【富山県】加賀藩前田利長公の隠居城/高岡市 高岡城跡

JR高岡駅から歩いて行ける距離にある「高岡城跡」。整備された高岡古城公園の中にあります。御城主は、前田利家公の嫡男で加賀前田家二代当主 前田利長公。加賀藩初代藩主でもあります。 

 慶長十四年(1609)三月十八日、富山城が大火で炎上し焼失。富山に隠居していた加賀藩二代藩主前田利長公は、亀津城に一旦避難したのちにすぐさま新しい城を射水(いみず)郡関野に築城すべく幕府に許可を求めました。

許可が下りると、縄張りを築城の名手と謳われた高山右近南坊に担当させ、わずか六ヶ月で高岡城を築城、その年の秋には高岡城と命名し隠居城として利長公が入城しました。それから逝去されるまでの六年間、お城だけでなく城下町も整備しながら過ごされました。しかし、その六年間は病と闘う苦悩の日々でもありました。・・※三の丸茶屋のジオラマ

慶長十六年(1611)利長公は、癰(よう)を病み歩行困難となってしまいます。その年、大坂方(豊臣家)より使者が訪れ助力を求められ、東国との板挟みになり利長公は悩みます。翌十七年(1612)、領地の十万石を金沢へ返上、家臣三十九人減らし六万石となります。病状はますます悪化の一途へ。

慶長十九年(1614)三月、キリシタン禁制のお触れにより高山右近が妻子と共に放逐される事件が突発します。その後の対応に追われながら五月に入ると容態が急変し、三代藩主の利常公が駆けつけた時には、既に利長公が息をひきとられた後でした。享年五十三。

翌年の元和元年(1615)一国一城令により高岡城は廃城となり、本丸にあった建物は破却されました。その後、三代藩主利常公が米蔵・塩蔵などの収納庫を設け、歴代加賀藩主がそれを管理維持し続けて明治維新を迎えました。

明治三年(1870)、金沢藩は町民救済と農地増殖を目的に高岡城址を民間に払い下げる布達を出し、明治五年(1872)の廃藩置県後、七尾県は水濠を除く31.066坪を民間に払い下げる決定をしました。

これに対して、高岡の象徴である「古御城」を壊すことについて、地元知事や町人たちの反対の声が集まり、公園化して射水神社を御鎮座いただくことで決し現在に至ります。

城内にある休憩所「三の丸茶屋」では「御城印」の他、ジオラマやお土産品が販売されています。ただ店休日は「月曜日」ですのでご注意を。

御城印は2タイプあります。

越中総鎮守一宮 射水神社

城内にある「越中総鎮守一宮 射水神社」。御祭神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

おみくじにも「水みくじ」や「恋結びみくじ」などがあります。

水みくじの結果は・・大吉でした!絵が現れるのは珍しいです。

四季にちなんだ御朱印がいただけます。

高岡市立博物館

公園内にある高岡市立博物館。休館日は月曜日。午前9時〜午後4時半(最終入館)まで。