【大分県】天領と二つの古城跡/日田市 日隈城址・月隈城跡

 九州の福岡県・熊本県に隣接する大分県北西部の「日田市」〝天領日田〟〝温泉地〟として知られている観光地は、広大な阿蘇外輪山を源とする筑後川の支流たちが合流する日田盆地の中にあります。江戸幕府が直接管理する直轄だったのはご存じの通りですが、今回は、かつてあった「日」「月」を名に冠するお城跡に着目して訪ねました。

JR九州 日田駅

JR九州の久留米駅とJR大分駅とを結ぶ「久大本線(きゅうだいほんせん)」の途中駅。駅舎は新しく綺麗です。駅舎内にはカフェや広い待合室などがあり、駅の左横には観光案内所も併設されていて、レンタサイクルやシェアサイクルなどもあります。駅前には日田杉を使ったフォトスポットがあります。

日隈城跡

「日隈城跡」を目指してJR日田駅から南西方向へ20分ぐらい歩くと、三隈川に架かる橋が見えてきます。日田は鵜飼漁でも有名なので、橋の欄干には、鵜飼の観光写真があります。その橋を渡ると森が見えてきます。

「亀山公園(日隈城跡)その名の通り、亀の甲羅のような形をしています。亀山・日隈山とも呼ばれていて、現在市民の憩いの場所になっています。

公園の中には説明文の石碑があり由来が書いてあります。「深い山の中の湖。ある時豪雨が襲って湖水は溢れ、周囲の山脈を破って奔り出た。

水の引いた跡の盆地に残った三つの小丘は日隈・月隈・星隈と水流は三隈川とよばれた。・・日隈山は姿が亀に似ているので「亀翁山(きおうざん)」とも「亀山(きざん)」とも称されるとうになったという。徳川初期の五層天守閣の櫓の築城など歴史は古いが、今はその影はない。」隈とは入りくんだ地形の事で、日・月・星は丘の名称だったようです。写真:三隈川の合流地点

この亀山に築かれた「日隈城」。文禄三年(1594)豊臣秀吉公の家臣、宮本長次郎が日田郡・玖珠郡の代官に着任し、亀翁山にあった真光寺を竹田村(現日田市内)へ移し築城。さらに田島村にあった町を三隈川原に移して〝隈町〟と名付けて城下町とし,これが「日田郡の中心城下町」となりました。(その後、月隈城が築城されると、そちらに中心が移りました)

慶長元年(1596)毛利高政公が入城すると、早速お城の改築に着手。丘上に「五層六階の天守」を建立しました。慶長五年(1600)関ヶ原の合戦が始まると、城代の毛利隼人(西軍)は東軍の攻撃に備え、急いで外堀を掘り防御を固めました。

案の定、東軍の中津城主黒田官兵衛(如水)が、西軍の大友義統を別府石垣原で破った後、家臣の栗山備後を大将とし日ノ隈城へ攻め寄せて来ました。合戦になると思われましたが、毛利氏は天下の形勢をみて戦わず和議開城。

再び毛利高政公に任されましたが、外様という事で領地が削減、元和二年(1616)一国一城令で廃城が決まり豊後の佐伯の本城へ引き揚げたため、その後は小川壱岐守の預かりとなり久野六太夫が城代となりますが、寛永の頃に破却されたようです。

山頂に鎮座されている社の左下には「日隈城址」の石柱があります。傍の由緒には「御祭神;後醍醐天皇・楠正成命・春日大明神 後醍醐天皇、楠木正成命の二社は、明治維新前より旧日田郡光岡村の「松陽山岳林永昌禅寺」に安置されていたが、明治元年太政官より神仏分祀の達しがあり、時の日田県知事松方正義(後の内閣総理大臣大勲位侯爵)はこの命に従い、ここ日の隈山(亀翁山)に社殿を新営して明治三年五月に遷宮、「日の隈神社」と称して奉った。」

月隈城(永山城・丸山城)

日田駅から今度は北へ向かいます。「天領日田」として観光にも力を入れている日田市の名物といえば豆田地区です。江戸時代の雰囲気が漂う古風な建物のお店が並んでおり、お食事やお土産屋、有料駐車場など営業しています。

豆田地区を抜けた先には花月川が流れており、そこに架かる橋を渡ると、こんもりとした森が見えてきます。

石垣が少し顔を出している「月隈公園」。かつて月隈城(丸山城/永山城)があった場所です。慶長六年(1601)日隈城は、再び毛利高政公が統治する事になりましたが、外様大名という事もあり、徳川幕府は監視する目的で月隈に譜代の小川壱岐守光氏公を城主として二万石を与え「月隈城(丸山城・永山城)」が築城されました。

小川光氏公は月隈城を築くと、友田村の民家を城南に移して城下町(丸山町)を整備しました。しかし小川氏は一代で絶えてしまい、それから徳川幕府の直轄地(天領)となりました。代官には、名乗りをあげた小川氏の家臣小川喜助と小川又左衛門が受け持ち統治する事になりました。

慶長十六年(1614)の大阪冬の陣が勃発。小川両人も徳川方で出陣、留守役の家臣は万一に備え城を増改築し防御を固めました。現在は広場になっています。いくつかの石碑が建っており、奥へ進むと35もの横穴古墳が見受けられます。これは、日田の国造の鳥羽宿禰か、古代の豪族日下部一族のものと思われます。

本丸の場所には月隈神社が御鎮座されています。居城とされた石川総輔公が領民の繁栄と豊穀祈願のため創建しました。

無人で御朱印は見受けられませんでしたが、お守りがわりにこのような物があります。「小さけれど、石(意志)が固いので、がんばって招きます。1個百円」と書いてあります。

可愛いです。

石垣は野面積みで、近年一度地震で崩落したようですが、修繕されたようです。元和二年(1616)石川総輔が六万石で入部し永山城と城名を改めましたが、一国一城令で廃城となり、在城18年目の時に下総佐倉へ転封となり、再び48年間の天領時代になりました。

本丸の一画には展望できる場所があり、日田の街並みが一望できます。天和二年(1682)松平直矩公が七万石で城主になり山麓に館を築きましたが、貞享三年(1686)に山形へ転封、以降は再び天領となり明治維新を迎え、館は取り壊されました。

永山布政所跡

現在は更地になっていますが、月隈公園そばにある「永山布政所跡」。寛永十六年(1639)天領だった頃に代官となった小川両名の邸宅を兼ねた日田陣屋(日田代官所)が置かれた場所があります。

明和四年(1767)には、日田代官から西国筋郡代へと格上げされ、江戸幕府の天領を管轄する4箇所の一つとして主に〝九州〟を担当し、訴訟や収税、庶務などを扱いました。文化十四年(1814)着任され19年間政官だった「塩谷大四郎正義(しおのやだいしろうまさよし)」という人物の事が書かれています。

「江戸幕府は災害や飢餓に備えて米や雑穀を貯えておく制度をつくり、その代金「助合(たすけあい)穀銀」を年貢と同様に徴収した。このため、かえって百姓の困窮は増すばかりとなった。塩谷代官は、これとは別に救い米を備蓄することにして、着任の二年後、豆田・隈の町年寄が発起の形で、世話人三名を設け両町の富裕層から米を寄附させました。

代官陣屋の東南にあった畑地に四棟の倉を建て、700俵あまりの米をこれに収納し、そして自ら「陰徳倉」と名付け、文を起草し、豆田町48名、隈町45名の寄附高、氏名と共に碑に刻みました。この米は毎年新穀と入れ替え、文政五年隈町大火の際には放出されて効果を表しました。」数多くの善政をされ感謝された代官として石碑が建っています。

塩谷大四郎正義は、武蔵国葛飾郡の出身で粟津清喬の次男として生まれました。元々粟津氏は近江國粟津を発祥とする源氏の支流の家系で、父は江戸幕府に仕える武士という家柄、兄が家督を継ぐと、大四郎正義は同じく幕府に仕える塩谷家へ養子として入りました。

小さい頃から勉強熱心で聡明な大四郎正義は、その人柄を見込まれて勘定職の役人に抜擢されると、持ち前の才覚を発揮。次々と諸問題を解決し出世していきました。ついには代官となり、大坂を経て日田の西国郡代となり、日田の領民のためにも御尽力されました。江戸にて68歳で没。

アクセス

ちなみにアクセスですが、JR日田駅から少し離れているので、日帰りの方は、JR日田駅横の観光案内所でレンタサイクルを借りるか、日田駅前のバスセンターからバスが出ているので、片道だけでも利用できると思います。100円ですから。

駐車場もあります。

ちなみに「星隈」とは、三つの河川が合流する地点付近にある丸い森の小丘の事で、現在は小さな神社があるのみで、日隈・月隈に比べると星のような小ささです。月隈にお城を築く際に、仮の館があったようです。

周辺の施設

日田市立博物館

こちらの「日田市立博物館」は入館無料です。朝9:00〜17:00まで。休館日は月曜日です。主に日田の自然文化(古墳時代・日田杉・鵜飼文化)に関する展示物が主です。

日田祇園祭り

有名なお祭りとなる「日田祇園祭り」毎年、7月中旬の土・日曜日に行われています。約300年の伝統を誇る日田の夏の伝統行事で、絢爛豪華な山鉾が、隈・竹田、豆田の町並みを巡行します。この縦に長い山鉾に人が乗り、練り歩くのですから驚きます。

ご当地グルメ

日田地方のご当地B級グルメと言われるのが〝日田焼きそば〟です。街には多くのお店が点在しています。この焼きそばが一般的な焼きそばと大きく違う点は〝麺が固さ〟にあります。お祭りの露店などの柔らかい麺とは違い、皿うどんのカリカリ揚げ麺のような感じです。柔らかいモヤシとあわせてボリボリむしゃむしゃという食感です。個人的には少し顎が疲れました。※お店によって多少違いがあります。