【鹿児島県】九州南北朝史跡/鹿児島市谷山城址・菊池城址

 鎌倉時代の終わりにあたる【南北朝時代】。後醍醐天皇、足利尊氏公、楠木正成公、新田義貞公などが有名ですが、その他にも沢山の武士たちが割拠した約60年に及ぶ争乱ロマン。九州にも沢山の史跡があります。

谷山本城址(千々輪城)

 鹿児島市の中心部からやや西に位置する谷山。JR鹿児島中央駅で指宿方面に10分くらいの場所にある慈眼寺駅。そこから歩いて10分ほど住宅地の中を行くと登山道の入口があります。

高くそびえる山では無く、登山道も界隈の方達が登りやすくしてくださってますので思ったより早く登れました。

 頂上には守護神の勝軍(しょうぐん)地蔵を祀る愛宕神社があります。「本城(千々輪)城跡」お城の石碑。元々谷山氏は、鎌倉以前に薩南方面の豪族であった平姓伊佐平治郎良通の支流でした。文治二年(1186)、薩摩・大隅・日向の荘園下司職に補せられた椎宗忠久が、建久七年(1196)に入国しますが、地元の先着土豪の猛反撃を受け威令は行われませんでした。

 このお城は上下二段になっており、下の武者溜まり(控え場所)には伊勢神社があります。建仁三年(1203)谷山氏の祖、谷山信忠公が郡司として入城し居城とします。やがて鎌倉幕府が滅び、続く建武の新政は失敗、南北朝の動乱の時代へ。薩摩では島津氏が武家方(北朝側)に味方すると、地方豪族は三条侍従泰季が来薩するのをきっかけに揃って宮方(南朝側)に属し対立の構図となりました。

 世が混沌とするなか、興国三年、熊野水軍に護られて南朝側の「征西宮 懐良親王」が海路で薩摩へ到着。

迎えたのは、谷山隆信公、指宿忠篤公、穎娃定澄公、鮫島彦次郎公などの平姓の武将たち。そして懐良親王はこのお城で6年間お過ごしになられました。親王はその後、肥後に移られますが、南北朝合一(正中九年/明徳三年1392)後も薩摩・大隅の戦乱はつづき、応永四年(1397)谷山忠高公は島津元久公に敗れ、約200年間居城とした谷山を去りました。その後に入ったのが出水の島津実久公。本家に背いて谷山本城に籠りましたが、島津貴久公に追われました。

菊池城

谷山城から少し離れた山間部、谷山IC近くの谷山御所霊園内にあります。

「ガオーッ』ヒョウのような狛犬さんでしょうか。

こちらは霊園なのでお墓がたくさんありますが、この入口を入ってすぐ右側に「菊池城址」の石碑があります。

 谷山城の谷山隆信公と懐良親王の元へ肥後の菊池より応援部隊が駆けつけます。肥後守護の菊池武光公(1319〜1373)。菊池氏第十五代当主で、やがて九州の南朝勢の雄として九州を席巻する武将です。そして懐良親王を守護するべく、この要害に「菊池城」を造営し親王の御所としました。(銅像の写真は熊本県菊池市ふるさと創生市民広場)

 鹿児島市街から桜島まで見渡せる眺望が良い場所ですが、お墓の横は断崖絶壁。確かに天然の要害です。正平二年、ここから北上し肥後へ入り、八代を経て現菊池市の隈府城へ移った後に御所「征西府」を置きそこを本拠地としました。残念ながら両城とも御城印は無いようです。

●最寄りのバス停:「JR谷山駅」から前のバイパスに出て鹿児島交通「谷山駅前」バス停より「加世田・伊佐峠」に乗り「谷山I.C」で降車して徒歩10分ほど

名物 両棒餅/ぢゃんぼ餅

鹿児島名物の中で独特の形をした「ぢゃんぼ(両棒)餅」。こちらは鹿児島ICで購入。味はみたらし団子風で、一つのお餅に小さな棒が二本刺さっています。元々は谷山に来られた懐良親王へ献上されたのが始まりで、まだ幼い親王が食べやすいように一個に二本の棒を差した心遣いと思われます。中国読みの「リャン(両)」、日本語の「ぼう(棒)」が合わさり、「り』は鹿児島弁で「ぢ」と発音するので「ぢゃんぼ餅」との表記となったようです。

周辺のスポット

ふるさと考古歴史館

谷山にある「ふるさと考古歴史館」。周りは公園と大きな駐車場があります。眺めがいい場所です。こちらは主に考古(古墳)を中心に展示されています。中世の歴史はほとんどありませんでした。営業時間は9:00〜17:00まで。休館日は月曜日。入館料は300円。

谷山神社と御朱印

谷山に御鎮座されている「谷山神社」。駐車場もあり。場所は「ふるさと考古歴史館」の上にありますので、階段を10分くらい登るとすぐ着きます。

「この神社の祭神は懐良親王で、神社が建てられたのは昭和三年(1928)創立されました。祭神である懐良親王は、後醍醐天皇の第9皇子でありますが、興国三年(1342)、谷山隆信の居城谷山城に隣接した御所ケ原に九州平定の最初の征西府を置きました。親王は熊本に移られるまでの6年間滞在されましたが、その記念碑が御所ケ原にあります。」写真:後醍醐天皇

御朱印もあります。

日本最南端の電停 谷山

「日本最南端の電停」という金属製の標柱があります。標柱によると「鹿児島市交通局の前身である鹿児島電気軌道(株)が大正元年十二月一日に武之橋電停から谷山電停間において電車運行を開始した」とありました。駅舎は顔のように見えます。ここからJR谷山駅へは徒歩10分くらいの場所にあります。

伝・豊臣秀頼公の墓

 案内板にて「大阪城落城した時、豊臣秀頼は島津氏を頼って薩摩に落ちのびたと言われています。「秀頼の薩摩落ち」の伝説です。高さ3メートルのこの塔は秀頼の墓と伝えれていますが、下からは何もでなかったそうです。初代谷山氏の供養塔という説もあります」住宅地の中にあり分かりにくい場所です。ご訪問される方はお静かにお願いします。