【熊本県・福岡県・茨城県】日本三大楼門/鹿島神宮・筥崎宮・阿蘇神社

神社の入口には人間界と神仏界を分ける結界「鳥居」や「楼門」が建っています。沢山の木材を綺麗に組んだ二階建ての楼門の細部には、とても美しい装飾が施してあり見応えがあります。日本に数多くある楼門の中で特に荘厳な「日本三大楼門」と言われる三つの神社があります。

常陸國一ノ宮鹿島神宮(茨城県)

〔御祭神〕武甕槌大神〔御創建〕皇紀元年(紀元前660年)

〔御由緒〕神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ=武道・剣・雷・地震を鎮める神)は香取の経津主大神(ふつぬしのおおかみ=刀剣の神)と共に出雲国へ向かわれ国護りを成就し、皇孫の国たるべき日本の建国に挺身された。とりわけ東国における神功は大きく、関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。

初代神武天皇は、その御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥れられたが、大神の「師霊剣」の神威により救われた。皇紀元年、紀元前660年の頃と言われる。以来、皇室を始め藤原氏などの崇敬も篤く、中世・近世には源頼朝、徳川将軍家などの祈願や寄進が寄せられた。

そして江戸時代に利根川から江戸を結ぶ水運が開かれると東国三社参り【鹿島・香取・息栖】が流行。庶民にも鹿島信仰が広まり、現在に至るまで東国最大最古の神社として朝野の崇敬を集めている。本宮は徳川秀忠公、奥宮(写真)は徳川家康公が寄進されました。

楼門

〔楼門の建立〕水戸藩初代藩主であった徳川頼房公により寛永十一年(1634)より奉納され、門の上部に掲げらた扁額「鹿島神宮」の文字は明治三十八年日露戦争でバルチック艦隊を敗った日本海軍東郷平八郎の揮毫によるものです。

徳川頼房公は水戸黄門 光圀公の父君にあたります。

御朱印

〔関連〕武人伝⑤将軍・武将に伝授した東国の剣豪/剣聖塚原卜伝

筑前國一ノ宮筥崎宮(福岡県)

〔御祭神〕応神天皇 神功皇后 玉依姫命〔御創建〕延長元年(923年)

大分県の宇佐神宮・京都の岩清水八幡宮と並び「日本三大八幡宮」として有名な福岡県の筥崎宮(筥崎八幡宮)。一ノ鳥居は慶長十四年(1609)福岡初代藩主黒田長政公が建立しました。毎年九月に行われる博多三大祭りの一つ「放生会」が有名です。

〔御由緒〕平安時代の延喜二十一年(921)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の宸筆を下賜され、御社殿を建立し、延長元年(923)筑前大分宮より遷座しました。

楼門

高い二階部分の左右に張り出た大きな屋根とそれを支える木組みが、とても美しく荘厳な楼門です。掲げられたその「敵国降伏」の扁額がアクセントとなっています。

鎌倉時代の文永十一年(1274)に起きた1度目の元寇(文永の役)で筥崎宮を含む博多一帯は焦土と化しました。現在も境内に元寇船の錨石が展示されています。写真:蒙古襲来絵詞に描かれた筥崎宮(宮内庁所蔵)

元軍が再び侵攻してくるのは間違いないと考えた幕府は、国土防衛の準備に着手。朝廷では亀山上皇が京都の岩清水八幡宮へ敵国降伏祈願に参拝され、全国各地でも盛んに戦勝祈願が行われました。

筥崎宮では亀山上皇自らが造営を命じ34個の礎石の下に納める「敵国降伏」の宸筆を記し、国土の安泰を祈られました。江戸時代に楼門を造営した筑前領主小早川隆景公が宸筆を謹写拡大しました。現在では厄除け・勝ち運の神様としてスポーツ球団も参拝しています。

御朱印

肥後国一ノ宮阿蘇神社(熊本県)

〔御祭神〕健磐龍命とその家族神十二神〔御創建〕孝霊天皇九年(紀元前二八二年)

全国にある約500社ある阿蘇神社の総本社。神武天皇の孫神で阿蘇を開拓した健磐龍命(たけいわつのみこと)、その家族神十二神。古来より阿蘇山火口の湯だまりを神池と呼び「上宮」とされ、こちらは「下宮」にあたります。平成二十八年の地震により倒壊してしまいましたが、復旧工事が行われ再建されています。

阿蘇氏

神武天皇の孫である健磐龍命(たけいわたつのみこと)が派遣された九州阿蘇にて阿蘇都媛命と結婚し誕生した速瓶玉命が、第十代崇神天皇より阿蘇「国造」に任命されました。

国造とは、古代日本において外国からの脅威に備えて国を一つに纏めるべく大和王朝が行った中央集権化の一つとして日本全国に設けられた統治(行政)機関。その役目は荒れた土地の開墾から始まり稲作の普及・税の徴収・裁判・軍事に至るまで多岐にわたりました。

速瓶玉命は父と共に火山で荒れた阿蘇地域を人の住める地に開墾し農耕を教え発展させました。その速瓶玉命の子孫が阿蘇氏と言われています。当地にも北宮として国造神社があり現在でも皇室と深いつながりがあります。つまり阿蘇氏は由緒ある名家であり大宮司でもあります。

阿蘇の由来

日本書紀によると第十二代景行天皇が九州行幸で訪れた際、誰も人がおらず「是国に人有りや。」と言われると、健磐龍命(阿蘇都彦命)・阿蘇都媛の両神が人の姿で舞い降り「何ゾ人無きや。」と返された「何ゾ」が訛って「何=阿 ゾ=そ」となったと言われています。(諸説あり)

楼門

〔楼門〕天保六年(1835)から嘉永三年(1850)にかけ熊本藩(細川氏)の寄進によって再建され、神殿とともに国重要文化財に指定されています。平成二十八年、地震により倒壊してしまいましたが基礎に耐震工法を施し令和五年十二年に復旧工事が完了しました。

再建された楼門の木材は地震で倒壊する前のものを多数使用しており、再建前の姿そのままのようです。

御朱印

ゾロ目の日、日付を手書きでいただけました。

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