【新潟県】義将上杉謙信の居城/上越市春日山城跡

戦国時代の武将の中で人気は絶大で、「義の武将」「毘沙門天の化身」「越後の龍」「軍神」数々の異名を持つ上杉謙信公。甲斐の武田信玄公との川中島の合戦シーンは数々の映画やドラマで再現されてお馴染みです。上越市で毎年夏に開催される「謙信公祭り」の中でも対決シーンが再現されていて人気を博しています。他にも参集行列や出陣行列も行われ、街は上杉謙信ムード一色になります。

越後守護上杉謙信

享禄三年(1530)春日山で生まれました。父は越後守護代長尾為景、母は長尾房景の娘虎御前。幼名は虎千代。兄の晴景が家督を継ぎ、四男の虎千代は城下の林泉寺に入り教養を学びました。天文十二年(1543)元服し長尾景虎となり、川中島の戦い、越中進出を経て上杉謙信と称しました。天正六年(1578)四十九歳に病没。辞句「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

えちごトキめき鉄道 春日山駅

直江津駅から、妙高はねうまラインに乗り換え最初の駅(190円)春日山駅へ向かい。

えちごトキめき鉄道の「春日山駅」に到着。降りた時は無人で小さな駅でした。

道沿いには「謙信公祭」のノボリが沢山並んでいてお祭りムード一色。その向こうには春日山城跡が見えます。春日山城は南北朝時代に越後国守護だった上杉氏が築城した山城です。

駅から春日山城に行きやすいように看板が立っています。春日山駅前から春日山城までの距離は2.7キロで、徒歩で40分かかります。お祭りの日は、武者行列のために一部に交通規制がありますが、会場へのシャトルバスが走っていました。

春日山城趾入口

「頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉謙信公の居城地であった。この山上に本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて比隣に勢威を示した。春日山城は別名蜂の峰と称し眺望に富み付近の属城を充分に監視することが出来た。」

本丸跡の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門堂及び御花畑があった。また西方には鐘楼跡や景勝屋敷などがあって、南方の二の丸、三の丸方面に家臣の屋敷跡が点在し、規模は極めて雄大である。」

こちらは「上越市埋蔵文化財センター」で、建物内には戦国時代の上杉謙信公の活躍を中心に展示されています。

こちらは甲冑が数領展示されています。

「第一義」と書かれた額。これは謙信公が幼い頃に入門した林泉寺の山門に掲げられていた額で謙信公が書かれたと言われる物です。(複製)

こちらのセンターの傍らには「上杉謙信公の騎馬像」が建立されています。この先の春日山中腹には上杉謙信公を祀る春日山神社。山麓に長尾家の菩提寺林泉寺があリます。

書籍やグッズ、御朱印も販売されています。

謙信公祭り

「謙信公祭り最大のイベント」といえば、やはりコレだと思います。早速会場の「春日山城史跡広場」へ向かいました。埋蔵文化財センターから1キロぐらいの距離にあります。

「川中島合戦の再現」ですね。これ見ずには帰れません。この日は快晴で良い天気に恵まれました。ですが良すぎて困りました。日中の気温が上がり熱中症の恐れがあるので、武者行列は中止となりました。残念です。

こちらのイベントは夕方5時ごろから始まりますので、気温の面では安心です。入口で有料席と無料席に分けて並びます。有料席は2000円ぐらいだったと思います。

会場には陣幕とノボリ。パイプ椅子の場所が有料席で、その後ろが無料席。武田側と上杉側に分かれて座ります。

対する上杉軍の登場です。とてもかっこいいです。川中島で対峙している設定ですので、

対する反対側には赤い甲冑を着た甲斐の武田軍団。武田二十四将も一緒です。そして川中島の戦いの火蓋が切って落とされました。

合戦のクライマックスを飾るのは、馬上の上杉謙信公が武田本陣の武田信玄公へ向かい対決するワンシーン。みんなが一番待っていた場面。すごく迫力あり、武田軍の方にいて正解でした。拍手の中、「甲陽軍鑑」等で後世に伝えられた「三太刀・七太刀」とアナウンスが流れました。

馬上の謙信公の一太刀目を信玄公は軍配で受け止めましたが、二の太刀で腕に、三太刀で肩に傷を負いました。信玄危うしと思われましたが、旗本の助太刀で助かりました。後に信玄公が軍配を調べたところ七つの傷があったという。

川中島の戦い

謙信公と信玄公の領土の間には信濃という広大な土地がありましたが、そこには国守と言える武将がおらず小豪族たちがお互いに牽制し合っている状態。信玄公はその隙を狙って北進しました。いち早く信濃を制し国人衆を味方につけ大国となった後、上洛して正式に信濃守護としての地位(官位=公家の地位)を賜わえるとの考えがあったと思われます。

やがて北信濃の謙信公の領地と接する地域に差し掛かった頃、武田軍と戦いに敗れ領地を追われた村上義清が謙信公の元へ助けを求めて来ました。村上氏は北信濃の独立勢力で両雄ともに因縁のある間柄でしたが、

上杉謙信公

義によって起つ!

謙信公は頼みを引き受け出陣しました。断ると思っていた信玄公は驚きます。両軍は布施、八幡、荒砥、葛尾にてついに激突、天文二十二年(1553)の四月から五ヶ月に及ぶ第一次川中島の合戦の始まりでした。

戦法の違い

武田軍は、U字型になって翼を広げて敵を包み込む「鶴翼の陣」。対する上杉軍は「車懸の陣形」。本陣を軸として全軍が車輪のように回りながら進んでくる戦法で、外からは鉄砲隊と長槍隊が常に援護して撹乱するという戦法。

これは信玄公が初めて目にする戦法でした。車輪のような波状攻撃にジリジリ劣勢に。武田軍は陣を立て直すために一旦塩田城まで退きました。甲斐からの長旅で兵糧不足となっており撤退を考えていたところ、なんと上杉軍の方が先に越後へ引き揚げていきました。無駄な消耗戦をするよりも、信玄公の北上する意欲を削ぐだけで充分と考えたのでしょう。その見事な戦いぶりと撤退ぶりに信玄公はまた驚きました。

武田信玄公

上杉謙信、ただ者ではない。

その後、両雄が対峙した川中島の戦いは第五次まで続きました。謙信公が亡くなった後は、後継を巡る争い「御館(おたて)の乱」が起こり、春日山城に立て籠もる謙信公の養子の上杉景勝公が勝利し跡を継ぎました。その後、豊臣秀吉公により豊臣五大老の一人となり、会津藩120万石へ移封を命じられ、代わりに越前北庄城から掘秀治が春日山城へ入りました。写真:上杉景勝肖像画

しかし、慶長四年(1599)堀秀治の支配(検地)に不満な旧上杉勢が上杉遺民一揆が起こし翌年には鎮圧されましたが、間も無く堀秀治は直江津港近くに新たに「福嶋城」を築き始めます。慶長十一年、秀治は完成を見る事なく31歳で亡くなりますが、子の忠俊がわずか12歳で春日山城主に。翌年に完成した福嶋城に移ると春日山城は廃城となり、約250年にわたる上杉氏の越後統治のシンボルはその役目を終えました。