【大分県】大砲がある海城と夫人のお寺/臼杵市臼杵城跡

大分県中部、大分駅からJR日豊本線で佐伯方面へ1時間ほど移動すると「国宝 臼杵石仏」で有名な臼杵市に着きます。駅を降りると心地よい潮風が吹いていて和みます。

「臼杵石仏」とは、平安から鎌倉時代にかけて作られたとされる石仏群で、目的や詳細は不明ですが、国宝に指定されています。臼杵駅前には、石仏のレプリカがあります。

JR九州 臼杵駅

その石仏の街として至るところに観光客向けにアレンジがされている臼杵駅。海の側にありますので潮風がそよぎ、情緒ある街並みです。そこから徒歩で町中をしばらく歩くと、石垣と櫓が見えてきます。

臼杵城跡

 元々は阿蘇溶岩擬灰岩で出来た臼杵七島の一つ、丹生島という小さな島でした。そこへ当時の領主であった大友宗麟公が、弘治二年(1556)に海城を築城、丹生島城と呼ばれていました。その頃、大友氏は九州北部の地と海外貿易の権益を巡って中国地方の周防を拠点とする大内氏と争っていましたが、毛利氏に大内氏が滅ぼされ、今度は毛利氏との戦いになります。

毛利氏との門司城決戦で大敗すると、その後の追撃に備えるために急遽築城に取り掛かりました。水軍による物資の補給路として、また南蛮貿易の拠点としても機能するように海城になったようです。(写真:門司城)

お城の入口も綺麗に整備されていますが、断崖に築城したため現在でも度々崩落する危険な箇所もあるためバリケードで仕切られています。築城当時は、橋を架けて陸地と繋がっていました。

お堀には住人の鴨たちの為に人工の巣が作られており、道ゆく人を和ませてくれます。

入り口から上へ進むと、復元された「大門櫓」が建っています。最初は関ヶ原の合戦後に城主となった稲葉貞通公の時に建てられました。その後、大火で焼失したのち宝暦十三年(1763)に再建されましたが、明治初期の廃城時に取り壊されてしまいました。

縄張りは家臣である角隈石宗と浪人中だった明智光秀公が担当。現存する二重櫓二基と石垣や空堀が当時の様子を伝えています。臼杵城は宗麟公の隠居のお城で、嫡男で当主の大友義統公は府内城にいましたが、実権は宗麟公がもっており豊後・筑前・肥後を支配していた繁栄期は、海外との貿易港としても使用され東九州の政治、経済、文化の中心地でした。

 しかし、天正六年(1578)日向(宮崎県)で起きた耳川の合戦で島津氏に大敗したあとは戦意を失い急速に弱体化していきます。天正十四年には、豊後へ北上してきた島津勢2000の兵が臼杵城へ押し寄せ「丹生島城の戦い」になります。その時に城内で使用された大砲のレプリカが一基展示されています。

「佛狼機砲(ふらんきほう)」天正四年(1576)ポルトガル副主より大友宗麟公へ送られました。これは日本人がはじめて手に入れた大砲といわれています。宗麟公は、その大砲を「国崩(くにくずし)」と名付けて、それを元に量産し臼杵城へ備え付けていました。原型は16世紀に大友氏が所有したのち薩摩藩主島津氏の手に渡り明治維新後に靖国神社に奉納されたと伝えられています。」この大砲の砲撃もあり島津兵を退けました。

 大砲の横には宗麟公のレリーフがあります。キリシタン大名として知られ、南蛮貿易で得た近代武器・富を増やしました。引き換えにキリスト教を保護するだけでく、自身も洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り、キリスト教の理想国家を日向につくる計画まで立てていました。そのため身内から家臣までが分裂する騒動に発展します。

こちらは天守台跡です。大友氏は島津氏との耳川の戦いに敗れ、豊臣秀吉公へ助けを求め大坂城へ出向き従属することを条件に九州征伐が秀吉公によって始まります。戸次川の戦いで秀吉軍に敗れた島津勢はのちに降伏、大友氏はなんとか滅亡を免れますが豊後国一国だけに領地を減らされました。

 臼杵城へは福原直高が入城、慶長元年(1596)には太田一吉に代わり守りますが、関ヶ原の戦いで西軍側だったため降伏し開城。江戸幕府が開かれると美濃から来た稲葉貞通公が臼杵藩五万石初代藩主となり、お城と城下町を整備し明治維新を迎えました。

宗麟夫人が眠る女人の寺 大橋寺

 臼杵城から北へ向かう橋の手前に「浄土宗西山禅林寺派 大橋寺」があります。近代化された町の中にある古いお寺。当時の雰囲気が漂います。臼杵八ヶ所霊場の第六番札所です。

天文十七年(1548)南都(奈良)の東大寺子院の僧であった祐範上人が、当地にて創建とあります。こちらには宗麟夫人お墓があリます。そこには悲しい物語があります。

 宗麟公の夫人は奈多八幡宮の娘で神仏への信心が篤く、領民たちも熱心に信仰していました。しかし、城下に教会をいくつも建てるほどキリスト教に傾倒していた宗麟公は、次男の親家を洗礼させるばかりか娘婿となる夫人の縁者親虎まで受礼させようとしました。それに激怒した夫人は、キリスト教の禁止と宣教師の追放を訴えましたが宗麟公は耳を貸しません。

やむなく大橋寺の祐範上人に帰依、堂宇(殿堂)を寄進し、当時小島にあった寺に参拝できる様に大きな橋を架けました。これが寺の名になりました。結局、対立する二人は離婚となりました。が、その直後、宗麟公と夫人の姉が再婚し二人で洗礼を受けました。その事を知った夫人はショックのあまり半狂乱状態になり、自ら命を絶とうとしましたが一命をなんとかとりとめました。

それ以降も家中は乱れ、同年耳川の戦いに敗れた事をきっかけに大友氏は宗麟公の子の代でついには没落しました。九州征伐時に数々の惨状(宣教師やキリシタンたちによる仏教徒への弾圧、神社仏閣・お墓の破壊など)を目にした豊臣秀吉公により天正十五年(1587)伴天連追放令が発令され、その後の鎖国へと繋がって行きました。

宣教師は追放され、教会施設も無くなり平穏が戻って約四百年。大橋寺の一画で夫人は静かに眠っておられます。

周辺の施設

臼杵市歴史資料館

臼杵城から北へ少し歩き大橋寺の横の橋を渡ると歴史資料館があります。建物自体は小さいですが、臼杵市の歴史資料が展示されています。火曜日が定休日で9:00〜17:30(入館は17:00まで)

バス停もあり、定期的に循環バスが回っているようです。臼杵城も含めてこのバスに乗れば安心してかと思います。

臼杵市観光案内所

臼杵城のそばにある観光案内所があり休憩や観光計画が立てられます、レンタサイクルもあり電動で1日300円とあります。

その他に、こちらでは臼杵城の御城印が販売されているほか、お土産品やピアノも設置されています。

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