、弟直義が兵を募っている事、護良親王を誅し国家を傾けた罪が謀反と断定され、義貞側の上奏文が認められました。

後醍醐帝より尊氏討伐を命じられた尊良親王と義貞は十一月十九日、大軍を率いて東海道を鎌倉に向かい、三日後に東山道軍一万余騎も京都を発ちました。また、常陸将軍府の北畠顕家も出兵し鎌倉を挟み撃ちする作戦を立てました。写真:左=足利尊氏公像(栃木県)右=新田義貞公像(群馬県)

新田軍は矢矧(現愛知県岡崎市)・鷺坂(静岡県磐田市)・手越(静岡県静岡市)の戦いで連戦連勝し鎌倉へ向かいます。破れた足利直義が鎌倉の館に帰ると、そこには出家しようとする尊氏を必死に引き止めようとする近臣たちの姿がありました。

近臣

元結いは切りましたが、まだ法体にはなっておりません。

元結いとは、髪を束ね髷にする事。これでは足利に従う者が敵に寝返ってしまう。そこで家臣の上杉重能は〝偽綸旨〟を数多く作って尊氏を騙し、奮い立たす事を思いつきます。そして建長寺に引きこもっていた尊氏に嘘の綸旨を突きつけました。

足利尊氏一族、罪悪深重。この者共は、たとえ法体となろうが、居場所を探して必ず誅罰せよ。※法体とは袈裟を着ている僧

足利直義

これは討死した敵兵が持っていたものである。足利家は浮沈みの極にある。兄者、兄者よ!立ち上がってほしい!

足利尊氏

そうか。一門が栄えるか、滅びるか決断の時か。事ここに至っては、いたし方ない。尊氏は弓矢をとる身である。武家の面目を重んじ、義貞と刺し違え死を共にしよう。

偽綸旨と気付かない尊氏は、やむなく袈裟を脱ぎ直垂をつけ太刀を取りました。

鎌倉中の兵は、元結いを切った異様な尊氏を敵の目から紛らわすため、「一束切り」と称し同じ髪型となりました。断髪に似た異様な容姿で瞬く間に膨れ上がった尊氏軍18万、直義軍6万、対する新田・尊良親王軍は7万。決戦の地は鎌倉の防衛線である箱根峠となりました。写真:尊氏家臣高師直肖像画

箱根越えには、芦ノ湖の南側を通る箱根路と北側を通る足柄路の二つの路があり、足利側は弟の直義軍を箱根路に、尊氏軍は足柄路へ兵を進めました。一方の新田軍は、義貞軍本隊を箱根路に、尊良親王・脇屋軍7千騎を足柄路へ向かわせました。写真:左=新田義貞公像と右=弟の脇屋義助公像(群馬県太田駅)

激闘!箱根峠

そして十二月十一日、箱根路と足柄路でついに決戦の火蓋が切られました。箱根路では、新田軍の先陣を任された肥後の菊池武重が活躍、槍先を突き立て敵兵を峰の上まで追い上げました。また道場坊祐覚は僧兵三十人と紅梅の造花を兜に刺した稚児十人を引き連れて奮戦。戦況は終始新田軍が押し気味に進めました。

足柄路 陣場

一方、足柄駅から少し歩いた道路沿いに見える「陣場」の石柱、ここに足柄路新田軍の尊良親王と新田義貞の弟脇屋義助たちが着陣。そこへ早朝、足柄峠を越えて尊氏軍の佐々木道誉・土岐頼遠らが雪崩の如く攻め込んできました。

迎え撃つ尊良親王の率いる公家の侍や北面の武士500騎は錦旗を押立て、

新田軍

天の君に弓を引き、矢を放つ者は、天罰をこうむるぞ。命が惜しければ降参せよ。

と声を張り上げました。それを見た足利軍は引き退るどころか

足利軍

あれは、公家の者と思われるぞ。矢が無駄になるから、遠矢は射るな!

と約300騎が太刀を抜き鬨の声をあげ突撃してきました。公家の侍たち京都勢は、その迫力におののき逃げ惑い、数多くの者が生け捕りにされたり討ちとられてしまいました。

脇屋義助

合戦を知らぬ者どもが先陣に進み出て、手合わせを誤ってしまった..

やむなく脇屋義助は、7000騎を並べ軍旗を高々と掲げ、足利軍へ一斉に攻めかかり、ここに竹下の戦いの激闘が繰り広げられました。

大黒中と二つ引き両と 二つの旗を入れ替へ、東西になびき、南北と分かれ、万卒に面を進め、一挙に死をぞ争いける。誠に両方名を知られたる兵どもなれば、たれかはひとりも遁るべき。互いに討ちつ討たれつ、馬の蹄を侵す血は、混々として洪河の流るる如くなり 死骸を埋める地は、累々として屠所の肉の如くなり・無慙と言うもおろかなり。(太平記)

新田軍予期せぬ味方の裏切り

両軍入り乱れる戦闘は膠着状態、先陣に疲れが出てきた新田軍は、後陣に控える大友貞載(豊後大友氏、立花氏の祖で立花山城城主)塩冶高貞(出雲國守護)隊と入れ替わろうとした時、この二人が突如、軍旗を巻き尊良親王に弓を引き義助に襲いかかりました。

この寝返りにより足柄路竹之下での尊良親王・脇屋軍の敗北は決定的となりました。やむなく新田軍主力がある箱根路へ合流するため向かいますが、足利軍の仁木・細川・荒川・高・上杉の諸部隊30000余りに追撃されたため、合流できず東海道を敗走していきました。写真:足柄路

箱根路では

逆に箱根路では、新田義貞率いる主力本隊は、足利直義の兵を蹴散らし勝利を重ねていました。しかし、その夜、竹之下での敗戦の報が入ると事態は一変。諸国から馳せ参じた外様武将、降伏し味方になった関東勢らが、相次いで軍旗を捨て散りじりに脱走する者。敵に寝返る者。

一気に劣勢になった新田軍には退いて敗走するしかなく、そこへ追撃で襲いかかる数万の足利軍軍。しかし殿を務めた菊池武重の「菊池千本槍」とのちに呼ばれる新戦法のおかげで、新田軍は壊滅を免れ国府(静岡市)へと逃れ戦いは終結しました。写真:菊池千本槍の碑(箱根峠)

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その後、新田義貞公は、手薄になってしまった京へ急ぎます。足利尊氏軍は、その後の軍議で京へ攻めのぼる事を決めました。陣場から足柄駅へ徒歩で向かう途中で見た、夕焼け富士山が綺麗でした。駐車場では愛車と写真を撮られる方の気持ち分かります。

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