【広島県】日本最大の海賊/尾道市 因島水軍城

 周りを海に囲まれた海洋王国日本。古来より海運で栄えた各地の港には、賊から国を守る侍達が水軍を編成し、ある時は治安維持、ある時は戦へ参加し勢力拡大して行きました。特に有名なのが瀬戸内海を一族で支配した日本最大の海賊と言われた「村上水軍」。(伊予水軍とも言われる)一度は聞いたことがあるその名前。そのロマンに触れてみましょう。

広島県の尾道方面から二番目の大きな島である因島へ向かいました。「福山I.C」から、しまなみ街道を通り「因島北I.C」で降り、案内標識に従い車を数分走らせると

「因島水軍城」の大きな看板が見えてきます。上へ登ると駐車場に着きます。

駐車場はそれほど大きくはありませんが、20台分ぐらいの広さはありました。丘陵の斜面にお城が見えます。

見上げると石垣・櫓・赤いノボリが見えます。斜面には角度的に分かりにくいですが「○上水軍」?と剪定されていて錨が飾ってあります。

観覧料は大人330円、小人(小・中学校)160円でとてもお安いです。営業時間は午前9:30〜17:00まで(休館日は木曜日)です。

本丸に着くと正面に館風の建物があります。こちらは村上水軍の三家の一つ「因島村上氏」に関する資料館になっています。

中は因島水軍に関する展示物(刀剣・甲冑・書状など)や御城印なども販売されています。大塔宮とは、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子でおられた護良親王の事です。

建物自体は、大きくはありませんが、館内はスペースを隙間なく使い展物が並べられています。写真は舟のミニチュアです。舟にはオールが沢山突き出ています。かなりのスピードが出ていたと思われます。毎年夏に水軍祭りが行われていて復元した船による競争レースが行われています。

横には、武家屋敷の様な建物。無料で見学できます。屋敷の中を覗いてみると

「因島村上氏」御城主様と家臣たちとの軍議の様子が再現されています。とても良くできた展示だと思います。その他にも、村上海賊の歴史を解説したボードがあります。

村上海賊の歴史

「南北朝の時代およそ650年前、南朝方の長慶天皇の命により、信濃国から村上師清が瀬戸内に入りました。この師清は、北畠親房の孫で北畠顕成という人物ですが、村上氏の家督を継ぐ事で村上師清と改名しました

天授二年(1277)村上師清は、建武の新政後、空白をついて北朝方の今岡通任を因島土生町の釣島・箱崎の戦いで破り、因島を手に入れます。因島の周囲はおよそ35キロメートルです。島の近くを航行する船を監視し、臨戦態勢に備えるため、24の城を築きました。

「村上師清には、三人の男子があり、それぞれ三つの島に分けさせました。長男義顕を能島、次男顕忠を来島、そして三男顕長を因島に配置しました。ここに同門意識による統合によって後世に知られる能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の村上三家が生まれました。」

海外貿易も盛んに行われ、朝鮮や中国、遠くは東南アジアまで赴き、海賊というよりも瀬戸内海の海上交通の支配者、そして海外貿易の商人という側面を持っていました。この当時の石高は十一万四千五百石にものぼりました。

こうした国内外の貿易と当時の支配階級との関係により、権力と地位を不動のものにしました。国内では、水軍として厳島の合戦や木津川河口の戦いなど幾多の合戦に参加し、歴史を動かす大きな原動力となりました。」

●厳島の合戦とは、安芸の毛利氏と周防の大内氏の陶晴賢の間で起きた合戦。一日だけという約束で毛利氏の援軍となり戦いに勝利します。やがて、毛利氏の水軍として吸収され事になります。

●木津川河口の戦い 織田氏と毛利氏との間で合戦で、毛利氏に属し織田側の補給船を壊滅させ勝利した戦い。しかし、第二次木津川河口の戦いでは織田側の九鬼水軍の鉄甲船により壊滅させられて敗北してしまいました。

青陰城跡

「この城は海城ではなく、戦国山城であり、村上義弘が居城したと伝えられている。本郭と二の郭が通路状の郭で結ばれる連結式の郭配置となっており、他にも郭や堀切が確認されている大規模な山城でした。因島の中央部にあり、ほぼ全域が見渡せる場所に位置していた。」

また、本丸から下にある村上水軍の墓地へ通じる小道があり、菩提寺である金蓮寺の裏に降りることができます。

村上水軍の墓地。かつて深い入江であった中庄町の北、因島村上氏の菩提寺金蓮寺墓地にあるかつて金蓮寺は中庄町の東南、外浦町の谷間にあったが、その後、現在地に移りそれまで分散していた石塔類を金蓮寺裏山に集めた伝える…。とあります。

御城印です。資料館によると村上「水軍」という名は明治時代に付けられた名称で、現在では村上「海賊」と呼称されています。六代当主村上吉充(よしみつ)とは、厳島合戦で毛利側として参戦し勝利に導いた武将様です。

もう一つの櫓の中へは入る事ができ、窓から景色が眺められます。因島水軍城となっていますが、当時はお城は無く家臣団の屋敷が建ち並んでいて、こちらは近年資料館として建てられたものです。

村上水軍ミュージアム

因島水軍城から「しまなみ海道」に乗り愛媛の今治方面へ6番目の島「大島」に「村上海賊ミュージアム」があります。約20年前に出来た博物館で文字通り村上海賊、特に「能島村上氏」に関する展示を主にされています。外観がお城の様でかっこいいです。

入り口には村上景親公の像があります。「村上景親」とは、能島村上氏の当主だった父能島武吉の次男で、のちに小早川隆景公の家臣となりました。

かわいらしいキャラクター「かげちかくん」とアヒルの「能島ダック」の絵がお出迎え。手に持っているのは、当時の村上海賊がよく使用していた「焙烙(ほうろく玉)」と言われ、縄に火を点火し敵の船に投げ入れ炸裂させる爆弾の様なものです。

館内には、村上海賊に関する展示を中心に日本最大の海賊と言われた歴史を分かりやすく紹介しています。

館内には食堂もあり、館名にちなんだメニューの数々があります。

こちらは特製のたこ焼きです。ちりめんじゃこが乗っており、とても美味しかったです。500円だったかと思います。

外には復元された舟もありフォトスポットになっています。○に上の旗印を掲げていますが、この旗印を見た賊は恐れをなして逃げたという。ですので、水運を使う領民や要人が海を渡る際は、警固・通行料を払い賊から守ってもらい渡海していました。そして徴収した金銭を基盤にして瀬戸内一帯に勢力を広げていきました。側面に書いてある「武吉」とは能島村上水軍の大将であった村上武吉公のことです。

御城印も販売されています。能島城とはミュージアムと海を挟んで向かい側にある小島に築城されていたお城の名前です。現在は、能島城跡上陸&潮流クルーズツアーが、土・日・祝日に営業されていて1名2500円で楽しめる様です。

それぞれの村上氏

 天文24年(1555)10月、安芸の厳島合戦で毛利氏側の説得により加勢した村上海賊(水軍)は、得意の海上戦で活躍、陶晴賢率いる大内軍を破り毛利氏に勝利をもたらしました。それを切っ掛けに毛利氏との距離を縮めていく事になります。

因島村上氏は、早くから毛利氏と手を組み山陰の尼子征討や備前への進出での海上警固の役目を果たし、天正4年(1576)毛利氏と織田側との間で起きた大坂石山合戦でも毛利氏の陸軍や兵糧を積んで石山本願寺へ運び入れ、難波沖海戦(木津川口の戦い)の主役をつとめました。

しかし、逆風が吹きます。第二次木津川口の戦いにおいて、織田側の九鬼水軍が持つ鉄甲船(安宅船)の前に大敗を喫しただけでなく、織田側(豊臣秀吉)の勧誘によって来島村上氏は寝返り、毛利側の因島・能島村上氏と袂を分かつ事になりました。

 更に豊臣政権化では海賊禁止令を出され、基盤だった瀬戸内での海上警固職や通行料の権益をも取り上げられトドメを刺された能島村上氏と因島村上氏は毛利氏と共に西軍として関ヶ原の合戦に参戦しますが敗戦。毛利氏が防長2カ国に減封されると、それに従い御舟手組の頭領として防長へ移り因島を離れていきました。

  一方、秀吉公側だった「来島村上氏」は、東国鹿島の大名になり船手衆として活躍しますが、西軍についたため敗戦後は九州の山に囲まれた小藩、豊後森(大分)へ転封となり、名も「久留島」と改め豊後森藩政を支え明治維新を迎えました。そちらを知りたいかたは、大分県の玖珠町にある豊後森藩資料館へ向かうと良いでしょう。