【滋賀県】信長が築いた日本初の天主建築/八幡市 安土城跡

 日本の城郭建築に最も影響を与えたと言われる「安土城」。戦国時代を代表する武将織田信長が、天正四年(1576)に築城した城でしたが、その後の焼失によりお城自体はもうありません。しかし石垣や基礎などが遺っています。

JR西日本 安土駅

白が基調の三角形と赤い六角形の建物が組みあわされた駅舎で壁面には安土城の絵が飾られています。一階には観光案内所があり、ロータリーには銅像が配置されています。

もちろん銅像は「織田信長公像」です。左手で刀を持ち、右手には扇子を掲げている姿で訪れる人を出迎えています。

関西地方、特に琵琶湖周辺に現れる「飛び出し坊や どび太くん」もやはり笑。

駅の斜め向かいには「レンタサイクル」のお店もありましたので、利用してみました。

安土城は安土山という標高189mの比較的小山にあるので、山道を自転車を漕いで登ることなく、下の駐車場に停めて石段を登ります。

「安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正四年(1570)に始まります。築城には、機内、東海、北陸から多くの人夫が徴発され、当時最高の技術を持った職人たちが動員されました。まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。」

下の受付である「安土城摠見寺」の受付で入城料を払い中へ入ります。

かなりの急坂ですが、横に並べ積み上げた石垣に歴史を感じます。綺麗にお手入れされており登りやすかったです。

本丸へ向かう途中には、家臣たちの屋敷跡が遺っています。こちらは「伝前田利家邸跡」

守りを固めるために、石垣の上に多聞櫓もあった様です。天文7年(1538)尾張国荒子城主・前田利春の次男として生まれた前田利家公は「槍の名手」と知られてます。「姉川の戦い」や「桶狭間の合戦」「長篠の合戦」など数々の合戦での功績により越前・能登を与えられ大名へ仲間入りできました。

その向かい側にある「伝羽柴秀吉邸跡」。こちらも並んでいる石垣の上の方に屋敷があった様です。秀吉公は利家公とは違い足軽の子でしたが、今川氏に仕えた後に織田信長公の小者として戦以外の事業を積極的に受け持ち、やがて清洲城の普譜などで活躍し出世していきました。

こちらは織田信長公の子で岐阜城主になった織田信忠の屋敷跡です。天正三年(1575)武田騎馬軍団と戦った甲州征伐は有名。本能寺の変の後、京都の二条新御所で自刃しました。嫡男の「三法師」は、安土城焼失後に安土城主として仮屋敷に入りました。

脚ガクガクになりますが、本丸跡にたどり着きました。野面積みの石垣が並んでいます。

天守台はこの様に多くの基石が規則正しく並んでいます。それほど大きくなく「こんなに狭いのか」と思いながら近くにある解説を見ると

「地上6階、地下1階の当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。これ以降、全国で建てられる高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。皆様が立っておられる場所は地下1階の部分ですが、天守台の広さはこれよりはるかに大きく二倍半近くありました。」

天正四年(1576)安土山の築城工事に取り掛かり、四月には石垣の築造に着手、天主ができたのは天正七年五月。その美しさは宣教師たちによってヨーロッパにも紹介されました。(入口付近の城なび館にあるポスター)

本能寺の変後に焼失

天正十年(1582)、京都の本能寺で信長公が明智軍に討たれる「本能寺の変」が起こりました。当時、安土城を守っていた織田信雄は、明智軍の来襲に備えて城下町に火を放ちましたが、その火が安土城に延焼し天主・屋敷が灰になってしまいました。(京都:本能寺址)

「安土城城下町」屏風画です。賑わいのある城下には宣教師ために教会や聖堂なども建てられたと言います。天正十二年、小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となりました。(安土城廓資料館)

その後、江戸時代を通じて信長が城内に建てた摠見寺が、その菩提を弔いながら現在に至るまで城跡を守り続けていくことになりました。(城内摠見寺跡)

本丸からの眺めからは綺麗な琵琶湖が一望でます。戦国武将たちと同じ眺めを味わえます。

入口で入城料を払った「摠見寺」は授与所であり、記念の「登城証」「御朱印」などもあります。帰りにいただきました。

周辺の立ち寄りスポット

城なび館

こちらは、お城入口のそばにある「城なび館」で、お土産品などが販売されています。

建物は小さいですが、館内には安土城の模型の他、安土城のPVなども見学できます。休憩場所にぴったりです。

信長の館

こちらは、少し離れた場所にある「信長の館」です。建物が六角形ですが、中には復元された安土城の上部が展示されています。※撮影やSNSでの投稿は禁止されています。

滋賀県立考古博物館

信長の館の隣にある「滋賀県立安土城考古博物館」。こちらにも安土地域のジオラマもあります。企画展などもあり図録も販売されています。

レストランもあり、これは「戦国合戦カレー姉川の戦い」になります。とてもスパイシーで美味しかったです。

新宮大社

JR安土駅から安土城の間にある神社で、信長公と相撲に因んだものが奉納されています。

お相撲好きと知られる信長公は、元亀から天正時代にかけて安土城などで各地から集まった力自慢の力士たちを集めて相撲大会を開き、勝ち抜いた者を家臣にしました。その相撲は竹を取り合う「竹相撲」。ルールなどは史料がなく分かりませんが、その様子を伝えるため絵図が平成27年に描かれ奉納されました。

安土城廓資料館

JR安土駅のすぐ裏側にある「安土城廓資料館」。こちらにも安土城の史料展示があります。

こちらには近江の戦国武将の武将印が販売されています。裏の駐車場には相撲の像と解説板があります。

「元亀元年(1570)三月三日、織田信長は近江國の中から相撲取りを集め、常楽寺で相撲を取らせました。多くの相撲取りが集まり、成績の良かった鯰江又一郎、青地与右衛門に太刀・脇差を与え家臣として取り立てました。安土城築城後は安土山を会場として毎年の様に相撲を行っています。

相撲は元来、神事でしたが、奈良時代以降「相撲節会(すまいのせちえ)」として宮中の年中行事となりました。また鎌倉時代以降、武芸の鍛錬として武士の間にも広く定着していきました。そうした相撲のあり方を相撲興業の様な形に変化させたのが織田信長なのです。ここ常楽寺で織田信長により行われた相撲は、大相撲のルーツと言えるでしょう。」

武士の間での相撲

なぜ武士の間で流行したのか?それはその時代の合戦スタイルに関係があります。当時騎馬同士が対決する戦では、馬同士をわざとぶつけ飛び移り落馬させ討ち取る方法がよく取られていました。接近戦で優位に立つ格闘術が求められたのです。