【三重県】忍者がいるお城/伊賀市伊賀上野城①

伊賀流忍者発祥の地、松尾芭蕉翁生誕の地としても有名な三重県伊賀市。特に少年ならば幼い頃より一度は忍者の里をのぞいて見たいと思った方も多いかと思います。早速インパクト抜群の伊賀鉄道さんに乗り、忍者の里である上野市駅へ。

二両編成のラッピング忍者列車。前後には忍者の顔、

側面にはニャンコたちが笑顔で並んでいます。しかし忍者っぽいのは外観だけではありません。中に入ると

荷物棚に忍者さんが忍んでらっしゃいました。吊り輪も手裏剣風で凝ってます。その他にもありましたが眺めているうちに上野市駅へ到着。

駅名が忍者市駅と表記されていて、駅のあちらこちらに忍者が潜んでました笑。ホームの後ろにに見えるお城は「伊賀上野城」。すぐ近くなので歩いて行けそうです。

ロッカーは改札口の横に。上には忍者がしっかり?見張ってくれております。伊賀にきた実感が湧きます。駅員さんに言えば、電車に乗らなくても通してもらえて使えます。グッズなども販売されています。

上野市駅の上に大きく「忍者市駅」。小さい忍者さんもお出迎え。

列車のラッピングを見ておわかりかと思いますが、デザインされたのはやはり松本零士さんでした。「平成九年、ゆめが丘住宅地がまち開きし、同年に近鉄伊賀線にて松本零士氏がデザインした初代忍者列車が運行を始めました。「鉄郎・メーテルブロンズ像」はもともと平成10年に1周年記念として住宅地に設置しましたが、それを平成25年に伊賀線の利用促進を目的として、また沿線の観光スポットとして上野市駅前へ設置しました。」アニメ界の大スターもちゃんとミニマスクしておられます。

伊賀上野城

上野市駅から地下道を歩いて10分。伊賀上野城へ到着。白亜のお城「白鳳城」とも言われます。下の枯れ枝は桜の木なので、春は綺麗なピンクに染って綺麗になる事でしょう。

 天正十三年(1585)豊臣秀吉公からの命で大和国から伊賀国上野にお国替えされた筒井定次公が最初の築城主。三層の天守と北に表門を構えました。秀吉公が没後、関ヶ原の戦いで東軍徳川家康公が勝利すると、豊臣家の継承者だった定次公は慶長十三年(1608)失政を理由に改易されます。

 替わって伊賀と伊勢の城主となったのが伊予今治城からきた東堂高虎公。築城の名手だった高虎公は対豊臣家を想定し、高さ30メートルの高石垣で本丸を囲み、五層の大天守を築く改修工事に着手。しかし完成直前の慶長十七年(1612)暴風雨で倒壊、その後大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したため、備えの心配がなくなり城普請は中止に。

 現在の天守は昭和十年(1935)地元の名士であった川崎克己氏が私財を投じて純木造の復興天守を再建され、伊賀文化産業城と称しました。

お城の周りの名物高石垣は「日本一・二の高さ」で約30m、体感してきます。

高いです。風が下から舞い上がってくる感じです。それにしてもこの高さに加えて綺麗な曲線美はさすが高虎公と石工集団の穴太衆といった感じです。ちなみに日本一は大坂城で32m。さて、天守に向かいましょう。

お城の入口で入場料を払い中へ。掲示板にはグッズや御城印と御城印帳(便利です)などお土産や刊行物などが売られていました。

日本百名城のスタンプもありましたよ。

こちらは「忍び井戸」。「大坂城の攻略が不首尾に終わった時は上野城に籠城する」という秘命を家康公から受けた高虎公は当時城郭構築の随一とうたわれた西島八兵衛尉之友を奉行として抜擢。三年の籠城に耐えるための兵糧と水と塩の確保のため、小天守内に井戸を掘りました。浅い井戸では水が湧かないので50もの深井戸を掘り、井戸側から横へを三箇所掘って抜け穴とした。抜け穴はお城から四方に長さ一里にもおよび、兵糧の搬入や連絡、援軍の引き入れや忍びの者による撹乱などに使う予定でした。

1階には藤堂高虎公の兜や甲冑、史料などが展示されてます。

藤堂高虎公の肖像画と有名な秀吉公から贈られた巨大ウサ耳兜。

あっこんなところに!

眺めは爽快です。高い建造物なども無く、遠くまで見通せます。

お城の台所という場所を散策。お城が隠れるほどの沢山の枝は桜の木でしょう。桜の季節は特等席。想像を超える映えになる事でしょう。次は場内にある忍者屋敷へ向かいます。ここから先はまた。

その②へ続きます。

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