日本を代表する剣豪と言えば、世界的にも有名な「剣聖 宮本武蔵」をはじめ「佐々木小次郎」「柳生石舟斎と宗矩」「塚原卜伝」etcを思い浮かべます。一般的に知られている有名な剣豪たちを凌ぐほどの剣豪が熊本県に存在しました。地元熊本県民でもあまり知られていない、そのお方の名は
丸目蔵人佐長恵 天文九年(1540)〜寛永六年(1629)
天文九年に肥後國八代郡で生まれ、幼い頃より剣術を学び若くして京都へと登りました。そして足利将軍時代、剣聖とうたわれた上泉伊勢守信綱の門下に入り新陰流の奥義を身につけ、同門四天王の一人と数えられるほどの剣豪になりました。すごい御方です。
タイ捨流剣術の創始者
帰郷後、「タイ捨流」という剣術を編み出し九州全土にひろめました。薩摩も示現流の前はタイ捨流を採用していました。タイ捨流は「自分も生かし相手も生かす」新陰流の極意。(活殺剣法)で「タイ」とは【大】【体】【待】【対】【太】色々な意味合いがあり、
【大】は、丸目蔵人の師、上泉信綱の死後「偉大な師を失った」という意味を示す。
【体】とすれば体を捨てるにとどまり
【待】とすれば待つを捨てるにとどまり、
【対】とすれば対峙を捨てるにとどまり
【太】とすれば自性に至る。
最大の特徴は、独特の構えで右半開に始まり左半開に終わり、すべて袈裟斬りに終結する。飛掛り飛廻って相手を撹乱して打つ技、その他にも刀と蹴技・関節技・眼潰を組み合わせた技など、実践での組み技や投げ技、蹴り技までもあります。動画サイトでもご覧いただけます。時代劇でも見たことあるかと思います。殺陣師の方の中にも学んだ方がいたそうです。
■島津藩は藩主以下タイ捨流を修め、佐賀藩の鍋島直正公、筑後國の蒲池鑑広公、柳川城主の立花宗茂公にも相伝されました。
徳川将軍の兵法指南役 柳生宗矩との勝負
その後、タイ捨流を極めた丸目蔵人佐は、柳生新陰流の使い手で同じ四天王の一人で徳川家より「天下一の称」を賜った兵法指南役「柳生但馬守宗矩」に対戦を申し込みました。
結構なことだが、ここで龍虎の争いをして勝負すれば両雄並び立たず日本に二人しかいない達人のうちどちらかを失う事は忍びず、蔵人佐を関西兵法天下一とし、但馬守を関東天下一として二人とも生かしたい。
と対戦を断られたというエピソードが残っています。
剣豪 宮本武蔵にも伝授
佐々木小次郎との勝負に勝った剣豪宮本武蔵も巌流島の対決後に丸目蔵人佐を訪ね、タイ捨流二刀の型を伝授してもらったというエピソードも残っています。タイ捨流にも二刀流があったのですね。
晩年の丸目蔵人佐は、一武村(球磨郡錦町一武)に隠居し、剣を鍬に持ち替え村人たちと七町歩余の山野を開きました。その水路や植林地は今でも活用されています。人柄もよく村人に愛されながら寛永六年(1629)、89歳で亡くなりました。
丸目蔵人佐の墓所
人吉市内から球磨郡湯前町へ向かう国道219号線を20分ぐらい車を走らせると、錦町に入ります。道路標識に「丸目蔵人の墓」という文字が見えてきます。その標識通り向かうのもいいですが、住宅地を通り、道も狭く、また複雑ですので簡単な道順を紹介します。まず、人吉方面から向かうと、右側のセブンのコンビニから右に曲がります。道幅が広いので安心です。
次に左手に学校の運動場が見えてくるので、その交差点から右へ。(上の写真は帰りがけ撮影)
左右に武蔵(偶然でしょうか笑)という工場と駐車場がある通りを過ぎると、農道のような少し細い道になります。案内標識はありませんが、このカーブミラーの場所で右へ入って100mぐらい行くと
お墓が見えてきます。ここに墓所の駐車場があります。
この駐車場の草が生い茂っている真ん中付近に小道があり墓所へ通じています。
こちらが墓所になります。お墓には梵字が刻まれています。お花を供える花立てもあります。手前にある石灯篭は村人の方が製作されました。
手前には一族の方のお墓もあります。同じ熊本県宇土市にもお墓があるようですが、そちらは供養塔だと思われます。先日、偶然末裔の方にお会いできましたが、とても立派な御方でした。
丸目蔵人佐の銅像
墓所への道順でご紹介した国道219号線の交差点から500mぐらい走らせると左側に道の駅 一武があります。その道の駅の裏に「錦・くらんど公園」があり、そちらに銅像があります。
抜刀する瞬間ですね。かっこいいお侍様です。LEGEND OF SAMURAI ですね。
くまがわ鉄道「一武駅」
公園から少し離れていますが、一番近い無人の駅「一武駅」。白壁の塀で情緒あります。球磨川沿いにあるこの私鉄の駅です。城下町の風情を感じさせる外観です。
ぜひお手合わせ願いたい。