武人伝③尾張の麒麟児/柳生連也斎

皆さんご存知の「柳生新陰流」。戦国・江戸時代にかけて剣術で一時代を築き、「最強柳生」を世に轟かせた剣術の流派。柳生石舟斎、その子但馬守宗矩、十兵衛三厳。信州の上泉信綱公のもとで修行した柳生石舟斎が創始した剣術で、子の柳生宗矩公は、将軍徳川家の兵法指南役として活躍したのはご存知の通り。では、その柳生新陰流に二つの派があったのはご存知でしょうか。

一つは「江戸柳生」、そしてもう一つは「尾張柳生」です。

江戸柳生の誕生

 江戸時代のある日、時の将軍徳川家康公の耳へ、大和國柳生庄の土豪である柳生石舟斎の噂が入ってきました。武芸者を探していた家康公は、さっそく伏見の屋敷に招いて石舟斎の指導を受けました。柳生新陰流の数々の剣技や「無刀取り」を目にし、とても感心した家康公は

徳川家康公

是非、貴殿にわが徳川家の兵法指南役になっていただきたい!

と懇願しました。それを受けた柳生石舟斎は

柳生石舟斎

それがしは老齢ゆえ、我が子宗矩ではいかがでしょうか。

こうして、推挙された五男の柳生但馬守宗矩が徳川家の兵法指南役に抜擢されました。宗矩は剣術に関しては超一流とは言えませんでしたが、政治力に長けた才があり家康公、秀忠公、家光公と三代にわたり徳川家に仕え出世し12500石の大目付となり大和国柳生藩初代藩主にもなりました。

その宗矩には、長男の「十兵衛三厳」次男の「刑部友矩」という双璧の天才剣士がいましたが、若くして亡くなってしまい、三男の「柳生飛騨守宗冬」は、病弱で凡庸でしたが、江戸柳生の跡を継ぐことになりました。※写真は柳生但馬守宗矩の木造:芳徳寺(奈良)

尾張柳生の誕生

 柳生石舟斎の長男「新次郎」は、若くして鉄砲の弾を受けたことにより歩行が不自由な身でしたので、子の柳生兵庫助利厳が跡を継ぎました。石舟斎は孫である兵庫助を可愛がりながらも、柳生の里で徹底的に新陰流の剣術を教え込みました。もともと天賦の才のあった兵庫助は、みるみる上達し石舟斎と瓜二つに見えるほどの剣豪に育ちました。

そんな兵庫助に転機が訪れます。武芸が盛んな九州の熊本藩加藤家より誘い受け、仕官する事になりました。兵庫助が二十三の時。しかし、何が原因はわかりませんが家老を斬ってしまい熊本藩を出奔してしまいました。出奔(しゅっぽん)とは失踪、逃亡する事です。兵庫助はその後、流浪しながら全国をまわりました。

やがて辿りついた尾張徳川家で兵法指南役に抜擢されました。それが尾張柳生の始まりです。そんな兵庫助には三人の息子がいました。長男の「清厳」は病弱な身を恥じて死に場所を探し島原の乱で討ち死にしてしまったので、次男の「茂左衛門利方」が500石の家督を継ぎ、三男の「兵助厳包(としかね)」が尾張藩兵法指南役を継ぐことになりました。この兵助厳包が後の「尾張の麒麟児 柳生連也斎(れんやさい)」です。

尾張の麒麟児 柳生連也斎

連也斎は「柳生石舟斎の再来」と言われるほど剣の天才でした。その一方で修行の邪魔になるからと女人を決して近付けず生涯独身でした。剣聖宮本武蔵さんもそうでしたが、それは徹底していて女が炊いた飯や女が縫った衣服も着るのを嫌い、決して身につけませんでした。その分、剣術一筋に打ち込み、やがて歴代最強と称えられるまでの剣豪に成長しました。

江戸柳生vs尾張柳生

 さて、二つの流派に分かれた柳生新陰流ですが、もし対決したらどっちが勝つのか?みんなが夢見ることですが、実は過去一回だけ対決したことがありました。その対決は慶安四年(1651)四月六日、場所は江戸城、三代将軍徳川家光公の御前でした。※写真:江戸城

四月五日 仕合前日

徳川実紀など

四月五日、将軍家光、尾張藩柳生伊予(兵庫助)が二子茂左衛門、兵助(連也斎)を御在所に召して、撃剣の術を御覧ぜられ、二人へ時服一襲、銀十枚づつかづけらる

尾張柳生の利方と連也斎兄弟は、将軍家光公のもとに呼ばれ剣技を披露しました。燕飛、三字、九筒などの太刀を披露したあと秘技「小転(ころばし)」を披露しました。小転とは、小太刀を使った技で江戸柳生にはなく将軍家光公は、とても感心し翌日もご覧になりました。

四月六日 仕合当日

徳川実紀など

四月六日、将軍家光、けふも柳生左衛門、兵助二人を御座所に召して剣法をご覧あり

尾張柳生家の伝承によれば、将軍家光公が人払いの上、江戸柳生と尾張柳生の仕合を命じたのは、この二度目の上覧剣法のあとでした。

将軍家光公

わが江戸柳生との仕合が見たい

利方と連也斎兄弟はとても驚きましたが、上様の頼みを断わるわけにはいきません。兄弟で話し合い、腕が立つ連也斎が仕合にのぞむ事になりました。この時、連也斎29歳。一方の江戸柳生は、二人の兄を失くし失意の中で家督を継ぐが、持病の心臓病のため修行ができず歴代の中でも最も剣技が劣る宗冬。しかし江戸柳生の総帥として逃げるわけにはいきません。この時、宗冬39歳。

仕合のゆくえ

仕合は江戸城本丸御座所の大広間で行われました。両者は将軍家光公に一礼をして分かれ仕合場の中央に立ち、四間(約7.3m)離れた両者がくるりと向かい合い構えます。宗冬は、長さは三尺三寸の鍔あり木刀で中断の構え。連也斎の方は、長さ二尺の鍔が無い木刀で右手をだらりと下げ、切っ先は左斜め下に向けた「無形の位」。

「無形(むぎょう)の位」とは、柳生新陰流の技で、千変万化、あらゆる攻め受けにも対応できる構えの事です。その自然な動きに打ち込む隙を見出せない宗冬は中段に構えたまま、一歩も動くことができません。

連也斎は無形の位のまま、スーッと前の宗冬に近づきます。そして、お互いの間合いに入った時、ハッと我に返った宗冬が右手上段に木刀を振り上げ、連也斎の左首筋から右脇腹へ斜めに振り下ろしました。

その刹那に連也斎はスッと右足を引き紙一重で宗冬の袈裟斬りをかわし、次の瞬間、木刀を宗冬の右手拳へ打ち下ろしました。宗冬の拳は砕かれ、木刀が床に転がりました。

仕合は尾張柳生の勝利で終わりました。敗れた宗冬はうつむき、将軍家光公へ礼をして下がりました。連也斎も将軍に一礼すると、床に転がっていた宗冬の木刀の血を拭き取りました。

その後

その仕合から十四日後に将軍家光公は薨去しました。ごく内々の御前仕合だったので、連也斎と宗冬とその他数人の胸のうちにおさめられました。しかし、この仕合で連也斎が使用した木刀は、今でも尾張柳生家に保存されています。

かくして江戸柳生と尾張柳生との対決は、尾張柳生の勝利で終わりましたが、もし相手が超一流の柳生十兵衛や刑部友矩だったら勝負は・・・そういうロマンを感じさせてくれます。※写真は左から宗矩、十兵衛三厳、宗在の墓(奈良:芳徳寺)

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