【山梨県】武田信玄公の郷/甲府市 武田氏館跡・甲府城跡

戦国時代に割拠した武将の中で、絶大な知名度と人気を誇る『武田信玄』。上杉謙信公との川中島の戦いや家康公との上田ケ原の戦いは有名です。昨年、上越市で行われた謙信公祭りを見学しましたので、今回は信玄公祭りを見に山梨へ向かいました。

山梨県】武田氏の発祥地と終焉の地こちら

JR東日本 甲府駅

JR東日本・JR東海の駅「甲府駅」。駅名の筆文字がいい感じです。夜になると白く光るんです。その駅表示より大きく「セレオ」という看板。駅は、この大きな商業施設の駅ビル内にあるのですが、この日は大勢の人でごった返していました。

年に一度の「信玄公祭りの日」ですから当然ですね。当駅へ向かう途中も甲冑武者姿の人達が沢山乗車され、車内は不思議な光景でした。県内各地から駆けつけた武田軍将士たちは、改札を通り駅外へ出て、駅前は戦国時代一色に染まりました。

甲府駅横にある名物『武田信玄公』像の前は、軍旗と甲冑武者で埋め尽くされました。六文銭のノボリといえば真田軍ですね。武田二十四将の一人である真田幸隆公の一団のようです。

とても気合が入った武者たちと思い思いに記念撮影タイム。その間も各地から続々と武者たちが集結してきました。これからいろんな会場でイベントが行われるようです。

時間があるので甲府市内の信玄公ゆかりの地を巡ります。

武田神社 (武田氏館跡 躑躅ヶ崎館跡)

まず甲府駅北口からバスで来れる武田神社元々この地には永正十六年(1519)に武田信虎が築いた武田氏館がありました。武田氏館は「躑躅ヶ崎館(つつじがさき)」とも呼ばれ、石和からこの地に館を移しました。その後、信玄、勝頼と武田家当主の館として使われ、

武田家の滅びた後、文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年に渡りこの館一帯は、領国の政治・経済と文化の中心地として発展しました。館は、一辺が約200mの正方形の主郭(現武田神社)を中心に、そのまわりのいくつかの副郭とによって平城形式のものです。

館の周りには家臣の屋敷が建てられ、南方一帯には格子状に整備された道路に沿って城下町が開けていました。この館と城下町は、戦国時代の大名の本拠として第一級の規模と質を誇るものです。

武田神社

館跡地に大正八年(1919)に創建された『武田神社』。もちろん御祭神は『武田信玄公』です。やはりその知名度と人気で多くの参拝客で賑わってます。

手水舎は武田家の家紋である武田菱になっています。

もちろん御朱印や御城印もあります。オリジナル御朱印帳もありますので、ファンの方は予算を少し多めにご準備を。

訪れた令和四年は『信玄公ご生誕五百年』の年だったので印が入っていました。

勝守りも武田信玄公の兜と軍配です。かっこいいです。

信玄ミュージアム

武田神社の斜め向かい側にある『信玄ミュージアム』。その名の通り武田氏の歴史を展示物で分かりやすく解説してくれる資料館です。

営業時間:9時〜17時まで。入館料:一般300円(高校生以下は無料)。休館日:火曜日

躑躅ヶ崎館の事も解説ありますので、ここもチェックしたいですね。武田信玄公の生涯を簡単ですが学びましょう

永正十八年(1521)要害城で誕生。幼名太郎。天文五年に(1536)元服し晴信と名乗る。同年三条夫人と結婚。天文一〇年(1541)父信虎公を駿河に追放。天文十一年(1542)諏訪攻略を本格化させる。諏訪頼重が自刃。天文一六年(1547)甲州法度之次第を制定

天文一七年(1548)村上義清と上田原で戦い敗北。小笠原長時と信濃の塩尻峠で戦い勝利。天文一九年(1550)信濃に出陣し、村上義清と砥石城で戦い敗北。天文二一年(1552)長男義信と今川義元の娘が結婚。

永禄元年(1558)将軍足利義輝より信濃國守護に任命される。永禄二年(1559)出家して信玄を名乗る。永禄四年(1561)第四回川中島の戦い。弟の信繁が戦死。

永禄十一年(1568)駿河侵攻を開始する。元亀二年(1572)10月に甲府を出発し、三方ケ原で徳川家康に勝利。天正元年(1573)甲斐に帰国の途中駒場(長野県)で53歳で死去。写真:三方原古戦場(浜松市)

ご当地信玄グルメ

武田神社の隣では、武田信玄公に因んだフードが色々販売されています。看板の桔梗信玄餅は有名ですね。

きな粉とお餅が入った白い容器の上に黒蜜が乗っていて、それを風呂敷のように透明のビニールが包んでいます。食べ方が少し変わっていて、透明ビニールをほどき下に敷いた上に容器のきな粉とお餅を落とした後、ビニールを袋のように包み、黒蜜・黄な粉・お餅を混ぜこぜにして食べます。

信玄アイスぶどうソフトクリーム

かぶとやさんの『信玄アイス』。信玄餅のように黄な粉と黒蜜でアレンジされています。山梨県はブドウ・ワイナリーで有名ですのでぶどうソフトクリーム。甘酸っぱくて美味しいですよ。

信玄うどん・そば桔梗信玄餅アイス

その他信玄ミュージアムのお隣にはカフェや蕎麦家さん。お土産品も販売されています。折角来たので何か頼んでみましょう。

メニューに載っていた「信玄肉玉そば770円」を注文しました。お分かりのように具沢山です。これ一杯でかなりお腹が満腹になります。

山梨名物である桔梗信玄餅がカップアイスに変身。きな粉がアイスの上に乗っていて、中に黒蜜が入っていました。数え切れないほどアレンジされている信玄餅に脱帽です。

甲冑たちに守ってくれてますので、安心して食べられました。(仕切り板はコロナウィルスの影響があったためです。)

信玄公の墓所

信玄公墓は、意外にも住宅街の中のひっそりと佇んでいます。「天正元年(1573)四月十二日、信州伊那駒場で五十三歳を一期として波乱の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し、三年間の秘喪を命じた。

嫡子勝頼公は、これに従い信玄公の遺骸を密かにして三年後二十四将の一人、土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し天正四年四月十六日塩山恵林寺において葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は土屋氏の邸跡で後世これを魔緑塚と呼び、里人は恐れて近づかなかったという。

それからおよそ二百年後の江戸時代安永八年(1779)甲府代官、中居清太夫が発掘して石棺を見つけ、その名に「法性院機山信玄大居士 天正元年癸四月十二日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた」とあります。信玄公のお墓・供養塔は、各地にありますが、こちらで火葬されたようです。

林泉寺

甲州市にある恵林寺は、元徳二年(1330)禅僧の夢窓国師によって開山。その後永禄七年(1564)に武田信玄公が菩提寺に定めたお寺です。

拝観料は500円で、午前八時半〜午後四時半まで。信玄公墓所がありますが、月命日の十二日のみ公開しているそうです。ですのでお墓は見られませんでした。柳沢吉保公は、江戸幕府五代将軍徳川綱吉の側近の方です。

境内には食事処もあります。山梨名物の「ほうとう」も食べられます。但し、なるべく早めに食べないと売り切れます。(15時には完売します。)

甲府城

現在は舞鶴城公園として整備されています。『甲府城』は、天正十年(1582)の武田家の滅亡後、豊臣秀吉政権下で建築を始められ、豊臣秀勝、加藤光泰を経て、慶長五年(1600)頃に浅野長政(五奉行)により完成したと考えられています。

発掘調査では金箔瓦や浅野家の家紋瓦などが発見されています。関ヶ原の戦い後は、徳川義直(家康の九男)、忠長(二代将軍秀忠の三男)、綱重(三代将軍家光の三男)、綱豊(後の六代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり、この時期に甲府城下町も大きく発展しました。

柳沢氏が大和郡山(奈良県)へ移封された後は甲府勤番制となり、再び幕府の直轄地となりました。明治維新後は廃城となり、建物が取り壊される一方、勧業試験場及び葡萄酒醸造所などが設置され、また城域北部では中央線敷設による解体など甲府城は本来の姿を変えていきました。

昭和三十九年に都市公園「舞鶴城公園」、平成三十一年には国の指定史跡『甲府城跡』となりました。

こちらは甲府駅の裏側北口になりますが、かつては甲府城の一部でしたので名残りが見られます。

野面積みで綺麗な状態甲府城の石垣の一部が展示されています。

武田信虎公之像もあります。信虎公は甲斐国の守護職をつとめる武田家の十七代当主の武田信縄(のぶつな)公の嫡男として生まれ初名は、信直(のぶなお)。永正四年(1507)信縄の死により十四歳で家督を継ぎ、乱国となっていた甲斐国を統一して戦国大名へと成長しました。

永正十六年(1519)十二月二十日、川田から躑躅ヶ崎の地に館を築いて移り住み、同時に館の周囲には家臣や商職人らの移住を図り、寺社も多く配置し、甲斐国の新たな府中である「甲府」を開いた。天文十年(1541)に娘婿であった今川義元のもとを訪れた際、晴信(信玄)によって帰路を絶たれ、駿河国に留まり隠居、まもなく出家し無人斎道有と名乗った。

義元の死後上洛し、将軍家に奉公した。天正二年(1574)息子信廉が在城した信濃国高遠城へ身を寄せ、八十一歳で死去した。葬儀は、甲府市古府中町の大泉寺で行われた。後継者となった信玄・勝頼が戦国大名として飛躍できたのは、甲斐国を一つにまとめ、甲府を開いて勢力基盤を整備した信虎の功績に寄るところが大きい。」

JR甲府駅南口にある甲府市観光案内所には「御城印」「武将印」もあります。

信玄公祭り[出陣式

夜になると甲府駅前にて信玄公祭りの出陣式が始まりました。武田一門、馬に乗った武田二十四将の武者たちが次々と登場し、勇ましく大通りへと練り歩きました。

「甲州軍団!いざ!出陣じゃー!えいえいおー!」「えいえいおー!」

こちらは、武田信繁公の行進です。武田信繁公は信玄公の弟で第四次川中島の合戦において討死されました。今宵だけ現世に蘇って観衆に見守られながら進軍されました。

信玄公像もその光景を誇らしげに眺められておられるようです。「山梨の人は皆、信玄公が大好きなんです。」とお寺の住職様がおっしゃられてましたが、確かにそう感じます。

出陣式後、武田軍は中心街を練り歩きました。帰陣式が甲府城跡(舞鶴城公園)でありますので、夜ですが大勢の人が詰め掛けました。

綺麗な大手門と石垣のライトアップがとても美しくて素晴らしい眺めです。なかなか夜間にお城は入れないので貴重な経験です。

柵で仕切られた展望台のような場所があり、甲府盆地に広がる夜景を眺められます。夜風になびく武田菱の家紋と『風林火山』の旗がクッキリ浮かび上がっています。

信玄公祭り[帰陣式]

城内に特設ステージが設けられ『帰陣式』が執り行われました。武田二十四将に扮した武者の中央に武田信玄公役の方が思いを述べられ、最後に勝鬨をあげて終了となりました。

規模の大きさでギネスブックに載るほどの武者行列を堪能できました。皆様お疲れ様でした。

沢山の戦利品をいただきました。

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