佐賀県中東部を流れる一級河川である嘉瀬(かせ)川。上流には嘉瀬川ダムがあり、それを囲むように脊振(せふり)と呼ばれる山々が連なります。清らかな川が流れる先には温泉郷があり、大自然の風景も楽しめるドライブコース。
古来より唐津側と佐賀平野を結ぶこの山岳地帯の道は交通の要所として、軍事の面でも重要視されてきました。そのため山頂には監視する拠点としてかつて「三瀬城」というお城が築城され、そこにはとても勇敢で痛快なエピソードを持つお殿様がいました。
勇将 神代勝利公 永正八年〜永禄八年(1511〜1565)
その戦国武将の名は「神代勝利」(くましろ かつとし)。このお方です。
「神代」(くましろ)といえば、鎌倉時代に起きた元寇(文永の役)の際、博多へ向かう九州の武士団が、九州一の大河である筑後川を渡れず立ち往生してしまったときに舟を並べ浮橋をつくり無事に渡らせ、後に鎌倉幕府から礼状をもらったという高良大社の「神代良忠」宮司を過去にご紹介しました。
ご先祖は孝元天皇の御子孫の〝武の神〟武内宿禰。「神」にはそういう意味が込められた由緒ある名のようです。孫の良基公は南北朝時代、建武三年(1336)宮方の菊池武敏公と多々良浜の戦いで武功を上げ筑後国の川久保の地頭になりました。しかしながら、その子孫の宗元の頃には蒲池氏などの新勢力に圧され、筑後の神代村を追われてしまいます。写真:高良大社(福岡)
その旅の途中、佐賀郡千布村にて激しい雨で立ち往生。やむなく近くのお堂で雨宿りをしていたところ、偶然居合わせた陣内大和守利世という領主と出逢い親しくなります。宗元をいたく気に入った利世は、跡継ぎが欲しかった事もあり村に留るよう説得します。その甲斐あって宗元はこの地で暮らす事になり、やがて利世の娘と夫婦になり千布(城)の館にて神代大和守勝利公(幼名新次郎)が生まれました。織豊(安土桃山)時代の永正八年(1511)の事です。
堅固なお城ではなく、中世の館のようです。元々ここには高い土塁があったそうですが、長い年月と造成により無くなってしまったため、改めて復元し土塁が再現されていました。
筑後から移住してきた神代宗元と陣内大和守利世の娘との間に生まれた勝利公。15歳になった頃、千葉家の奧常之と共に剣術修行の旅に出ます。すると、天賦の才能をいきなり発揮、みるみるうちに剣の腕前が上達し、わずか二ヶ月で免許皆伝の剣豪に育ちました。その噂を聞きつけた周辺の村々から入門希望者が殺到し、弟子の数が500を超える剣の先生になりました。
勝利公は、その後も他流の剣も学び、享禄年間(1528-1531)山内・鬼ケ鼻南麓の梅渓庵にて剣術道場を開きました。それを知った周辺の豪族たちは次々と入門、三瀬領主の三瀬宗利公までもが弟子入りする有様。それほどまでに人気があった理由は、単に剣術の腕前だけでなく、勝利公の立ち振る舞いや仁愛の精神に心惹かれたからのようです。
そんな勝利公ですから、やがて三瀬宗利公から懇願され、周辺の豪族たちの会合により天文元年わずか22歳にして、ついに山内(さんないー神埼・三瀬・脊振など連なる山岳地帯)をまとめる総大将となりました。そして居城として改修した三瀬城の城主になるのでした。
三瀬城跡
佐賀平野から山岳方面へ向かい佐賀大和IC付近の国道263号線を上り、まずは嘉瀬川ダムを目指します。有料トンネルの手前に来ると右へ入る道と標識が現れます。三瀬城へ通じる道です。横目に三瀬トンネル手前の標識から右へ入ります。
看板のマップでは長く続く道路の先に神社があるようですが、三瀬城跡は結構手前にあり駐車場の案内板が見えてきます。筑前と肥前の間に位置する三瀬峠、〝三瀬〟という名は初瀬、高瀬、鳴瀬の合流地点だったのでそう呼ばれていました。(瀬=川底が高く水深が浅い場所)。
途中までの道の舗装も綺麗で、車が数台分の駐車場。「くまかっちゃん」というキャラクターでしょうか。お出迎えしていただけました。
元々は山頂に文永元年(1264)大江清秀の子、大江房義によって山城(砦)が築かれたのを永正年間(1504〜1520)に三瀬土佐守入道宗利が本格的な山城へと改修しました。
詳しい地図が載っています。
駐車場から50mほどはこのような穏やかな山道が続きますが、そこから先は険しい山道が数百m続きます。虫よけスプレーや蜘蛛の巣避けの棒切れを持ってお進みください。肥前国誌には、「城山にあり、広さ三段歩許り四方に高さ一間(1.82m)余りの土手を廻らし、喬木鬱々として生い茂り、中央に小石祠あり。勝玉大明神と云う〟」と記載してあります。
ライバル龍造寺隆信公
享禄二年(1529)神代勝利公が19歳の時、後にライバルとなる龍造寺隆信公が水ケ江城の天神屋敷にて誕生します。以前にもご紹介した戦国大名「龍造寺隆信」。神代勝利公と同じく筑前國守護である少弐氏の家臣。周防の大内氏と間で北部九州の覇権・朱印船貿易の利権を賭けて起こった田手畷の戦いでは、勝利公と共に大内氏を撃退して頭角を現します。その後も難敵だった大内氏との和睦交渉を成功させるなど、家臣団の中での地位を上げました。
●ライバルとなる転機
和睦成立で安堵したのも束の間、大内義隆は突如、少弐氏の領地を没収したうえに少弐資元へ討伐の兵を挙げました。驚き追い詰められながら資元公(のちに自害)と馬場頼周は「龍造寺隆信が大内氏と内通していたのでは?」と疑念を抱き、龍造寺一族の殲滅に乗り出します。少弐氏、松浦氏・有馬氏・家臣の勝利公も加わり各地で激戦になりましたが多勢に無勢、龍造寺隆信公の実の父であった周家も勝利公に討ち取られます。なんとか逃げ延びた隆信公はそれ以来、少弐氏と勝利公に強い敵意を持つのでした。
しかし、これは大内氏の策略であり龍造寺氏を寝返らせ少弐氏を挟み撃ちにする作戦。のちに大内氏から功績を讃えられ、大内義隆の一字をもらい龍造寺胤信から「隆信」と改名しました。そして少弐氏が滅びた後の肥前は平野地帯の龍造寺隆信公と山岳地帯の神代勝利公との間で語り継がれる戦いが繰り広げられました。写真:大内義隆公肖像画
●「多布施の宴」
一旦は和睦した二人でしたが、弘治元年(1555)二月、突然、龍造寺隆信公より「当国の平定のために軍議を開きたいので多布施に来て欲しい」と勝利公の元への連絡が入ります。「わざわざ対面で話し合う事もなかろう。まさか.呼び出して……まぁいいだろう。隆信の勇才を試してやろう」と酒宴に参加した勝利公。大内氏の件もありましたから用心するのは当然ですね。しかしその予感通りでした。
酒宴の席で最初の御膳が勝利公の元へ運ばれてくると、
恐縮である。まずは隆信殿へ。
と隆信公へ譲ろうとします。
いやいや(汗)お先に勝利殿へ。
隆信公が何故か焦って拒みますが、勝利公の家臣が隆信公の前に御膳を置きました。
沈黙・・・・・・・
すると今度は、隆信公の家臣である入道が進み出て御膳を持ち奥へ下がろうとしました。
勝利公はそこで確信したのでしょう。
入道よ。苦しゅうない、こちらへ座られ、席を共にするがよい。
断れば無礼であり、ますます怪しく疑われるため入道は席に座りその御膳を食しました。酒宴が終わり奥に戻った入道は案の定、もがき苦しみだし急いで持っていた解毒剤を服用しましたが間に合わず全身に黄疸ができ息絶えました。隆信公の企ては失敗し、毒殺を見抜いた勝利公は家臣の馬場四郎の機転もあり何事もなく揚々と引き揚げました。
小川信安との対決
小川信安とは龍造寺家臣団の一人。肥後筑後国守護職菊池為安の孫で小河筑後守為純の嫡男。とある出来事が転機となり出世しました。当時、龍造寺隆信公は夫人との仲がとても悪く家中が荒れていることが家臣団の悩みの種でした。そこで信安はある日、夫人の部屋へ入るといきなり傍にいた幼姫に脇差しを突き立てます。夫人が驚いて叫ぶと
御夫婦の乱れは家中の乱れ。
と訴え夫人を説き伏せます。心をうたれた夫人はそれ以降、隆信公と仲直りし家中に平穏が戻りました。その後も信安は近接する姉川椎安、小田正光、江上武種らを攻め落とし武功を立て隆信公の側近中の側近となりました。
●対決 その1 千布の館
ある夜、千布の館にて神代勝利公は一族郎党を集め酒宴をひらきました。
酒宴の最中、厠から女中が悲鳴をあげ慌てた様子で走ってくると、
女中「厠の外に甲冑姿の者がおります!」
すると勝利公は驚きもせず
そんなことをする者は…さては小川筑後守信安だな。貴公、神妙にこちらへ来て酒を召し上がれと申せ。
予想した通り、刀を抜き鎧姿で頭に鉢巻を巻いた小川信安が現れ
面目無く候….
貴殿の心底、感じ入った。
そう言うと、そのまま朝までお互いに酒を酌み交わしました。なんて胆力でしょう。翌朝、龍造寺本陣へ逃げ帰った信安は隆信公にこう告げました。
見つかってしまった後も、隙をみて斬り伏せようと覚悟しておりましたが、彼の大勇に気を呑まれてしまいました。天晴、敵ながら勝利公という男は器量の大将であります。これ程まで命を捨てて掛かっても思い叶わず口惜しく候…。
和睦をしていたとはいえ、刺客をあえて帰す勝利公も凄いです。しかしこれで龍造寺氏との同盟関係は見せかけだったと確信し対立は決定的となりました。
弘治三年(1557)佐賀平野部の豪族である八戸(やえ)氏が、龍造寺氏に追われ勝利公に助けを求めると、すぐさま兵を挙げ龍造寺氏部隊を撃退。八戸氏はとても感謝し神代勢に加わりました。これを好機とすかさず山岳地帯にある春日山城も奪取。
城主だった小川信安を追い出します。このまま劣勢ではまずいと考えた龍造寺隆信公と小川信安はすぐさま反撃に出ます。温泉街の後ろに見える山の辺りに春日山城がありました。
対決その2 春日山城
永禄元年(1558)10月16日の早朝、大将である神代勝利公みずから春日山城の陣中より斥候として従者一人を連れ金敷峠を進むと、こちらも二人で偵察中の小川信安とばったり遭遇。
そこにいるのは、小川筑後守か?
これは勝利公と見受けたり、いざ参る!!
お互いすでに対面しているので見間違うはずはありません。因縁の対決!お互い鎗打ちとなりますが、最後は武芸の天才である勝利公の前に組伏せられ信安は討ち取られました。「神代勝利が小川筑後守信安を討ち取った!」との報は瞬く間に両陣営へ広がり神代勢の士気は一気に上がる一方、龍造寺勢は次第に劣勢に。
得意の山岳戦法に長けた神代勢は押しまくり、総崩れとなった龍造寺勢は佐賀平野部へ散り散りになりながら退却し神代勝利公の大勝利となりました。戦の後、現在の佐賀駅付近に立て札を立て、「ここから先は神代領」と宣言し引き揚げていきました。
その後も神代勝利公は龍造寺隆信公はライバルとして一進一退の戦いを繰り広げましたが、永禄八年に勝利公が病没。子の長良が継ぎますが、それを好機と龍造寺氏に攻勢をかけられ敗北し和睦。龍造寺氏の家臣になった長良は、隆信公が沖田畷の戦いで亡くなった後も鍋島直茂公の下で肥前佐賀藩を支えました。
●神代勝利公の公墓
嘉瀬川ダムのダムが管理所横の橋を渡り、つきあたりのT字路を左折するとすぐトンネルがあります。抜けるとすぐ右側に駐車場の空き地があり、そちらにお墓があります。元のお墓は、ここから300メートル北にあった宗源院の裏山にあったそうですが昭和43年嘉瀬川ダム建設で湖底に沈むため、この地へ移設されました。
ただ発掘調査では、お墓の下をからは何も出てこず、遺骨は別の場所でひっそりと眠っているようです。
数々の苦難に遭いながら、三瀬城は戦国時代の天正十四年(1586)に廃城。昭和43年以降、嘉瀬川ダムが出来て集落は無くなってしまいましたが、治水のおかげで水害も減り、下流側では分岐した水路が農作物を育み、秋にはバルーンイベントで多くの観光客で賑わいます。山内の領民に感謝され愛された神代勝利公は現在でも神社にてお祀りされています。
ゆかりの場所
●勝玉神社
少し場所が分かりにくいですが、三瀬トンネル有料道路の手前にあります。佐賀市方面から北上すると、左側に「さと山」という道の駅のような休憩所が見えてきます。
「さと山」は、道の駅みたいな施設です。お土産なども販売しています。ツーリングやドライブの休憩所として利用されています。「海苔アイス」なるものもあります。
「さと山」から少し車を走らせると、有料道路の案内標識が見えてきます。その手前に集落の中にあります。鳥居や案内などが無く、周りに木々が生い茂り見つけづらいですが社のような建物が見えたら、多分〝それ〟です笑。道は車一台分の小道ですのでお気をつけて。
本殿の中には「神代勝利公の肖像画」があります。
●勝宿(かしゅく)神社
御祭神:神代勝利公。江戸時代初期に建立。当時、長崎から棟梁を招いて建てたと云う。御本殿は重要文化財になっています。ノボリには「萬事勝利」の文字と三つ巴の家紋がありました。普段は無人社のようです。最寄り:バス停「勝宿神社」
●嘉瀬川ダム
道は片側一車線ですが舗装は綺麗で走り易い道でした。ダム管理所で「ダムカード」がもらえます。
こちらには更に「副ダムカード」なるものもあり、管理所に貼ってある地図にある副ダム周辺の写真を撮影し、担当者へ見せると「副ダムカード」がもらえます。
●ダムカレー
ダムカレーもあって、少し離れた「古湯・熊の川温泉:ちどりの湯」さんにて販売されています。
●みはらしの丘 鷹の羽公園
由来は不明ですが、バイクでツーリングする人達の憩いの場所でトイレもあり、ダムを眺めながら休憩できます。近くには道の駅「しゃくなげの里」もあり、お土産を買う方達で賑わっています。最寄り:バス停「鷹の羽」
●肥前国一宮 與止日女(よどひめ)神社
川が交わる川上峡と呼ばれる場所に御鎮座されています。平安時代に創建された古い由緒ある神社。もちろん神代勝利公や龍造寺隆信公もお詣りしていました。御朱印もいただけます。幾度となくこの地を巡り争った春日山城が近くにあります。
【御祭神】與止日女命(神功皇后の御妹)また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられている。【由緒】欽明天皇二十五年(564)創建された延喜式内社で、のちに肥前国一の宮と崇められ、弘長元年(1261)正一位を授けられた。朝廷の御崇敬あり、また鎌倉幕府をはじめ武門、領主、藩主の専信を受けた。明治四年に県社に列す。」
●千葉城跡(須賀神社)
天に向かって見上げるように長い石段で有名な須賀神社。山頂には、かつて千葉城跡があります。長い石段を上がらなくても、手間の拝殿でお詣りできます。戦国時代は太閤秀吉公もここを訪れた際の「秀吉の腰掛け石」もあります。
下の拝殿の横に書き置きの御朱印があります。
※内容には諸説あります。長くなるので抜粋してまとめました。天下の戦国武将達たちも良いですが、地方にもこういった全国に名が知られていない男達の痛快な歴史ロマンが沢山あります。
●「夢を買う」
神代勝利公(幼名:新次郎)は、子供のころ千葉輿常公の元へ奉公へ出ていました。千葉輿常とは源頼朝公より肥前国小城郡の地頭職に任ぜられ下総から下向した御家人。小城市に千葉城というお城を築きました。その家臣である江原石見守とのエピソード。
ある朝、江原石見守が
不思議な夢を見た。自分の体がどんどん大きくなり、北山に腰掛けて南海に足を浸し、波で洗う夢だ。
それは最上の吉夢だ。しかし貴殿の身体には相応ではない。私に売って頂きたい。
この夢は我が夢、貴殿になんの益があるのか?
と笑いながら問いかけると、
石見殿の考えの及ぶ処ではない、用が無いのなら買い取り申す。
そう言って勝利公が持っていた金坑氏(戸を閉める棒)と交換したという。その後、勝利公は数々の合戦で手柄を立て、やがて領主となリ夢を売った江原石見守は勝利公の家臣となりました。