【鹿児島県】牛屎・菱刈・相良・島津氏の居城/伊佐市 大口城址

鹿児島県の北部伊佐市にある中世のお城「大口城」址。別名「牛山城、牟田口城」とも呼ばれ、かつては牛屎氏・菱刈氏・相良氏・島津氏が争う舞台となったお城でした。現在は一部小学校、一部はほぼ畑になっていて寂しいですが、しばし中世のロマンに浸りましょう。その始まりは「保元の乱」にあります。

保元の乱とは

保元の乱とは、保元元年(1156)皇位継承など諸問題で朝廷・武士が二つに分裂し、数年間戦った争乱で、後の源平合戦へと発展しました。きっかけは、保安四年(1123)第74代鳥羽天皇から子の崇徳天皇へ皇位が継承された後、突然白河上皇が寵妃である藤原得子の子(近衛天皇)を皇位につけようと崇徳天皇に退位を迫り、半ば強引に譲位させた出来事でした。

わずか3才で異例の皇位についた近衛天皇でしたが、眼病により17の若さで崩御。崇徳上皇は皇位に戻れると期待されましたが、父の鳥羽上皇のご意向により異母弟の後白河天皇がご即位される事になり崇徳上皇側は、後白河天皇側と対立。(写真:京都近衛天皇御陵)

源氏・平氏内でも

保元元年(1156)7月5日、鳥羽上皇が崩御されてから3日目。後白河天皇・関白藤原忠通と崇徳天皇・左大臣の藤原頼長(忠通の弟)との間でついに衝突。朝廷の警護に当たっていた源氏と平氏も呼応し、保元の乱が始まりました。当時の源氏と平氏は、それぞれ兄弟間で意見が対立していました。※写真:後白河法皇像

7月11日、崇徳天皇が籠もられた白河殿に火が放たれ、後白河天皇側が大勝し事態は一気に収束。崇徳上皇は讃岐へ流罪、味方をした源平側武士団も討ち取られました。保元三年(1158)後白河天皇は、すぐさま子の二条天皇へ譲位したのち上皇となり院政を開始しました。※写真は崇徳院像

牛屎氏と大口城

この保元の乱の戦功により安芸判官 平基盛の子(平氏)である信基は、薩摩国牛屎(うしくそ)、祁答院(けどういん)の二箇所の荘園を与えられました。そして信基の四子である元衡が保元三年(1158)ごろ薩摩国へ下向し、名を「牛屎」と改め院司の職に就きました。後に大口城が築城され居城となったと思われます。

ライバル菱刈氏

保元五年(1160)藤原頼長の曽孫にあたる判官藤原重妙が、薩摩牛屎院と大隅國菱刈郡の七百余町の荘園を与えられ大隅に下向し、名を「菱刈」と改め太良城を本拠としました。しかし、ここで問題が発生。「薩摩牛屎院」には二人の統治者がいる事になり、先の統治者であった牛屎氏と揉め対立する事態に。

文治三年(1187)源頼朝公から「牛屎太郎元光 薩摩牛屎院の所領安堵たるべきこと」との下文が賜り、安堵する牛屎氏。しかし菱刈氏は諦めきれず対立し続けました。※写真:源頼朝公像。元弘三年(1333年)鎌倉幕府が滅び南北朝時代に突入すると牛屎氏は南朝側に属し、足利尊氏率いる北朝側の島津貞久と対峙する事になります。

落城後、牛屎氏から相良氏の居城に

むろん菱刈氏は北朝側に入り、両者の対立は激化の一途をたどりました。応永年間(1394〜1428)菱刈氏は隣国である球磨人吉の相良氏と共に大口城へ攻め込み、大口城は落城。牛屎氏は滅亡。牛屎院は相良氏の領地となり、大口城は菱刈氏によって戦国的な城郭に改修されました。

島津氏との激闘

島津氏との関係は最初良好だった菱刈氏でしたが、徐々に菱刈氏が反抗し対立を深めます。明応八年(1499)島津氏が先に動きました。一族の島津忠明を強引に大口城へ送り込み、実質乗っ取る形となりました。これに腹を立てた相良氏と菱刈氏は、享禄三年(1530)大口城を急襲し忠明を自害させ、大口城を奪回しました。

以後も菱刈氏は祁答院・蒲生の豪族たちと連合して島津氏に対抗しますが、永禄十年(1567)島津貴久が祁答院氏・蒲生氏を次々と下し、大口城へと迫ってきました。大口城兵も反撃し猛攻を二年も耐えしのぎ続けましたが、ついには菱刈隆秋も屈服し相良氏の人吉へ逃れ、大口・菱刈地区は島津領になり新納忠元公が治めました。

周辺の立ち寄りスポット

大口城からさほど離れていない地にある「伊佐市文化会館」。こちらの駐車場横には、飛行機がT-33練習機が屋外展示されています。「T-33Aは、米空軍ジェット戦闘機F-80を練習機として複座に改造したもので、実用性が極めて高くプロペラ機並みの操縦性を備え信頼性も高く「若鷹」の愛称で親しまれた歴史に残る傑作機であります。

この機は、昭和40年から平成5年まで航空自衛隊パイロット養成教育の基幹を担い7560時間のフライトを終え、航空自衛隊第5航空団新田原基地で退役しました。」

操縦席が見られるように階段も設置されています。航空祭や博物館でないとなかなか見られません。興味がない方には、ただの小さな飛行機でしょうが、あの大人気練習機へと続く歴史があります。

ブルーインパルスへと続く練習機

川崎重工業(当時の川崎航空機)が、米ロッキード社からライセンス生産を許可され生産されたジェット練習機T-33は、日本の航空自衛隊でも使用されました。

その後、練習機は日本初の国産超音速高等練習機T-2(三菱重工)へと引き継がれ、多くのパイロットを育てました。

さらに運動性能に優れたT-4練習機(川崎重工業)が三代目ブルーインパルスに選定され、現在全国各地でアクロバット展示飛行を行い人々の心を魅了し続けています。(ブルーインパルス初代:F-86F、2代目T-2、3代目T-4)

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