【兵庫県】宮本武蔵初決闘の場と中世山城/作用町 利神城跡

宮本武蔵初決闘の地

日本一の剣豪宮本武蔵。その武蔵さんが13歳という若さで初めて決闘した場所、その地が今でも残っています。兵庫県の南西部を縦に繋ぐ国道373号線の途中にある「平福」地区。通りかかると道沿いに看板「宮本武蔵初決闘の場」が現れます。狭いですが数台停められるスペースがあります。

作用川に架かる金倉橋の袂にその場はありました。見学しやすくベンチもあります。決闘の場には石碑が建っています。周りのロケーションも当時の雰囲気を醸し出しています。

武蔵血闘の場 五輪の書の一節に 吾若年のむかしより兵法の道に心をかけ十三才にして始めて勝負す。その相手新当流の有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち とあり時慶長二年ここ因幡街道平福の宿場外れ松土木の続く金倉橋の袂での出来事である

「何人たりとも 望みしだい 手合わせいたすべし われこそ日下無双の兵法ものなり 有馬喜兵衛」お相手の兵法者「有馬喜兵衛」の立て札。

決闘に挑んだ宮本武蔵くん13才は、新当流の達人を一刀のもとに倒したといわれます。そしてこれより剣豪宮本武蔵伝説が始まりました。浪漫を感じます。

利神城跡

宮本武蔵さんの決闘場から見上げると中世の古城があり、頂上に石垣が見えてい流のは「利神城跡」。小高い山々が連なる佐用郡作用町にある中世の山城で、道の駅「ひらふく」の駐車場に停めゆっくり見学できます。

利神城跡はここ作用町平福にある中世から江戸時代初期にかけての山城で、現在見られるような石垣造りの姿になったのは慶長五年(1600)頃になります。播磨52万石を領し、姫路城主となった池田輝政は領内に六つの支城を築いたとされ、その一つが利神城であり、城主となった輝政の甥、由之が山頂の城と麓の館を大改修したと伝えられています。

城は周囲に総延長700m近くの石垣を巡らし、山頂に天守を築きあげた姿は「雲突城」とも呼ばれた言われています。元和元年(1615)には池田輝政の六男、輝興が佐用郡2万5千石を領して入城。目の前の「道の駅ひらふく」にジオラマが展示されています。

このころ城下町の整備も進み、のちの〝宿場町平福〟の繁栄のもととなったと言われています。しかし寛永八年(1631)輝興が赤穂へ移り、領地が山崎藩(宍栗市)に組み込まれると城主不在として廃城になったと伝えられます。

ある道の駅「宿場町ひらふく」。智頭急行の平福駅も近くにあります。

道の駅ひらふくには、地域の特産物の他に御城印があります。