【大分県】肥後熊本藩の飛び地と清正公二十三夜祭/大分市鶴崎

大分県大分市鶴崎では、毎年七月二十三日になると戦国時代に活躍した加藤清正公の命日に合わせて「清正公二十三夜」という盛大なお祭りがあります。

加藤清正公といえば肥後熊本城の城主として有名ですが、何故、離れた豊後(大分)でお祭りがあるのか、その歴史に触れてみましょう。

加藤清正と鶴崎

戦国武将の加藤清正公は、慶長六年(1601)に徳川家康公により、関ヶ原の合戦の手柄による褒美として、天草の領地を加増してもらいましたが、鶴崎が瀬戸内海に面した海上交通の要所になるであろうと考え、天草を辞退し代替地として鶴崎、高田地区他、豊後国内の領有を願い出て認められました。これにより鶴崎は、飛び地として肥後熊本藩が治めることになりました。

清正公は、大野川や乙津川の治水工事を行い、堀川(港)を造って船着場としました。そのおかげで瀬戸内海を往来する船の発着で賑わい、鶴崎の町は海陸交通の重要な所となり、軍事上からも大事な拠点となりました。

また、政治の中心として熊本藩鶴崎お茶屋(鶴崎小・鶴崎高校一帯)を建てて、町割りを行い、法心寺を建立するなど鶴崎発展の為に大きな業績をあげました。その後の寛永九年(1632)加藤氏から細川氏にも受け継がれました。

豊後街道の終着地

肥後藩の御茶屋は鶴崎の他に佐賀関、野津原、久住にも設けられ、藩主の宿泊所として使用されました。肥後の熊本城から豊後鶴崎まで31里(124km)まで続く豊後街道の終着地でもあります。

雲鶴山法心寺

鶴崎駅から乙津川の河岸付近にあるお寺「雲鶴山法心寺」。慶長十六年(1611)旧暦6月24日に亡くなった加藤清正公の遺徳を偲んで、毎年新暦の7月23日の夕方から「清正公大祭二十三夜祭」が行われます。

お祭りでは、清正公が戦の折に兵士の士気を高めるために麦茶に大豆お入れて食べさせたとされる「豆茶」がふるまわれます。また、昔からの言い伝えによって境内に「千灯橙」が灯され、鶴崎の夏の風物詩として多くの参拝者が訪れ賑わいます。また、清正公の遺品や宝物などが公開されます。

【千灯明】「その昔、清正公が鶴崎の港を出港する際、多くの町民がこぞって提灯や明かりを持ち、お迎えやお見送りをしたという古事に習い千個の灯明を夜空に照らし供養の誠を捧げます。」

勝海舟と坂本龍馬像

法心寺のすぐ近くに「勝海舟と坂本龍馬像」が建っています。大観峰の回でもお伝えしましたが、幕末時代に熊本から豊後街道を使って鶴崎まで歩いた二人の姿をイメージして建てられました。足元には勝海舟の歌碑があります。

「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴崎」

空桑・思索の道

二人の像の近くにある「空桑・思索の道」。聞き慣れない言葉ですが、同じ幕末時代に鶴崎で活躍した「毛利空桑」という人物に因んでいます。毛利空桑は、熊本藩医毛利太玄の第二子として現在の大分市常行に生まれ、脇蘭室(ご先祖様は脇屋義助)や帆足万里に学びました。

その後、私塾を開くと全国から多くの志士たちが足を運びました。その中には吉田松陰もおられました。64歳になると、熊本藩が鶴崎に成美館という郷校を建て武芸の教鞭もとり、「文ありて武なきは真の文人にあらず、武ありて文なきは真の武人にあらず」の文武両道を信条とし厳格な指導を行いました。

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法心寺近くの「毛利空桑記念館」では、清正公二十三夜祭の夜には演奏会が行われます。

鶴崎町歩きマップが法心寺にありますので、ゆるりと散策してみるのもいいでしょう。

鶴崎の歴史

建久七年(1196)源頼朝公より平氏の監視と治安維持のために「鎮西奉行・豊後守護」を命じられた関東武士の大友家初代能直公が相模国大友郷より下向しました。文永八年(1271)元寇が起き、幕府は西国の守護たちに襲来に備えるように命じ、三代頼秦公も九州に下向し、大友氏は本格的に豊後に住むようになりました。写真:源頼朝公肖像画

▪️鶴崎城跡

現在の鶴崎小学校の一画には、室町時代に大友氏家臣の吉岡増長が築城した「鶴崎城」の石碑が建っています。戦国時代、第二十一代大友宗麟公の代に北上してくる薩摩の島津軍と戦った「鶴崎城の戦い」「乙津川の戦い」の舞台になりました。

天正十五年(1587)に大友宗麟が病で亡くなると、子の義統が二十二代当主として引き継ぎましたが、文禄二年(1593)豊臣秀吉公から文禄の役での失態(誤報による撤退)を理由に領地を没収され、約四百年続いた大友氏の支配は終わりました。その後は豊臣家の直轄地となります。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの功績により、豊後の「鶴崎・佐賀関。野津原・久住」の約二万五千石をもらった加藤清正公は、鶴崎に「鶴崎御茶屋」「法心寺(日蓮宗)」を建立のほか、港や街並みの整備も行い鶴崎を発展させました。加藤家改易後は、熊本藩主細川忠利公によって事業は引き継がれ、海運や大坂や江戸への参勤交代の往復などに利用されました。

JR九州 鶴崎駅

最寄りの駅で、JR九州日豊本線の途中駅。朝夕はたくさんの学生さんでごった返します。

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