【滋賀県】日本三大湖城/大津市膳所城

 中世の武士たちが天下取りを争った戦国時代、日本一大きな湖「琵琶湖」に接する大津市には4つの城が聳えていました。大津城・瀬戸城・坂本城・膳所城。そのうち唯一、明治維新まで存続できたのが膳所(ぜぜ)城。琵琶湖の湖面に浮いてるような外観から【琵琶の浮城】と呼ばれていました。

京阪電車膳所本町駅から歩いて20分ほどの地にある現在の「膳所城」。復元された立派な大手門があります。現在は公園として利用されています。もちろん無料で入れます。

琵琶湖の岸から少し飛び出る出島の様な形ですが、埋め立てられる前は湖面に石垣が積まれ、お城が建っていました。島根の松江城、長野の高島城と並び日本三大湖城と言われました。

「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年の慶長六年(1601)、東海道を制し、湖上の船運を抑える目的で現在の膳所城跡公園に膳所城を築城させました。築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方に付け替えたと言います。

はじめのお城は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが寛文二年(1662)の大地震でお城が大きな被害を受け、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西80間(1間約1.8m

現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は、最上層が3間四方、その下が4間四方、さらにその下が5×6間、最下層が7×8間だったそうです。」(写真は大津市科学館内にあるジオラマ)水中カメラや重機が無い中で、石垣を湖中へ落とし、基礎からよくここまで仕上げたのは見事としか。

膳所城の歴史

天正十年(1582)、織田信長公の命で明智光秀公が比叡山坂本に築いた坂本城でしたが、本能寺の変後、光秀公の腹心だった左馬助秀満によって落城(天守で自刃・城に火を放ち)します。

その代わりとして、天正十三年(1585)に豊臣秀吉公の命で浅野長政公が、湖南の交通の要所となる大津に湖面に浮かぶ浮城「大津城」を築城し軍事拠点としました。城主は増田氏〜新庄氏が入り、関ヶ原の合戦時には京極高次公の居城となりますが、大坂方の猛攻で落城してしまいました。

辛うじて大津城の天守焼失は免れましたが、彦根へ運ばれ彦根城の現存天守となりました。

関ヶ原の合戦後、徳川家康公は直ちに湖南の整備に取り掛かり、壊滅した大津城の地から少し離れた膳所を適地とし、新しく城下を策定。

自らの手で、はじめてとなる天下普請を行い、譜大名たちを担当制にしました。築城は藤堂高虎公が担当。広重の「東海道五十三次」にも描かれるほど見事な城下を完成させました。しかし、年々進む侵食と老朽化に対する修繕費が藩の財政を圧迫し続けました。

そのため、明治三年に藩主本多氏より廃城願いが政府へ出され、膳所城のは廃城解体となりました。理由は「水城のために痛みが激しく維持が困難だったため」という。建物も取り壊され石垣も崩され、周囲も埋め立てられて現在では本丸跡の石柱と歌碑が建っているのみとなりました。

城内の一角に小さなお堂があり、たくさんのお地蔵様が並んでいます。これは、織田信長公による比叡山焼き討ち時にお寺から引き摺り下ろした石地蔵たちで、坂本城、大津城、膳所城を築城する際に礎石として使われました。廃城後に発見されたようです。

本丸と二の丸の間にあった城門が近くの膳所神社に移築され現存しています。

 あとで知りましたが、琵琶湖の水位が雨不足で下がり湖底の石垣が姿を現していたとの事でした。城郭はもうありませんが、現在の湖面と橋とのコントラストが美しい景色が臨めるビューポイントではないでしょうか。

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