JR東日本鶴岡駅

庄内地方南部に位置する山形県第二の都市鶴岡市。その中心部にあるJR東日本旅客鉄道羽越本線の駅「鶴岡駅」。洋風の綺麗な駅舎です。中には観光案内所・コンビニ・大きな待合室もあり、しばし旅行のプランを考えるには最適です。
鶴岡駅から少し離れた藤島地区に「藤島城跡」があります。福井県にも同じ名の城がありますが、こちらは東北にあるお城です。

藤島川をまたいだ先の藤島城跡までは、マップで見ると近そうですが、距離が結構ありますので鶴岡駅の一つ先にある「JR藤島駅」の方が近いです。

お城の道路沿いには駐車スペースがあり、車が停められます。駐車スペースから歩くと古城跡の周りには水堀が見えてきます。と言っても小さな古城跡ですので、見学に時間はかかりません。
出羽藤島城址

入り口には赤い鳥居が建っています。「成立年代は不明であるが、和銅年間(708〜715)平形に国府が置かれた頃の国府の府跡と言われ、出羽の守りや鎮守府将軍の居城であった。葉宝光顕、同光久、久我具通、堀川具信、木戸玄齋、土佐林道俊、新開因幡守等が有名な城主である。

平城ではあるが藤島川を外堀とし、向楯、古都楯、柳久瀬楯、平形楯、勝楽寺楯寺の前衛基地を設け完璧なまでに堅牢な城であった。一三五一年、北畠顕信が守永親王を奉じて旗上げをした歴史的有名な城でもある。以来二十有余年間、東北の南朝の拠点として守られてきた。
伊勢国の忠臣 北畠顕信公
北畠氏は村上天皇を祖とし、具平親王、源師房の流れを汲む御家人で、鎌倉時代に北畠氏と名乗るようになりました。北畠親房公の長男顕家公は、元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡させた功により陸奥国司(治安維持)に任ぜられ、義良親王を奉じて陸奥(東北)に下向し鎮守府将軍になりました。

翌年、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、それに異を唱える足利尊氏らが反旗を翻しました。北畠親房公は子の顕信公、顕能公、顕雄公を伴い伊勢国に下向し、陸奥の顕家公は義良親王を奉じ足利氏討伐のため、結城宗広以下の奥州軍を率いて西上しました。写真:足利尊氏公像(栃木県足利市)

延元元年/建武元年(1336)奥州軍は新田義貞公と共に京都六波羅探題を攻め落とし、足利尊氏軍は追い出され丹波国へ逃れました。この勝利の功で忠臣北畠氏と結城氏の地位は確固たるものになり、同行し活躍した結城宗広の子親光公は後醍醐天皇の忠臣「三木一草」の一人として讃えられました。写真:六波羅探題跡(京都)

一方、足利尊氏は鎮西に落ち延びる途中、後醍醐天皇と対立する光源院(初代北朝光源天皇)より院宣を賜り後ろ盾を得たあと九州多々良浜の合戦に勝利したことをきっかけに盛り返し、大軍を率いて東上。湊川の戦いで楠木正成公を討死させ、怒涛の勢いで京を奪還。写真:多々良浜古戦場跡(福岡市)

尊氏らを支持する京の光明天皇(武家)と奈良へ逃れた後醍醐天皇(宮方)と御家人が、二つに別れてぶつかり合う「南北朝時代」が始まりました。そこで北畠氏は守勢の宮方側で苦難の戦いを繰り広げました。しかし、延元三年/建武三年(1338)五月、北朝高師直との戦い(和泉国岩津)で兄の顕家公がを失います。写真:吉野南朝皇居跡(奈良)

七月に顕信公は陸奥国司に任ぜられ再び赴任。翌年後醍醐天皇が崩御(義良親王が即位し後村上天皇に)。盛り返すため各地の南朝勢と共に転戦、庄内では北朝側の武藤氏(大宝寺氏)や安保氏との間で争いました。天授六年/康暦(1380)大和國宇陀郡で北畠顕信公は没し、次男の守親公が父の跡を継ぎ奥州国司となり、代々浪岡の御所(青森)を居としました。元中九年/明徳三年(1392)南北の両朝が合一。
戦国時代

一五九〇年(天正十八年)太閤検地の折、一揆を起こし籠城、上杉景勝の宿老直江兼続も落とし得なかった。一六一五年(元和元年)一国一城令により廃城となる。」

「戦国時代の庄内を元亀二年(1571)大山の尾浦城主武藤義氏(むとうよしうじ)が藤島城主土佐林禅棟(とさばやしぜんとう)を滅ぼし支配し、義氏の弟の武藤義興が藤島城主となる。武藤氏は大宝寺氏とも呼ばれています。

天正十一年(1583)越後の上杉謙信と養子の景勝の親子と連携する義氏は、家臣の前森蔵人と東福寺右馬頭(うまのかみ)の兄弟に滅ぼされ、藤島城主義興(よしあき)が尾浦城主となる。(前年の天正十年京都で明智光秀が織田信長を滅ぼす)。写真/上杉景勝と直江兼続像(米沢城跡)

天正十五年(1587)義興は、家臣の東福寺越前守(前森蔵人を改名)と右馬頭に滅ぼされるが、この二度の下克上の背後には最上義光がいた。写真/最上義光公像(山形城跡)

天正十六年(1588)上杉景勝と直江兼続の支援を受ける越後の村上城主本庄繁長と武藤義勝の親子は、越前守と右馬頭を大山の千安京田の十五ケ原で滅ぼし、上杉の支配となり藤島城主小国彦次郎・栗田永寿・木戸元斎と代わる。慶長六年(1601)最上義光は前年の関ヶ原の戦いを経て庄内を支配し藤島城主は新関因幡守となる。」
江戸時代 慶長八年〜慶応四年(1603〜1868)
山形藩57万石を最上義光公が受け持つと、家臣の新開因幡守久正に命じ荒廃した城下の復興に取り掛かり、赤川から藤島領内の農地に引く用水溝開削や開墾事業などが行われました。かなりの難工事で反対の声も上がりましたが、未来の領民のために義光公と久正は力を注ぎました。

しかし、突如起こった藩主最上氏の最上騒動(後継者争い)で、元和八年(1622)改易となってしまい事業は中断。藤島城は廃城となります。

その後、山形藩は分割され立藩した鶴岡藩(庄内藩)13万8000石へ信濃松代藩から徳川四天王の一人酒井忠次公の孫酒井忠勝公が入部。

中断されていた治水事業も継続を望む領民たちの熱い熱意で復活し、宝永三年(1706)ついに堰が完成。その堰には尽力した新関因幡守にちなみ「因幡堰」と名付けられ、現在でも「因幡守土地改良地区」として先人たちの苦労の結晶の跡が遺されています。
最寄りの駅 JR藤島駅

藤島地域にあるJR藤島駅。木を使った宮社を思わせるデザインの駅舎です。駅員さんは見かけませんでした無人だと思われます。藤島城跡の最寄りの駅になります。