【佐賀県】35万7000石の鍋島氏の居城:佐賀城

佐賀駅からバスに揺れ「博物館前』「佐賀城跡』で降りると、佐賀城跡につきます。

平城。天正年間(1573〜1592)肥前の龍造寺氏の居城であった村中城を拡張整備し慶長16年(1611)に完成。初代藩主鍋島勝茂公が御入城されました。立派な天守や見事な櫓などがあったそうですが、亨保11年・天保6年の二度にわたる火災で焼失してしましました。

現在は天守台の石垣と天保9年に再建された重要文化材の鯱(しゃち)の門があります。幕末に起こった佐賀の乱の時の弾痕も残っているそうです。他のお城と比べると天守や櫓が無く他のお城と比べると外観的には見劣りしますが、

日本最大級といわれる木造復元物の本丸歴史館(復元)があります。

アームストロング砲

「アームストロング砲は、イギリスのウイリアム・アームストロングが開発した施条(ライフル)砲。幕末の日本では、幕府や諸藩が輸入しており佐賀藩も6ポンド、9ポンドなど各種の砲を所持していた、この模型は9ポンド砲の模型であるが、上野戦争で使用されたものは、複製6ポンド砲と考えれている。』

いろいろ趣向を凝らした展示や寸劇なども行われていました。こちらは様鍋島直茂公お殿様とのフォトスポット。そのほかに図録やパンフレットなども豊富に比較的に安い値段で取り揃えています。本丸歴史館は朝9時30分〜18時までで入場無料《募金箱あります》靴を入口横のロッカーに入れ室内に上がります。御城印は本丸歴史館売店にて

佐賀城二の丸。「佐賀城は本丸m二の丸、三の丸などで構成されていましたが、1726年(享保11年)4大藩主鍋島吉茂公の時代、片田江より出火の佐賀城大火災により、ほとんど焼失してしまいました。2年後に二の丸は再建され、1835年(天保6年)、10代直正公の時代に再び焼失するまで100年間、藩政の中枢でした。

その時期には下図のような立派な鯱が載った二の丸御門が建っていました』。本丸、二の丸、三の丸を囲むように掘られたお堀は主に農民たちが築造し、一部福岡黒田藩も参加しました。現在でも筑前堀、筑前土居という名で残っています。

お城入口の横には佐賀藩十代藩主鍋島直正公の大きな銅像がありました。鍋島直正公は、文化十一年(1871)十二月七日、江戸桜田藩邸にて九代藩主鍋島斉直公の子として出生。母は池田治道の娘の幸。幼名貞丸・成人して斉正、維新後直正と改名、号は閑叟。

本丸歴史館で御城印が販売されています。

佐嘉神社

佐賀城跡から北へ15分ほど歩いたバイパス沿いに御鎮座されている「佐嘉神社』。御祭神は、先ほどの銅像「佐賀藩十代藩主鍋島直正公』。こちらの境内にも佐賀城内と同じく大砲などが展示されています。

「アームストロング佐賀藩安式砲』。もちろん復元された物ですが、佐賀藩独自で作った大砲です。ほっそりしてて軽量化されていて後ろから弾を込めるタイプ。

こちらは大きな「カノン砲』もあります。台座に付いているレリーフは「佐賀藩の反射炉と錐鑽機工場』と書かれていますが、反射炉とは鉄を大量に溶解できる炉で、錐鑽機とは大砲の穴をくり貫く機械です。幕末時代、長崎へ外国船が度々侵入し暴虐を繰り返す事件があり、島原の乱で活躍した功績もあり長崎警備を幕府より任されていた佐賀藩は手を焼いていました。

そのたびに奉行の切腹など厳しい処分が下され苦境に立たされてた佐賀藩は、汚名を晴らすため、また国防のために急いで大砲を量産することに至り、大型反射炉を日本で初めて築造し、生産された大砲を長崎の島々へ配置する事で警備を強化する事ができました。その指揮をとったのが鍋島直正公でした。ほかの分野でも周辺国との遅れを取り戻すため多方面に渡り近代化を学び進めました。

佐賀の八賢人

そのほかに幕末から明治時代にかけて活躍した「佐賀の八賢人』という石碑があります。

●鍋島直正公 ●大隈重信 ●江藤新平 ●島義勇 ●佐野常民 ●副島種臣 ●大木喬任 ●枝吉神陽の八人の写真と詳細が載っています。佐賀城の本丸歴史館でも「八賢人おもてなし隊』の方々が演劇を見せていただけます。

佐賀藩祖 智将 鍋島直茂公

鍋島直茂公は戦国大名「肥前の熊」こと龍造寺隆信公の家臣であり義弟。九才上の義兄の補佐役として活躍します。元亀元年八月、大友軍が佐賀城を落とすべく今山大願寺に陣をおきます。しかし総攻撃の前夜に酒宴を開き前祝いだと大騒ぎ、それを聞きつけた直茂公は隆信公へ籠城策より夜襲を進言。二十日未明、数千の敵にわずか数百の兵で敵陣に向かいました。

その途中、大友氏の家紋を見て「勝ってあの家紋を我が家紋にしよう」と士気をあげ、勝利します。以降、剣花菱から杏葉が龍造寺氏の家紋になりました。その後も勢力拡大を続けましたが、一大事が起こります。総大将隆信公が島原の沖田畷合戦で少数の島津・有馬連合軍に討ち取られてしまいます。

家中大騒ぎのなか無事に佐賀に帰り着いた直茂公は態勢の立て直しを図ります。それまでの直茂公の人気と長年の功績が幕府に認められ、秀吉公の九州平定後は龍造寺氏を継承し、佐賀三十五万石の藩祖鍋島直茂公と初代藩主鍋島勝茂公の父子が誕生します。肖像画をみると冷静沈着で、いかにも智将って印象を受けます。天文七年〜元和四年没 八十一歳

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