江戸時代に起きた「赤穂四十七士による吉良邸討ち入り」は、多くの人々に〝武士道〟として賞賛され、その後数々の講談や活劇映画で大ヒット。討ち入りがあった年末が近づくと「忠臣蔵」「赤穂義士(浪士)」所縁の地は観光客で賑わいます。今回は、その播州赤穂市で年に一度行われる「赤穂義士大祭」を見学に行きました。
JR西日本 播州赤穂駅
兵庫県赤穂市にあるJR西日本赤穂線駅。行きの列車内はご年配を中心に満員でした。武家屋敷風の駅舎の中には、観光案内所があり赤穂浪士に因んだ展示物がたくさん販売されています。
赤穂義士祭で大石内蔵助役を演じる俳優の中村雅俊さんのチラシやポスターが沢山。観光客と赤穂義士大祭の装飾で駅内は大賑わい。熱気むんむんです。
観光案内所に立つ大石蔵之助公と山形模様のノボリ。カメラ目線ありがとうございます。
観光案内所にて300円で販売されている「赤穂城の御城印」です。上下に山形模様、和紙に浅野・大石両家の家紋入りです。
その他にも、三つの御城印も販売されています。●坂越浦城●尼子山城●茶臼山城
駅内には、浅野内匠頭長矩公の辞世の句が掲示されていました。「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとやせん」
出入口の階段の壁面には、赤穂義士四十七士の画が貼ってあります。
駅前に出ると、大きな蘇鉄と討ち入り時に采配を振るう「大石蔵之助公之像」がおられました。
その周りでは、お祭りに参加される方々と記念撮影会が行われていました。自分も一緒に自身のスマホで撮ってくださいました。
記念撮影タイムが終わると、それぞれお祭りに参加するため移動されますので、一緒に記念撮影したい方は、午前中早めに来られる事をおすすめします。
息継ぎ井戸
こちらは「元禄十四年(1701)三月十四日に江戸城松之廊下で、赤穂藩浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良上野介義央(よしひさ・よしなか)を切りつけるという刃傷事件が起こりました。
早水藤左衛門と萱野三平がその大事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着しています。その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂藩へ向かったと伝えられています。」と説明文がある史跡です。お祭りステージ近くにありました。
台雲山 花岳寺
こちらは「台雲山 花岳寺」。播磨国赤穂藩歴代藩主浅野家、永井家、森家の菩提寺で、大石家と義士塚もある禅寺です。※浅野内匠頭長矩公と四十七士のお墓は東京の泉岳寺にあります。
浅野家・森家・大石家他の墓所の他に宝物館があり、義士たちの木像や刀剣などが展示されています(館内撮影NG)。永井家・森家は浅野家の後に赤穂藩を引き継いだ武家です。
常陸笠間城主浅野長重公のお墓です。長重公は浅野長政公の三男で、家康公から三代家光公の代まで仕えました。母のねねが豊臣秀吉公に嫁ぎました。
その長重公の長男播磨赤穂藩祖浅野長直公のお墓です。常陸国笠間藩から赤穂に移封され五万三千石の赤穂藩主になりました。赤穂城下の整備や塩田開発に力を注がれました。
長直公の嫡男播磨赤穂二代藩主浅野長友公のお墓です。切腹した浅野内匠頭長矩公の父上にあたります。長男の長矩に公九歳で家督を継がせた後、三十三で早世されました。
その他にも義士塚もあり、お線香もあります。
一年に一日だけいただける限定御朱印
こちらでは、討ち入りの日12月14日だけいただける「忠義」御朱印が人気です。書き置きですが、御朱印帳に直書きもしていただけます。
播州赤穂城
「赤穂城は、正保二年(1645)に浅野内匠頭長矩の祖父長直が、常陸国(茨城県)笠間から入封し、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ、実に十三年にわたる歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものである。塁石、防壁、諸門、本丸御殿が整えられ、居城としての偉容が示されたが、天守台のみ築かれて天守閣は構築されなかった。
築城当初から城内に大石邸をはじめ藩重臣の屋敷があったが、浅野家断絶後は永井家、次いで森家の居城となり、明治廃藩後、城塞は惜しくも破壊され邸は民有地に払い下げられたが、現在では本丸門内は大名庭園が蘇っている。
赤穂浪士の自刃250年祭を記念に昭和三十年春、大手門、大手隅櫓と城塞の一部が復旧され、同四十六年三月赤穂城跡は国の史跡に指定された。」忠臣蔵ファンならずとも、一度は来てみたい場所です。
大石神社
城内にあった大石内蔵助の屋敷跡に御鎮座されている大石神社。大石内蔵助をはじめ四十七義士が祀られています。見てお分かりのとおり、参道の両脇には四十七士の像が並んでいます。
左は中村勘助像。吉良邸討ち入りの際は裏門隊でした(伊予松平藩にて切腹)。右の大石瀬左衛門も裏門隊でした。内蔵助公とは遠い親戚で、主君浅野内匠頭長矩公の切腹の報を原惣右衛門と共に江戸から早駕籠に乗り赤穂城へ伝えた人物です(細川邸にて切腹)。
そしてお待ちかね、火消し装束の大石内蔵助良雄公像。お馴染みの山鹿流の陣太鼓を叩く姿です。
本殿では、お昼前から「義士追慕大祭」が営まれ、赤穂義士大祭に参加される四十七士役の方々が参拝し神事が行われます。参拝客で境内は満杯です。
一画には、裃姿で右手に刀を持たれた大石内蔵助公像が建っています。
このお祭りの前後の期間中だけ特別な絵入り御朱印がいただけます。通常版もあります。
播州赤穂城主浅野内匠頭長矩
「寛文七年(1667)江戸で生まれました。幼名は又一郎。長矩九歳の折、父長友公が亡くなり遺領赤穂五万石を継ぐ。長矩公十七歳で阿久里姫(後の瑞泉院)と結婚。元禄十四年勅使饗応役を仰せつかるも殿中松の廊下にて高家吉良上野介に刃傷。身は即刻切腹お家は断絶となる。」享年三十三。
赤穂義士大石内蔵助良雄
「万治二年(1659)赤穂で出生。十五歳のとき、父の良昭が亡くなり祖父長欽の養子となり家督を継ぎ「内蔵助」と襲名する。二十八歳の時に〝りく〟と結婚し、三男二女をもうけました。赤穂藩主浅野内匠頭長矩公の刃傷により赤穂藩は取り潰しになりましたが、一年十ヶ月後、忠義の武士四十七士で吉良邸に討ち入り殿様の仇を討ち、見事本懐を遂げました。」享年四十五。
本殿横には有料(500円)ですが「義士宝物館」があります。羽織を着用して記念撮影もできるようになっています。館内では、大石内蔵助公が所用していた刀剣などが展示されています。
「この建物は大正始め、神戸の湊川神社の宝物館として建設されたもので、かつては国宝の法華経経典書を始め、大楠公由縁りの宝物が展観され、昭和二十年の神戸大空襲に遭っても唯一つ戦災を免れた、由緒深い建物である。」とあります。
浅野家の火消しは江戸でも評判でした。勇猛果敢で内匠頭長矩公が出動しただけで火事が鎮まると言われました。尚武の家としても名高く、五万石なら士分七十騎で良いところを二百騎も抱え、武備厳重、質素倹約の藩風でした。
赤穂義士大祭
午後から「赤穂義士祭」が始まりました。お城の周辺を「忠臣蔵」の名場面の寸劇が、移動する車の上で上演されます。
大勢の人に見守られながら。いよいよ、お城の前で行進が始まりました。
そして待ちに待った勇ましい赤穂義士四十七士の行進が始まりました。
大石内蔵助役の中村雅俊さんの登場に、皆さん大興奮!「雅俊さーん!」「くらのすけー!」「総理〜!」「かーすけー!」など声援が飛んでいました。一行は、その後イベントステージまで行進が続きました。
赤穂城内の立ち寄りスポット
●赤穂市立歴史博物館
赤穂城の隣にある「赤穂市立歴史博物館」。営業時間9:00〜16:30まで。休館日は水曜日で入館料は200円。日本100名城のスタンプもあります。
海に突き出た赤穂城のジオラマがあり、赤穂地方の詳しい歴史が分かります。赤穂城主浅野内匠頭長矩公は、先代の事業を引き継ぎ城下町の整備と干拓事業を積極的に行いました。
中でも塩田開発に力を入れ、移住させた塩田技術者と取り組んだ「赤穂の塩」は、特産物として藩の財政を支えました。今でも有名ですね。
こちらは、復元された赤穂丸に集う現代の赤穂義士たち(笑)。この日しか見れません。
●播州赤穂 巴屋
続いては、こちらも赤穂城横にある「名物討入そば」「元祖塩味饅頭」のお店です。お祭りの日でしたので討入りそばは、(売り切れ?)閉まってました。
こちらは「播州赤穂塩味饅頭」です。伝統和菓子でお土産にピッタリで美味しかったです。
甘いのが苦手な方には「播州赤穂の塩せんべい」もあります。
赤穂四十七義士の物語(比較的簡単に)
●大石蔵之助良雄 万治二年〜元禄十六年二月四日(1659〜1793年3月20日)
大石氏の祖は平安時代に活躍した下野國の藤原秀郷。戦国時代は足利義昭側で信長と戦いますが敗れ没落します。しかしその後、浅野家に仕えていた曽祖父の大石良勝が、大坂の陣で活躍し千五百石の筆頭家老にまで出世。その良勝の嫡男良欽(祖父:二代目内蔵助)の子である父権内良昭の子として「良雄」は赤穂で生まれました。写真:泉岳寺(東京)
父良昭が家督を継ぐ前に亡くなったため、祖父の良鈴が良雄を養嗣子として預かり、四年後良欽が亡くなると良雄は「三代目内蔵助」を襲名し家督を継ぎました。主君浅野家のもとで八歳から十六歳まで山鹿素行(肖像画)に「義」の道を学び育った内蔵助は、元禄七年(1694)、備中松山藩の改易の際、受城使(確認役)を務めた主君浅野長矩公を補佐し名を挙げます。
しかし、過酷な徴税に反対して城代家老の大野九郎兵衛と対立した事で、その後閉門し寡黙な人となってしまい、藩主からも「昼行灯(ひるあんどん=昼間は役立たず)」と呼ばれてしまいました。
●吉良上野介義央 寛永十八年九月二日〜元禄十五年十二月十五日(1641年10月6日〜1703年1月31日)
吉良氏の祖は八幡太郎源義家。室町幕府では足利将軍家の一族で、曽祖父の義定の母は徳川家康公の大叔母、母は大老酒井忠勝の娘。妻は米沢藩主上杉綱勝の妹で、長子の綱憲は上杉家を継ぎ、長女は薩摩島津綱貴夫人。三河吉良庄を中心に高家筆頭で四千石の高い禄高、義央(よしひさ)公は、二十歳で家を継ぎますが大名の間では傲慢な人という評判でした。写真:吉良邸跡(東京)
江戸城での刃傷事件
元禄十四年(1701)三月、江戸城の松の廊下にて浅野内匠頭長矩が吉良上野介を斬りつける刃傷事件(原因は様々な説があり)が発生。
此の間の遺恨覚えたるか!
義央は軽傷(眉間と背中)でしたが、その日は将軍綱吉公が勅使・院使に奉答が行われる最も重要な儀式の日。しかも刃傷ご法度の殿中を汚した事に将軍綱吉公は激怒「浅野内匠頭長矩は切腹、家名断絶、城と領地没収、義央はお構いなし」と即刻裁定を下しました。
浅野内匠頭長矩公は、その日の内に切腹。辞世の句は「風さそう 花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとやせん」写真:浅野内匠頭終焉の地(東京)
納得の行かない赤穂藩浅野家家臣と内蔵助たちが「義」を第一にして幕府に望んだのは公平な処分。幕府の目付を検使に家臣一同殉死すると申し出て、武家のしきたり、喧嘩両成敗に反する幕府の採決に抗議しました。
家臣の堀部安兵衛たちが「吉良義央を討って仇をとる」と立ち上がりますが、浅野内匠頭長矩公の従兄弟で美濃大垣藩主の戸田采女正(氏定)より「閉門中の大学の為、開城せよ」と説得され
大学様の面目が回復され、万人の前へ出られるよう吉良家にも相応の処分を課していただきますよう何卒御沙汰を!
浅野家再興の嘆願書を幕府に出し開城し、内蔵助たち家臣は浪人の身となってしまいました。※大学様とは、長矩公の弟で、二代浅野長友公の子の長広公です。写真:大垣城(岐阜市)
幕府の対応と吉良家
世論や他の大名からの非難を受けた幕府は、上野介に傷療養のためとして役職を免じ、江戸城近くの呉服橋内の吉良屋敷から本所松坂町の松平登之助の空家へ引っ越すよう命じました。しかし、本所は辺鄙な場所にあり屋敷も古くとても痛んでいました。
幕府に不信感を抱いた吉良側は、すぐさま屋敷周りに番所を三つ設けたほか屋敷内にも落とし穴を掘り、長男が家督を継いでいる出羽米沢藩主上杉家から剣豪の清水一学、小林平八郎など助っ人を二十人ほど送ってもらい、常時50人体制で屋敷の警護にあたりました。写真:吉良邸跡(東京)
●元禄十四年(1701)六月
浪人となった内蔵助は京都の山科で屋敷を構えて暮らしながらも、幕府に対してお家再興を訴え続けました。そんな内蔵助公に堀部安兵衛たちは「早く江戸に出てきてほしい」と催促します。
●元禄十四年(1701)十二月
討入り約一年前の十二月十二日、世論を気にした江戸幕府は上野介に隠居願いを出させ、上杉家から義周を養子として継がせました。その後、上野介は妻の富子は上杉家に預け、世間の風当たりに不満を募らせながらもが「来るなら来い」と言わんばかりに茶会や俳句の会へ警護のお供を連れて頻繁に出かけました。
●元禄十五年(1702)三月
一方、内蔵助は赤穂に遺臣を集め長矩公の一周忌の法要が終えると、難儀のかからぬようにと妻の〝りく〟と離縁し、長男主税を除く二人の子とも縁を切りました。この頃から内蔵助は、京の祇園や伏見で遊興三昧の日々を過ごすようになります。吉良家の間者の探索を欺くためです。
あんなことでは仇討ちはできるまい。
案の定、この姿を見た吉良側の間者は、江戸へ引き返すようになりました。
●元禄十五年(1702)七月 大学様の処分が決定する
閉門は解くが、身柄は本家広島の浅野家で引き取ること。
内蔵助の苦労は水の泡となりました。
事ここに至っては、大石殿も躊躇するまい!
それを知った堀部安兵衛は、内蔵助に計画を打ち明け同志の結集を要求。内蔵助は十月、江戸へ向かうことを決心をします。その一方吉良邸では、浅野家再興が絶望となったことで以前にも増して警備を厳重にしました。
●赤穂義士120人から50人に減る
しかし、時間が経つにつれ城の明け渡し時にとった神文誓紙を返す者が続出し、当初120人だった同志が50名に減ってしまいました。その中には内蔵助の親戚が多数おり、大いに落胆させましたが、残った50名たちは続々と江戸に向かいました。
そんな中、一人の者が計画を親戚に漏らしてしまい、それが伏見奉行所の耳に入り吉良家に伝えられました。当然ですが、吉良邸の警備が更に厳重になり、間者がまた内蔵助の周辺に現れるようになりました。
そこで内蔵助は、前にも増して遊興ごとにふけり間者の目をごまかし続けました。その姿に「赤穂で悪うて阿ほう浪人、大石軽ろうてヌキ石。」と歌われ、世間から嘲笑されました。
●十月 内蔵助、江戸へ向かう(東下り)
九月、子の主税を先に江戸に向かわせた内蔵助も屋敷をたたみ「垣見五郎兵衛」と名乗り江戸へ向かいます。途中、箱根神社、曽我兄弟の墓を詣で、二十二日には鎌倉雪ノ下へ、二十六日には川崎在の平間村へ着くと、同志に服装や相印、合言葉、武器、心がけなど細かい訓令を出しました。写真:鶴岡八幡宮(鎌倉雪ノ下)
●十一月五日 垣見五郎兵衛(内蔵助)江戸に到着
先に江戸へ下った垣見左内こと大石主税が居る日本橋石町の小屋へ到着。左内の叔父垣見五郎兵衛(内蔵助)が乗り込み作戦本部とします。そこへ浅野内匠頭長矩の忌日の十四日、吉良邸で年忘れの茶会があるとの報が入り、亡き殿の無念を晴らす絶好の日と決めました。ちなみに十三日は大雪で十四日は快晴でした。
●十二月十四日〜十五日 吉良邸討ち入り
時に元禄十五年十二月十五日寅の刻(午前三時から五時)火消し装束に身を包んだ大石内蔵助率いる表門隊二十三名は、青竹に挟んだ討ち入り趣意書「浅野内匠頭家来口上書」を玄関に立てて屋内へ、大石主税率いる裏門隊二十四名は裏門の扉を破って乱入し激戦は二時間近く続きました。写真:日輪寺(熊本)
●吉良上野介を見つける
しかし、肝心の吉良上野介が見つかりません。赤穂側に焦りの色が見えたとき、炭小屋で物音が聞こえました。開けた途端、数人が斬りかかってきましたが、手間十次郎が槍で突き伏せ、奥にいた白無垢の衣を着た老人を脱がせてみると背中に刀疵、まさしく吉良上野介その人でした。
内蔵助が御首頂戴仕ると止めの一刀を刺し、一番槍の間十次郎が首をうったあと「えいえいおー!」と勝鬨をあげ引き揚げました。十五日卯の刻(午前六時)。
●亡君が眠る泉岳寺へ向かう
内蔵助一行は、隅田川沿いを通り浅野内匠頭が眠る泉岳寺へ向かいます。途中、吉田沢右衛門、冨森助右衛門の二名を自訴に向かわせ、それを受けた大目付仙石伯耆守は、すぐさま登城し老中稲葉丹後守に報告。若年寄たちにも伝わると驚きと共に「ついに赤穂がやったか」「忠節の士」と賞賛する老中たちで城内は大騒ぎとなりました。写真:赤穂城内大石神社
●泉岳寺に到着
内蔵助一行(四十五士)は、泉岳寺に到着。足軽寺坂吉右衛門とは泉岳寺門前で別れ、残る四十四士は泉岳寺山門をくぐりました。
そして、井戸で清めた上野介の首を亡君浅野内匠頭の墓前に供えて報告し、間十次郎から焼香したのち、一同は休息し幕府の沙汰を待ちました。そこで内蔵助は次の句を詠みました。
あら楽や 思いは晴るる身は捨つる 浮世の月にかかる雲なし
●将軍綱吉公の耳に入る
やがて将軍の耳にも入り、午後八時、吉良邸の検分と共に一行は、ひとまず大目付仙石伯耆守邸に移され取り調べが行われましたが、そこでは厳しい尋問は一切なく、これまでの苦労に対する慰労と忠節に対する温かい労いの言葉だったといいます。
●四つの藩にお預け
四十六士は、正式な沙汰が出るまで四藩それぞれの駕籠に乗せられ各屋敷にお預けとなりました。内蔵助たちが細川藩邸に着いたのは真夜中、出迎えた細川越後守は、労いの言葉を掛けて高待遇で迎えました。
●大石内蔵助良雄 ●吉田忠左衛門 ●原惣右衛門 ●片岡源五右衛門 ●間瀬久太夫 ●小野寺十内 ●間喜兵衛 ●磯貝十郎左衛門 ●堀部弥兵衛 ●中村勘助 ●近松勘六 ●冨森助右衛門 ●早水藤右衛門 ●潮田又之丞 ●赤埴源蔵 ●奥田孫太夫 ●矢田五郎右衛門 ●大石瀬左衛門 計17士
●大石主税 ●堀部安兵衛 ●中村勘助 ●菅谷半之丞 ●不破数右衛門 ●千馬三郎兵衛 ●木村岡右衛門 ●岡野金右衛門 ●貝賀弥左衛門 ●大高源五 計十士
●岡嶋八十右衛門 ●吉田沢右衛門 ●武林唯七 ●倉橋伝助 ●村松喜兵衛 ●杉野十平次 ●勝田新左衛門 ●前原伊助 ●間新六郎 ●小野寺幸右衛門 計十士
●間瀬孫九郎 ●間十次郎 ●奥田貞右衛門 ●矢頭右衛門七 ●村松三太夫 ●茅野和助 ●横川勘平 ●神崎与五郎 ●三村次郎左衛門 計九士
※泉岳寺門前で別れ消息不明となった足軽寺坂吉右衛門一名は水野家上屋敷の予定でした。
●江戸市中に知れ渡る
この出来事が瓦版で江戸中に知れ渡ると、庶民から大名旗本に至るまで拍手喝采の大騒ぎ。その反響は瞬く間に日本中を駆け抜け赤穂浪士は赤穂義士として大激賞されました。同時に幕府が、どのような沙汰を下すのか大いに注目が集まりました。
●幕府の沙汰
赤穂義士に対する同情は、江戸の庶民から幕府の老中旗本に至るまで一色に。四藩からも「助命嘆願」が出され、大目付町奉行達が構成する評定でも「忠義の士を死刑にする事に反対。お預けのまま、しばらく様子をみて後で考えればいい。」との意見。一方で萩生徂徠は「法理論:法を破ったのだから処刑は免れぬ」と反論。吉良家は上杉、紀伊、島津などの大藩との繋がりがある高家という事もあり、悩んだ将軍綱吉公の沙汰は、
武士としての最高の名誉である切腹をもって断罪と致す。なお、吉良家は取り潰し、養子の左兵衛義周は信州諏訪へ配流と致す。
この決着に世間は大きく落胆しました。しかし、内蔵助ら四十七士が望んだ「喧嘩両成敗」の鉄則は守られ叶えられました。
元禄十六年二月四日、未の刻(午後二時ごろ)幕府から各屋敷に検使が訪れるという未だかつてない優遇をされ順次切腹が行われ、遺骸は泉岳寺に運ばれ酬山和尚の引導によって埋葬が終わったのは翌日の午前三時。
大石内蔵助には「忠誠印刄空浄劔居士」の法号、四十六士全員に〝刄〟と〝劔〟がついた戒名がつけられました。ただ、間新六郎の墓石と戒名はありますが、遺骸は、姉婿の中堂又助が引き取り築地の本願寺に葬られました。(戒名:帰真釈宗貞信士)
●内蔵助最後の言葉
切腹の際、改めて幕府から来邸した二人からの申し渡しに
如何よう重科にも処せらるべきところ、すべよく切腹仰つけられる段、有難きしあわせに存じ奉りまする。
すでに覚悟も決したるところなれば、この上申し遺すこともない。本懐の至である。さりながら、さほどにまで仰せ下さるなら、拙者の従兄弟大西坊が城州八幡にいるから、今夏、参勤交代で熊本へお降りのみぎり、そこに立寄り願いたい。今日この好天に、斯く斯くの状態で、快く切腹したことを、次男共へ申し通ずるよう、宜しくご伝言を。
と遺族へ言い遺し、夕方五時ごろ安場一平の介錯によって果てました。内蔵助四十五。
※大西坊とは、京の岩清水八幡宮近くにあった寺院のことで、赤穂城明け渡し後、浪人から僧になった実弟たちが身を寄せていました。
●御家族のその後
長男大石主税良金 松平隠岐守邸にて二月四日切腹 十六。
長女くう 内蔵助切腹の後、母と但馬の石束家(妻りくの兄)に移る、宝永元年病没 十五。
次男吉千代 石束家にて出家 宝永六年三月大赦の前に病没 十九。
三男大三郎良恭 石束家にて宝永六年の大赦により赦免、広島藩主浅野安芸守吉長よりお呼びがかかり、内蔵助と同等の千五百石をもって召抱えられる。
次女ルリ 三男の大三郎と共に広島へ。浅野家一門の浅野監物に嫁入りし二男四女をもうける。
妻りく 香林院と名乗り、但馬の石束家で暮らした後、大三郎とルリと共に広島へ移り住み、幸せな生涯を送りました。元文元年永眠。六十八。墓所は広島の国泰寺。
●寺沢吉右衛門の行方
泉岳寺門前で別れた寺沢吉右衛門一名は、同志切腹後に大目付仙石伯耆守に口上書を持って現れ自訴し沙汰を待ちましたが、「志は立派だが、お仕置きは済んだことであるから、どこへでも参るがよい。」と無罪放免となりました。その後伊藤家と山内家に仕え八十三年で亡くなりました。墓所は江戸牛込曹渓寺にあります。(戒名:節岩了貞信士)
今年も十二月十四日に「赤穂義士大祭」は行われます。ぜひ一度如何でしょうか。
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【表門隊】●大石内蔵助良雄 ●原惣右衛門 ●片岡源五右衛門 ●堀部弥兵衛 ●吉田沢右衛門 ●間瀬孫九郎 ●冨森助右衛門 ●岡野金右衛門 ●小野寺幸右衛門 ●奥田孫太夫 ●早水藤右衛門 ●矢田五郎右衛門 ●間十次郎 ●村松喜兵衛 ●岡嶋八十右衛門 ●矢頭右衛門七 ●勝田新左衛門 ●武林唯七 ●貝賀弥左衛門 ●神崎与五郎 ●横川勘平 ●近松勘六 ●間瀬久太夫 ●大高源五 【裏門隊】●大石主税 ●堀部安兵衛 ●吉田忠左衛門 ●赤埴源蔵 ●潮田又之丞 ●不破数右衛門 ●小野寺十内 ●木村岡右衛門 ●奥田貞右衛門 ●大石瀬左衛門 ●磯貝十郎左衛門 ●間喜兵衛 ●間新六郎 ●中村勘助 ●千馬三郎兵衛 ●菅谷半之丞 ●村松三太夫 ●倉橋伝助 ●前原伊助 ●杉野十平次 ●三村次郎左衛門 ●茅野和助 ●寺坂吉右衛門