【滋賀県】京極高次の居城/大津市大津城跡

JR西日本大津駅

JR西日本大津駅。こちらから大津港方面に向かいます。

大津城跡に向かう途中に復元された石垣と石碑があります。こちらは本物ではなく、発掘された石垣を模した植え込みのようです。うーちょっとがっかり。

「大津城;戦国時代の終わり、豊臣秀吉は坂本城を廃し、この付近に大津城を築きました。築城年代は天正十四年(1586)年頃とされ、初代城主は、坂本城主だった浅野長吉(長政)、その後増田長盛、新庄直頼を経て、文禄四年(1595)に京極高次が就任しています。

京極氏は、六角・朽木家と共に近江守護する佐々木氏(源氏)の一流で名門の武家。湖北を本拠とした名族京極氏は、戦国時代に織田信長公に仕え、その後秀吉公に仕えた流れで西軍側に属しました。高次の正室は、浅井三姉妹の次女「お初」で徳川秀忠公の正室は崇源院。京と大坂、西国の玄関口である大津はとても重要な要所を受け持った京極高次公。

それゆえに縁戚のある家康公は会津征伐に向かう前に高次に会いに訪れました。西軍につくか、東軍につくか微妙な立場の高次公。妹は秀吉公の元にいます。慶長五年(1600)八月、とりあえずとして二千の兵(西軍側)で湖東から北陸へ進軍しましたが、

慶長五年(1600)の天下分け目の関ヶ原の合戦に合わせて突如大津城へ引き返し東軍側につきました。気づいた西軍の大軍が大津城に押し寄せ、高次の大津城は籠城戦に突入。写真:大津城跡(本丸)

奮闘の末、関ヶ原の当日に開城しましたが、西軍の大軍を引きつけ足止めさせ、結果として関ヶ原の東軍勝利に貢献しました。その後、その働きを認められ、加増の上小浜藩主に転封されました。大津城内は損傷が激しかったため、合戦の翌年に廃城。徳川家康は、新たに膳所の地に天下普請第1号として膳所城を築いています。写真:膳所城(大津市)

なお、大津城の天守は落城しなかったという縁起を担いで彦根城に移されています。写真:彦根城(彦根市)

町名にも名残りがあります。【旧中堀町「天正十四年(1586)頃、豊臣秀吉支配下の武将浅野長吉が築いた大津城は、三重の堀に囲まれていました。その中堀の一角にあたることから名付けられたものです。慶長六年(1601)城が膳所へ移されたのち、堀を埋めて町を築いたものと考えます」

【御蔵】「江戸幕府の米蔵をいいます。この町のすぐ北には、琵琶湖に突き出すように作られた敷地内に御蔵が建ち並んでおり、御蔵町の町名もこの御蔵に由来します。なお幕府の御蔵の敷地は、かつての大津城の本丸跡地を利用したものです。」

周辺のスポット

大津港フェリーターミナル

大津城跡の隣にフェリーターミナルがあり、ミシガンクルーズなど琵琶湖を周遊するフェリーがあります。最寄りの浜大津駅から歩いて数分の場所にあります。

長い路面電車

鉄道好きな人にはお馴染みな「京阪電鉄の路面電車」。路面電車は普通は、短い二両編成の路面電車はよく見かけますが、普通列車のような長さで蛇のようにクネクネする姿は見たことありません。途中から地下鉄になるので驚きです。