有馬豊氏公の居城/福岡県久留米城跡

【令和四年更新】

桜の季節に訪れました。桜も満開の春に参拝しにきました。去年は有馬氏御入城四百年目というメモリアルな年でしたが、ご祭神でもある「有馬頼永公生誕二百年目」ということで今年も記念の年となりました。

十代藩主 有馬頼永(ありまよりとう)公《夫婦円満》仁慈の名君

「治世わずか三年ながら、仁慈の心あつく民を思う善政をしき、領民からは「名君」と称されました。内政では窮乏破綻に瀕していた藩財政を質素倹約の大検令で立て直し、対外政策では兵制改革を推進。側室を置かず夫人の腫姫を大切にされ、一夫一妻の清節を守られました。(夫婦円満の神)」ですから、夫婦やカップルでの参拝客が多かったです。

記念御朱印も沢山

通常御朱印と令和四年版 記念御朱印など様々です。

見事な切り抜き御朱印です。

続日本100名城スタンプは社務所の所にありました。

【令和三年版】

久留米駅から車で五分くらいの場所にある久留米城跡。築城は永正年間(1521)。丹波国福知山より有馬豊氏(とようじ)公がご入城されて令和三年で四百年目を迎えました。本来なら奉祝行事やお祭りが盛大に行われる予定でしたが、残念ながら感染拡大防止対策のため延期、東京五輪2020の聖火リレーも沿道は中止となりました。

久留米城の原型は永正年間(1504頃)、すぐ横に流れる筑後川を天然のお堀として築かれた小高い丘の上にある砦でした。その後、永正十五年に入封された毛利秀包公(小早川)が城郭を整備し始めますが、その途中で関ヶ原の合戦が勃発。西軍だったため改易となってしまいました。徳川時代になり次に入られたのは田中吉政公。しかし柳川城を居城としたため、整備途中だった久留米城は一国一城令により破却。もったいない><。

その後、田中家には継嗣がなく途絶えたためにまたも改易。代わりに摂津有馬氏(長崎の有馬氏とは別)より有馬豊氏公が入り久留米藩主となりました。柳川城の方は立花氏が任されます。

築城の名手であった豊氏公は本丸御殿、二の丸、三の丸、外郭、各方面にある七つの櫓を二層の多聞櫓で連結して取り囲んだ平山城を築城。天守は無く一番高い巽櫓(たつみやぐら)が天守の代わりになりました。

現在は石垣だけが残り、本丸御殿跡に神社・聖徳太子像・庭園・有馬記念館があります。

久留米城は明治維新後、陸軍省が接収。明治五年に解体、民間への払い下げに。なんとか残したい実業者の緒方安平氏ら有志者さん達が、落札者が運び出す寸前に阻止し、明治十年(1877)に神社を創建。明治十二年七月、「篠山神社」と称し県社に列せられました。

ご祭神は五柱ですがお名前が難しいので ・・

藩祖初代藩主 有馬豊氏(ありまとようじ)公《安全守護》戦国の知将

第 七代藩主 有馬頼徸(ありまよりゆき)公《学業成就》和算の大家

第 十代藩主 有馬頼永(ありまよりとう)公《夫婦円満》仁慈の名君

第十一代藩主 有馬頼咸(ありまよりしげ)公《難局突破》最後の藩主

内閣農林大臣 有馬頼寧(ありまよりやす)公《勝運守護》近代農政の指導者

最後の頼寧公は、政界を退かれたあと中央競馬会理事長としてご活躍されました。後年にその功績を称え、当時創設された中山グランプリは「有馬記念」と改称されました。自分を含め競馬を知らない人にとっては、単なる地名かと思ってましたが違ったんですね。

社務所では通常の御朱印・記念御朱印がいただけました。

春に訪れましたので「観桜バージョン」でした。

こちらは「入城四百年記念ゴールド・シルバー期間限定バージョン」かっこいい!五輪も掛かっていたのでしょうかね。上のシルバーの御朱印には利休公と豊氏公の絵が。豊氏公は茶人でもあり、千利休七哲の一人でもありました。

令和三年十月十日更新:切り抜き御朱印《陣太鼓ver》が追加されました。※分かりやすいように背景をベージュにしました。ベージュの部分が切り抜きです。

本丸御殿跡と神社社務所の横に「有馬記念館」があります。こちらで詳しい久留米城下の歴史や史料が展示されています。日本百名城の判子もこちらにあります。

茶人でもある築城の名手:久留米藩祖 有馬豊氏公

永楽十二年〜寛永十九年没 七十四歳

有馬氏はもともとは播磨国にあって赤松氏とし、南北朝時代に活躍した赤松則祐公は後醍醐天皇の皇子、護良親王に従い数々の武勇の持ち主。時代に翻弄されながらその後、子の赤松義祐公も明徳の乱でご活躍、足利将軍より摂津国有馬巴の地頭職に任命されます。それを機に「有馬」を氏としました。有馬豊氏公は播磨国三木郡満田城にて生まれ。小さい頃より父の有馬則頼に従って各地を転戦。豊臣秀吉公、徳川家康公からその勇敢さを称賛。家康公の養女である連姫が輿入れされ徳川家との関係も深くなります、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも参陣。元和六年(1620)筑後国北部八郡21万石1千石に転封となり翌元和七年(1621)五月九日久留米城にご入城。その後は、江戸城・駿府城・大阪城などの築城や改修、城下町の整備、寺社の興隆のほか島原の乱でも鎮圧に成果をあげて凱旋されました。

藩祖:有馬豊氏公

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