【福岡県】弘安の役元寇史跡/今津元寇防塁跡

 鎌倉時代に起きた未曾有の国難「元寇」。文永の役(文永二年:1274)・弘安の役(弘安四年:1281)二度にわたるモンゴル帝国(元)からの侵略、そしてそれを迎え撃った武士たちとの戦い。その歴史を伝える数々の史跡が九州北部から中国地方の北西部に数多く遺っています。その中でも有名な博多湾岸にある史跡「元寇防塁」を訪れました。(蒙古襲来絵詞:宮内庁所蔵)

「元寇防塁」とは

 13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨーロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、高麗を服属にさせたあと日本へ使者を送り通交を求めました。しかし鎌倉幕府はこれに応じなかった為、1274年博多湾に攻め込み、その西部に上陸し九州の御家人たちと激しい戦いを繰り広げました。

 文永の役では九州の武士団の活躍もあり元軍は進軍を諦め、翌日、舟で海へ引き揚げたところを暴風雨に襲われ大部分が海底に沈みました。この戦いで九州北部から北西部沿岸は蒙古軍の火矢により炎に包まれ焼失し甚大な被害が出ました。

その後、亀山上皇自ら復興へ向けて博多においでになる一方、幕府は再度の襲来に備えて、九州各地の御家人に命じ建治二年(1276)3月から西は今津から東は香椎まで、博多湾の海岸沿いに約20キロにわたる石築地(元寇防塁)を築かせ、その場所を警護させました。写真:亀山上皇像(筥崎宮)

生の松原(福岡市西区)

 博多駅から筑肥線に乗り下山門駅で降りると、沿線にクロマツ林が広がっています。「生の松原(いきのまつばら)」と呼ばれる場所の中にあります。地名の由来は、神功皇后が松の枝を逆さに植えて戦勝祈願されたら、枝から葉が生えて生き返ったとの伝承からその名がつきました。

林の中を進むと砂に埋もれた元寇防塁の石碑、海岸へ出て少し歩くと蒙古襲来絵詞を載せた案内版と復元整備された元寇防塁が姿を現します。

 西新地区にも防塁はありますが、住宅地の中にありロケーション的に今ひとつ。こちらは海岸沿いにあるので当時の様子が妄想できます。

今津元寇防塁(福岡市西区)

 筑肥線の九大学研都市駅から昭和バス西の浦線(2番のりば)二見ケ浦経由伊都営業所行きに乗り「福祉村施設前(蒙古塚入り口)」の停留所で降りて徒歩10分程の場所にあります。バスは1時間毎に1本あります。

こちらも砂浜手前のクロマツの林の中にあります。案内板にある通り復元された防塁も見学できます。

 長い年月で砂に埋もれている元寇防塁。防塁は各国の分担によってその構造が違うことが分かっています。石材は近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの工法が採用され防塁の高さは2.5m〜3mほど。この今津地区は、大隅・日向国が分担して、柑子岳の麓から毘沙門岳まで約3kmにわたり築きました。

 約3mの高さまで石を台形に積み上げ、石材は西が花崗岩、東が玄武岩、中央は二つの石材が交互に用いられています。1281年元は再び日本を攻めて来ましたが、元寇防塁や日本側の水軍に阻まれ博多上陸を諦めました。とても壮観な眺めです。この石垣の上に座ってみたいのですが、残念ながらフェンスで囲んであるので中には入れません。

元寇防塁を学べる休憩所

こちらには近くに休憩所もあり、そこにはプロモーションビデオや元寇にまつわる年表などの掲示物があり勉強できます。おさらいすると。

 鎌倉幕府へ送った書状に侵の字が見えます。高麗を服属させたあとモンゴル帝国の帝位についたフビライは、日本側へ使節を三度日本側へ送りますが、事前に征服される事が分かっていた鎌倉幕府の執権北条時宗は返書も上陸も拒否。しびれを切らしたフビライは、高麗の三別抄という軍隊の反乱を鎮圧し終えると、国名を「元」と改め日本へ侵攻してきました。

画面が反射して分かりづらいですが、二度目の弘安の役での航路図です。合浦を出発した元の東路軍4万人900艘の船団は、対馬・壱岐を経由し志賀島一帯に上陸した後、博多湾へ侵攻しようとしますが、

待ち構えていた元寇防塁と御家人たちが乗った船団に阻まれ、遅れてきた江南軍10万人3500艘と平戸島付近で合流したのち長崎の平戸・鷹島方面へと向かいました。平戸・鷹島とも上陸しやすい交易港だったためです。2回目の元軍船には長期間駐留できるよう炊事道具も積んであったと言います。しかし、鷹島付近でも暴風雨(神風)に遭い元軍が乗った船団は壊滅。三度目の侵攻計画もありましたがフビライの死により、その計画は頓挫しました。

 防塁に座っているのは、幕府より日本側のリーダーに任命され先陣として活躍した菊池武房公のお姿です。虎柄の刀袋に赤い日の丸の扇子、かなりお洒落な出立です。この時、この絵巻を描かせた竹崎季長公と初めて出会いました。菊池武房公は、熊本県の菊池市に御鎮座されている菊池神社にて一族と共に祀られており元軍との戦いの史料も展示されています。

元寇防塁築造の担当国

 元寇防塁を築造した九州各国の御家人たちへの割り振り表です。各担当国が農民や石工たちを連れてきて作業に取り掛かり、20kmに及ぶ長さの防塁を完成させました。工法に違いがあったのはこのためでしょう。

近くの関連史跡

元寇殲滅の碑

少し離れた今津公園という丘にあり、隣に蒙古塚があります。丘から階段を降りると2〜3台停められる駐車スペースがあります。

今津元寇防塁から500mほど離れた「第一野の花学園」という施設に元寇防塁見学用の駐車スペースもあります。

JR九州 九大学研都市駅

博多駅からだと福岡市地下鉄の空港線「唐津行き」へ乗るとJRへの乗り換え不要でこの駅に着きます。ここからバスに乗って現地へ向かえます。

JR九州 今宿駅

こちらもJR九州筑肥線の今宿駅。和風の駅舎が温かみを感じます。九大学研都市駅の一つ博多寄りの駅で海岸に沿って南下するとこの駅があります。

麁原公園(麁原元寇古戦場:西新地区)

こちらは、最初の文永の役の時に、元軍の陣が置かれた場所です。地下鉄西新駅から徒歩で15分くらいの場所にあります。少し高い丘になっていて、現在は公園として利用されています。

フビライの目的とマルコ・ポーロ

 ここまで執着するフビライの目的とは。「敵対していた南宋(日本と交易)を征服するため(弘安の役の前に征服)」「国内の批判を逸らすため」「日本に救援物資を頼んでいた高麗(三別抄も)を従属させるため(文永の役の前に征服)」色々ありますが、側近にいたマルコ・ポーロの存在もあるかもしれません。彼はベネチアの旅行者で、シルクロードを経て1275年(文永の役の一年後)にモンゴルに到着し、17年間フビライに仕えました。1294年にベネチアへ帰り、ジェノバで捕らえられ獄中にて完成させたのが「東方見聞録(世界の叙述)」

そこには「ジパング」が登場し、「この国では至るところで黄金が見つかるものだから、国人は誰でも莫大な黄金を所有している。この国には誰も行った者がいないものだから、一度も国外へ持ち出されなかったゆえに純金づくめの宮殿や膨大な黄金が溢れている」などと記され、ヨーロッパで日本の存在が注目されました。コロンブスも熟読したと言います。

宋史でも「日本の東奥州は金の産出地」と記されていました。中尊寺金色堂を見てそう思ったのでしょう。貿易商人たちのウワサ話の数々が更にフビライや西洋人の欲望を掻き立てたのかもしれません。時は流れ、その後の大航海時代に受けた鉄砲伝来やキリスト教布教に伴う植民地政策により「ジパング」特に九州には交易の利をはるかに超える苦難の歴史が待っていました。

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