日本の観光名所の代表格である東京タワー。赤いタワーが印象的で誰もが訪れたい名所ですが、そのすぐ近くに歴史的な名所もあります。江戸幕府の歴代将軍徳川家の菩提寺「増上寺」。フォトスポットとしても人気があり、多くの参拝者で賑わいます。最近では、故安倍晋三元総理大臣の葬儀の場所としても知られています。
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JR浜松町駅、または都営地下鉄「大門駅」で降りて少し歩くと、綺麗な大門が見えてきます。
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中へ入ると綺麗で大きな御本堂(大殿)と後ろの東京タワーが見えてきます。近代日本のシンボルと江戸時代のシンボルとがコラボするこの景色は、やはり人気で撮影する方でも賑わいます。
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御朱印もいただけます。2種類ほどありました。
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沿革によると、「浄土宗の七大本山の一つ。三緑山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(1393)浄土宗第八祖 西誉聖聡上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(1598)に現在の地に移転しました。(中略)江戸時代初期に増上寺法主十二世、源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。」
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可愛い赤い帽子と風車が綺麗です。幼い子や孫たちへの愛情の表れとして、頭を守り寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」があるのだそうです。
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奥の方へ進むと徳川家墓所の門が現れます。青銅製の頑丈な扉には、三つ葉葵と横には迫力ある竜の彫刻。将軍の格式が伺えます。でもこの門からは開かず横の通路から入ります。
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料金所があり、こちらで500円(高校生以下無料)を払うと中へ入れます。通常は10:00から16:00(最終入場15:45)定休日は火曜日(祝日の場合は通常通り)。
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こちらではガイドさんが丁寧に教えてくれますので、時間に合わせて訪問するとお得です。ただ大河ドラマの内容を交えてお話しされるので少々困ります。あれは半分創作ですので….
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当山に埋葬されているのは、二代徳川秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の六人も他に二代将軍正室崇源院(お江の方)、十四代将軍正室静寛院。
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第七代徳川家継公のお墓。第六代徳川家宣公の跡を満三歳という幼さで継いだ将軍様でしたが、病弱で風邪が肺炎へと悪化し、わずか八歳で亡くなりました。幼きゆえに政務はまだできない為、間部詮房と新井白石が幼き将軍を支えました。在位/正徳三年四月二日〜享保元年四月三十日(1713〜1716)
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第十四代徳川家茂公のお墓。紀州徳川家出身で将軍家定公の従兄弟にあたり、国事多難な時代に十三歳の若さで将軍に。老中は井伊直弼。第二次長州征伐の際に大阪城で指揮をとっていましたが、脚気を患い二十一歳の若さで亡くなりました。甘いものが大好きだったのは有名ですね。在位/安政五年十月二十五日〜慶応二年七月二十日(1858〜1866)
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そしてこちらは、第二代徳川秀忠公。在位/慶長十年四月十六日〜元和九年七月七月二十七日(1605〜1623)と正室崇源院(お江の方)のお墓。歴史が好きな方なら一度は訪れたい場所だと思います。
芝大神宮
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増上寺のそばにある芝大神宮。御祭神は天照大御神と豊受大神の二柱で関東のお伊勢さんと親しまれています。平安時代の寛弘二年(1005)一条天皇の御代に創建され、源頼朝公や徳川家康公の保護を受けた由緒ある神社。
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生姜のお祭りがあり、生姜の神様としても知られています。御朱印をいただくと一緒に生姜の飴もついてきました。お守りもたくさんありました。
徳川将軍家と生姜の関係
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日本最大の規模を誇った江戸城。その周りには広大な生姜畑が広がっていました。なぜ生姜がそんなに重宝されたのでしょう。生姜の独特の辛味には強力な殺菌成分が含まれ、腸チフスやコレラ菌に絶大な効果があり、薬としても利用されていました。
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生の生姜には整腸作用の他に風邪や食欲増進などの効用、乾燥させ食べれば体が温まり冷え性や夜尿症にも効果が。となれば八百八町と言われた江戸庶民たちの為に大量生産が必要だったのもうなずけます。
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ちなみに八百八町とは、それだけ多いという意味で八という字が末広がりで縁起を持つことや、徳川家康公による江戸入りが天正十八年朔日(旧暦)であったことからそう呼ばれるようになりました。
徳川家随一の健康将軍
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その生姜ですが、歴代徳川将軍の中でも無類な生姜好きの人がいました。天明七年(1787)家治公の跡を十五歳で継いだ十一代徳川家斉公です。当時の日本人の平均寿命は三十七歳、歴代でご長寿だったのは十五代慶喜公の七十七歳、初代家康公は七十五歳、それに次ぐ六十九歳で世を去られた家斉公。家斉公は、先代家治公に跡継ぎがおらず養子になった為か、健康には特段気をつけていました。
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毎日欠かさず食されていたのは、お魚と生姜、「酪」と呼ばれる牛乳を加工したもの。おかげでご長寿で五十五人の子宝に恵まれました。