【熊本県】一国二城の城下町/八代市八代城跡

熊本県八代市松江城町にある「八代城跡」(別名白鷺城・松江城)。八代城と呼ばれる現在の城は三代目で、初代古麓城(山城のため廃城)、二代目麦島城(地震で倒壊)の次に築城された城です。穴太積みの石垣と濠に囲まれた城内には神社「八代宮」が御鎮座されています。

JR九州 八代駅

JR九州の八代駅はレトロ感あふれる雰囲気です。ここから人吉を通り鹿児島へ向かう肥薩線の起点なのですが、過去の水害被害のため現在使用されていません。

八代城へ向かうため路線バスを利用します。八代は、むかし海を渡って2000匹のカッパが上陸してきたという「カッパ伝説」にちなんだ可愛い循環バスが出ています。※写真には「160円均一」となっていますが、令和六年現在では「180円均一」に改定されています。

最寄りのバス停は「八代宮前」か「八代市役所前」で到着します。

一国一城令

慶長20年(元和元年)徳川幕府が全国の大名へ向けてに出された法令で、大名の住まいとなる居城以外の城は全て破却。存続した城も改修や修理を行う際に必ず幕府への届出が必要で、違反した場合は改易や領地没収など厳しい処分が科せられました。特に外様(豊臣恩顧の大名)が多い西国に対しては徹底的に厳しく行われました。

 肥後熊本藩には、藩主の居城「加藤清正の熊本城」が既にありましたので、八代城は廃城となる運命でしたが、特例として存続が認められました。その理由の一つには、徳川幕府が脅威と感じていた薩摩の島津氏やキリシタン・外敵に対する監視・備えの意味があったと思われます。

約400年前の当時の姿です。本丸には城主や城代などが居住した本丸御殿、左奥には大天守・小天守があったようですが、落雷により焼失してしまいました。明治時代の廃城令で櫓なども解体され、現在は石垣と堀が残っています。

野面積みの石垣とお堀が当時を偲ばせます。城内は無料で見学出来ます。

建武十五社 八代宮

本丸御殿があった場所には、「建武十五社 八代宮」が御鎮座されています。御祭神は懐良親王・良成親王。懐良親王とは南北朝時代に九州へ下向され、征西大将軍として南朝勢力を率いられた後醍醐天皇の皇子で、良成親王は後村上天皇の第六皇子です。

八代市には、ゆかりの御在所・菩提寺・御陵墓(宮内庁指定)があり、明治維新直後に征西大将軍をお祀りしたいとの官幣社創立熱が沸き起こり、明治天皇の思し召しにより明治十三年八月三日付、創立が許され旧八代城の社地に御鎮座されました。

御朱印もあります。

八代城の入口から南側へ伸びて向かう通りが八代宮の参道となっています。

二重の小天守と五重大天守が建っていた場所です。明治時代に本丸の除く二の丸、三の丸の石垣は取り壊され堀も埋められました。現在では、辛うじて一部の石垣と石碑がお城の周辺に点在しています。

平山城なので高さはありませんが、気軽に城内を散策できます。駐車場は、隣の市役所や図書館に停めるといいでしょう。桜の木も沢山ありますので春はお花見の人で賑わいます。

築城主 加藤正方 天正八年〜慶安元年(1580〜1648)

天正十六年(1588)加藤清正公が肥後熊本の上半国を任され、隈(熊)本に入ると、東の守りとして阿蘇内牧城代に家臣の片岡右馬允可重を起用しました。可重(よししげ)は、元々近江国の武士で加藤家とは繋がりはありませんが、この頃に加藤姓を賜り以後加藤可重と名乗ったとされています。写真:(上)阿蘇内牧城本丸跡(左)加藤清正公肖像画

その後、阿蘇内牧城代を三代にわたり(正方の代まで)治めていましたが、一国一城令にて内牧城は廃城となりました。徳川幕府が成立後、加藤家が肥後の下半分も受け持つと内牧城を失った正方公に八代麦島城が任され城代として着任しました。

しかし、元和五年(1619)の大地震で麦島城が倒壊、城下も被害が酷く復旧は困難に。加藤家は幕府に、すぐさま城の築城許可を出願し翌年特別に許可が下り、麦島城の石垣・部材を流用し工事に着手、元和八年(1622)ついに新しい八代城が完成させました。写真:麦島城跡

八代城下の復興にも力を入れましたが、寛永九年(1632)加藤家の改易により正方公は八代を離れ庄内丸岡城へ配された後、京都六条本国寺へお預けとなりました。主君を失い牢人という身分になりますが「片岡風庵」と名を称し西山宗因と共に連歌会を催したり、親交のあった武将らと交流しながら穏やかに過ごされたようです。(西山宗因は元家臣で、歌人として松尾芭蕉翁に影響を与えた人物)

寛永十四年(1637)、八代の隣の天草・島原で一揆「島原の乱」が起こった際は、とても心配されていた正方公の記録が残っています。正保元年(1644)八月十八日、徳川幕府から広島藩浅野家へのお預けが決まり、浅野家へ仕官する事になりました。写真:広島城(広島市)

墓所

広島県広島市中区東白島町の「日蓮宗 妙風寺」にお墓があります。最寄り駅は広島電鉄「白鳥駅」。少し離れますがJR駅では新白鳥駅。

正方公は六十九の時に病で倒れ、慶安元年(1648)九月二十三日に亡くなりました。広島藩主浅野光晟公は、正方公の養子・清九郎に五百石の知行を与え召し抱えました。その後清九郎の子孫は、幕末まで広島浅野家を支えました。

細川家時代

寛永九年(1632)加藤家の改易に伴い、細川忠利公が小倉から54万石の太守として肥後熊本藩に入りました。忠利公は加藤家の事業を引き継ぎ、肥後の各地を回りながら庭園などを再整備されたり、八代で剣聖宮本武蔵先生による剣術指南も行いました。写真:水前寺成趣園(熊本市)

八代城には忠利公の父細川三斎公が入りました。〝三斎〟という名は晩年の名、〝忠興〟と聞くとお分かりになる人が多いでしょう。没後の正保三年(1646)には重臣の松井輿長が八代城代となり以降、松井氏が代々城主として明治維新まで八代を守りました。写真:細川忠興・ガラシャ像(京都府長岡京市)

周辺の史跡スポット

松井神社

八代城跡のお堀と道路を挟んだ北側に御鎮座されている「松井神社」。御祭神は肥後細川家の筆頭家老である松井家初代松井康之公、二代輿長公。元々は加藤正方公の母である妙慶禅尼の隠居のために建てましたが、加藤家が改易になると、細川三斎(忠興)公の住まいとなり、後に松井家の館となりました。

松濱軒(松浜軒)

松井神社のすぐ近くにある国指定の名勝。八代城主三代松井直之公が延宝中(1670)黄檗宗慈福寺を建立したが、その後、寺を廃し梶畑になっていた所に、元禄元年(1688)の春、生母崇芳院のためにお茶屋を建て「松濱軒」と称しました、通称は「浜のお茶屋」。入館料500円

「しょうひんけん」と呼び、松波越しに八代海、宇土半島、さらに雲仙を望む雄大な眺望の庭園だったのが名の由来。商品券と混同してしまいます。

中には庭園には池があり、菖蒲や睡蓮などが栽培されており、絵画「モネの睡蓮」に似た光景が広がっています。

受付横にはミニ資料館があり、剣聖宮本武蔵先生が八代で剣術指南された際に「巌流島の決闘で使った木刀はどんなものなのか」と聞かれ、武蔵自身が削って作製した木刀の複製が展示されています。実物は松井家にて保存されています。

松井神社の御朱印はこちらで取り扱っています。松濱軒では、現在でも松井家の方がお暮らしになっておられます。

駐車場はすぐ側の図書館横にあります。八代城周辺には、周辺にありますので安心です。すぐ横の市役所にもあります。

同じ図書館には駐輪場もあります。左の道路の向かい側が松浜軒です。

織田信長追悼供養塔

二の丸の一部が中学校の一部になっているので、学校側の許可が無いと入れません。

八代市立博物館 未来の森ミュージアム

八代城の近くにある「八代市立博物館未来の森ミュージアム」。営業時間9:00〜17:00(最終入場16:30)。駐車場あり。日本百名城スタンプは博物館裏入り口にありますが、御城印は無いようです。

八代本町アーケード

お城の南側には八代本町アーケードという懐かしさ漂う商店街があります。

了覚山浄信寺

八代本町アーケードから路地に入ると、「了覚山浄信寺」の案内板が見えてきます。

「加藤可重菩提所の了覚山浄信寺」。近代的な街並みに佇む立派な山門。奥には霊園があります。

「浄信寺は、加藤清正・忠広に仕えた筆頭家老加藤正方が、慶長九年に没した父可重の菩提寺として創建した日蓮宗のお寺です。初めは可重が城代を務めた阿蘇内牧にありましたが、慶長十七年、正方が八代城代となると、麦島城(当時の八代城)近くに移転。

元和五年に麦島城が倒壊すると、正方は松江城(現在の八代城)建設に尽力し、元和八年(1622)完成させます。この時、浄信寺も現在地に移転して、京都本圀寺学頭近上人を開山年本圀寺十七世日桓大僧正により本堂内御本尊の開眼供養が行われました。

正方は寛永九年に主家改易により八代を離れますが、浄信寺は城下町の基礎を築いた正方ゆかりの寺院として法灯を保ち続け、現在に至っています。本寺には「加藤可重画像」、「加藤正方画像」「加藤正方の浄信寺寺領宛行状」「加藤正方筆臨終の言葉と辞世」など貴重な文化財が保存されています。」

没する前に書かれた辞世が彫ってあります。

病之床に伏 暮待ほどによハり果、折りから長月十三夜の 月山のはさしはなれ たるも、今ハのきわと身ニ しミておもひよりぬ、よしやあしや 正方

月もあはれこよひを 秋の名残哉 あつさ弓やつのくるしミ うけし世も引 離れてハもと末もなし 成仏之日延や又妙ここ 源太郎方へ(源太郎:正方公の遺臣)

Visited 1 times, 1 visit(s) today