【宮城県】独眼竜政宗公の居城と七夕まつり/仙台市 仙台城・瑞鳳殿

戦国武将の中で抜群の人気を誇る伊達政宗公。伊達家第十七代当主で仙台藩62万石の初代藩主。特にテレビドラマなどで知った方も多いのではないでしょうか。居城としたお城と墓所がある仙台を訪れ、政宗公の数々のロマンに思いを馳せましょう。

JR東日本 仙台駅

JR仙台へ到着。大きい駅舎ですので外観を撮影するのも大回りしないといけません。横に長い駅舎と歩道橋が特徴的な仙台駅の建物。歩道橋の脇にも木が立ってる!さすが杜の都の駅。七夕まつり期間中なので賑わっています。

駅構内には、とても大きな大谷選手の吹き流しが飾られました。やはり映像で見るのと実際に見るのとでは 全然違いますね。他にも吹き流しが沢山ありました。

伊達政宗公が始めたという七夕祭り。当時は旧暦の7月7日に行われていました。TELという会社は、東京エレクトロンという半導体関連の会社。色鮮やかですね。

明治に入り新暦に変わった頃から一旦は廃れ行われなくなりましたが、昭和になり復活、毎年8月6日〜8日に行われています。こちらは「阿部かま」という昭和10年(1935)創業の仙台市の蒲鉾店で名物「笹かまぼこ」が有名なお店。黄色の吹き流しが目立ちます。

仙台七夕まつり

よく映像で見かける商店街の風景ですね。こちらは郵便局の吹き流し。

こちらは何かのキャラでしょうか。ひよこ隊長にも少し見えますが。

こちらは人気ラーメン店の一蘭の吹き流し。赤と黒と緑のコントラストが鮮やかです。

大きな交差点には、色鮮やかな短冊が風になびいていました。お祭りの雰囲気がいいですね。さて、そろそろ目的の仙台城へ。

仙台城:雅名青葉城

仙台の観光地筆頭といえば、伊達政宗公の居城「仙台城」。雅名は青葉山頂にあるため「青葉城」。もともと奥州国分氏の始祖である千葉五郎胤通が創建した説があり、国分氏が居を構えた本丸付近に千体仏が祀られていたため、「千体・千代(せんだい)」と称されていたという。

天正十九年(1591)秀吉公の命により葛西・大崎の地に移封され一旦は玉造郡の岩出山城に入った政宗公でしたが、辺境にあり不便なため新城の候補地を探しました。榴ケ岡、大年寺山、石巻日和山などをあがりましたが、結局仙台に決定。慶長五年(1600)関ヶ原の合戦後の十二月より縄張りが行われ、慶長七年五月にが完成し八月に移転が完了。

南側↓は断崖、東側→も広瀬川を望む断崖、西側←の尾根は人馬叶わぬ堀切。天然の地形を利用した堅固な要害。本丸には慶長十五年(1610)政宗公が建築した桃山書院造りの御殿があり、大広間は千畳敷と呼ばれました。さらに中には「帝座の間」が作られ、天下人を目指していた政宗公の思いが込められていました。

江戸時代に入ると、戦国時代の不便な山城より平山城のような利便性が求められ、二代忠宗公の代の時に二の丸が北の麓に増築され山頂の居館が移されました。本丸内の天守台には五層の天守閣が築かれる予定でしたが、実現しませんでした。

幕末の仙台藩

幕末期の仙台藩主は十三代伊達慶邦公。東北随一の大藩として但木土佐成行、坂英力秀通が中心となり奥羽列藩同盟の白石会議を主催、列藩同盟の盟主となり官軍と戦いましたが、ついに降伏。慶邦公は江戸で謹慎閉門、子の宗基が実高二十八万石にて家名相続が許され、但木、坂は斬罪に処されました。

明治に入り大部分の建物は解体され鎮台第二師団司令部が置かれました。まぬがれた脇櫓と大手門はのちに国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲により焼失。大手門は、秀吉公から与えられた肥前名護屋城の城門を船で運び移築されたもので後水尾天皇から賜った菊桐紋が配されていました。現在の建物は昭和四十二年(1967)に再建。

御城印

仙台城内青葉城展示館にて御城印500円です。伊達家の家紋と政宗公の兜に付いていた三日月が入った御城印は、城内お土産品店で販売されています。

伊達家菩提寺 瑞鳳殿

「下馬石 寛文三年七月十二日二代忠宗公七回忌法要の際、四代綱村公荘子経吉に命じて大阪天王寺の下馬碑を模写せしめ坂下南側に立てた。昭和四十年十一月八日山門前に移した。書体を点画方式という。」

山門

「当山は寛永十四年(1637)仙台藩祖伊達政宗公菩提の為、二代忠宗公によって建立された臨済宗宗妙心寺派の寺である。山門は東京白金町伊達屋敷の門を模したもので昭和四十六年十月三日完成した。」

伊達政宗公の霊屋 瑞鳳殿

瑞鳳殿の開館時間は、通常9:00〜16:00ごろまでのようですが、訪れた日は特別に夜8時まで開館していました。入館料は大人570円、中高生410円。

瑞鳳殿→❷資料館→❸戊辰戦争弔魂碑→❹感仙殿(仙台藩二代藩主伊達忠宗公の墓所)→❺善応殿(三代藩主伊達綱宗公の墓所)→❻妙霊界廟(仙台藩九代時藩主伊達周宗公、十一代藩主伊達斉義公、十一代藩主夫人芝姫のお墓)

「政宗は生前、ホトトギスの初音を聴くため、ここ経ケ峯に登り、同行に家臣に死後は当地へ墓所を造るよう命じました。この遺言に従い、寛永13年(1636)年5月24日、江戸で70年の生涯を終えると、仙台に選ばれ、ここ経ケ峯に葬られました。

霊屋瑞鳳殿は翌年の10年完成しています。木造三間四方の建物は漆極彩色によって仕上げられた、桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛たる廟で、蟇股に瑞鳥、欄間に飛天、花道窓に鳳凰、隅柱に獅子頭など躍動感あふれる彫刻が施されていました。

霊屋内部には須弥壇が設けられ、政宗の尊像(御木像)が安置されており、壁や天井には仏画や鳳凰などが描かれていました。

こちらは政宗公の家臣だった片倉小十郎重長が奉納した石燈籠がありました。

瑞鳳殿・仙台城へ行くには、仙台駅前から周遊バスが出ていますので便利です。

御朱印

こちらは瑞鳳殿売店で販売されている「御集印」200円。仙台藩伊達政宗公辞世の和歌付きです。

「曇りなき 心の月を先たてて 浮世のやみを てらしてぞ行く」

伊達氏の発祥

文治五年(1189)奥州征伐の源頼朝軍に従軍した常陸国の中村一族は、その功により伊達郡を賜り以後、伊達氏と称した初代朝宗は高子カ岡館に城館を構えて鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請しました。よって伊達市保原町高子が伊達氏発祥の地と言われています。写真:伊達市霊山(福島県)

その後、天文十七年(1548)第十五代晴宗の代に伊達地方から居城を米沢に移し、永禄十年(1567)八月三日、第十六代輝宗と最上義守の娘義姫との間に長男として政宗公が米沢城内で産まれました。前年義姫の懐妊を知った輝宗公は大変喜び、領内の大聖寺住職に夫人の安産祈願を命じました。

受けた鳥海和尚は、文殊堂(知恵の神様)にて一週間こもり祈願したのち、湯殿山へ行き一週間断食し冷水をかぶりながら「どうか我が命にかけても..達者で知恵の秀でた子をさずけ給え..」と重ねて祈願しました。翌年、義姫より玉のような男の子(政宗公)が産まれました。

父輝宗公は、その子に「宇宙の大本願、宇宙の支配者」という意味で、梵天丸と命名。その申し子は天正五年(1577)十一月十五日に11歳で元服し「政宗」となりました。その翌々年の天正七年七月二十日、13歳で早くも三春城主田村清顕の娘、愛姫(めご姫)をめとりました。

幼少期に患った疱瘡で右目を失明しますが、その後18歳で家督を継いだ政宗公は、十七代当主として幾多の危機を乗り越え仙台藩(最終的に六十二万五千石)を東北の盟主へと導きました。もちろん群雄割拠の戦国時代を生き抜くのは並大抵の事では無く、何度も絶対絶命のピンチが訪れました。

父輝宗公の死

天正十三年(1585)十月八日、この日は政宗公にとって悲劇の日となりました。愛姫の田村氏に対して傘下の大内氏・畠山氏が反発、会津の蘆名氏を頼った事で関係がこじれ、ついに蘆名氏との同盟が破綻。やがて交戦となり大内氏は滅亡、畠山氏は降伏しますが、父輝宗公が二本松城主畠山義継に拉致されてしまいました。

輝宗公捨て身の「構わず撃て!」の号令により敵諸共射たれ没。輝宗公42歳。政宗公19歳の時です。悲しみのうち、父の遺骸を資福寺(夏刈)に葬り霊を慰めた政宗公は、父の一周忌を待たずに、すぐさま二本松城の畠山氏を滅ぼし、重臣の片倉景綱(小十郎)を城番にして畠山氏の旧領地を与えました。

最上義光公との抗争

「伊達政宗!」と聞くと「最上義光!」と連想する方が多いのではないでしょうか。なので最上義光公との戦いを中心に探訪します。

【山形県】最上氏五十七万石の居城と花笠祭り/山形市 山形城跡の続きになります。

最上氏との対立❶

天正十五年(1587)最上領内に近い伊達領最北端の鮎貝城主鮎貝宗信が、突如最上氏に寝返りました。鮎貝は山形から米沢に通じる街道の要衝、鮎貝氏父子の対立に目を付けた最上義光公の戦略といわれています。

鮎貝盛次(父)の要請で、政宗公は早速出陣し一気に鮎貝城を落城させました。宗信(子)は最上領へ逃亡し、政宗公対義光公の対決第一幕は政宗公が勝利しました。写真:伊達政宗公騎馬像(仙台城内)

最上氏との対決❷

翌天正十六年(1588)正月、伊達領黒川郡北方の大崎一族に内紛が起こり、玉造郡岩手沢城主の氏家吉継が政宗公に助けを求めて来ました。今度も政宗公は救援軍を北方へ向かわせ、大崎氏の加美郡中新田城を攻撃。それを知った最上義光公は、すぐさま大崎氏の救援に向かいました。

何故なら最上氏は、大崎氏(元は斯波氏)の分われであり、また大崎領を奪われてしまうと東からも伊達の脅威に怯えることになるためです。今度は伊達側が大敗、泉田重光・深谷月鑑が人質となり和解。大崎氏・義光軍が勝利しました。写真:最上義光公騎馬像(山形城内)

母義姫の80日間峠駕籠

実父最上義守の心配事が現実となった伊達氏と最上氏の対立激化。それに驚いた政宗公の母義姫(お東の方)は、突如自ら駕籠に乗り両家の間に割って入る形で国境の村上郡と置賜郡境の中山峠に向かいました。

天正十六年(1588)五月、愛姫はこの時40歳。実兄と我が子の戦いの仲裁に乗り出した義姫を乗せた駕籠は山中を何日もそのまま動かず、両家の重臣たちに和平への書簡を送り続けました。

伊達家家臣:片倉景綱宛

愛 姫

ここもと興をよせ候、ことをおひやめ候ハバかたくかたく無事の義ハ切れ申すべきよし思ひ候(ここに駕籠で来たのは、両家が争いをやめ和睦が固く守られるように訴えるためです。)

愛 姫

第一何を申し候ても、泉田方をとりのべ候ては無事の意趣も候ばず候、とかくみづから輿もよせ申し候て、ひざつめさいそく申し、泉田をまずまず受けとり申すべく候かくごにて候(まず人質になっている泉田重光の釈放を直談判でお願いする覚悟です)

籠は80日も峠で動かない妹の執念に、流石の義光公も悲鳴をあげ

最上義光公

今までそなたより、はやはや無事の御望み成り候事に候あいだ、この度自筆にてふみまいらせ候、そのもとまで御出の事に候へば、この分にとりなし申し候事、諸国に申合せ候て無事候事、我々一代の恥じよく此上なく候へ共御ためもだしかたく候事に候。

ついには自筆の書状を送り和睦を守る約束をしました。

関白秀吉公から私戦禁止令

そんな最中の天正十六年(1588)十月、京から使者が書状を持って政宗公の元を訪れました。前年に九州征伐を終えた関白秀吉公は「関奥両国惣無事令(私戦禁止)」を発令し、実施を徳川家康公に任せていました。もちろん一連の両家の戦は知られており上洛せよとの内容。最上家にも書状が届けられ、そこで天下の大勢を知った義光公は……

最上義光公

政宗我々の間の儀は、骨肉の事に候へば、他に異なり懇切致すべきの段、京都三河辺りまでその隠れなく候ひて向後入魂申すべきの在憶までに候。

と返答をしてこれ以上の抗争を諦めました。一方、政宗公は、この書状を無視し亡き父の葬い合戦を続行。天正十七年(1589)七月、会津の名門蘆名氏との「摺上原の戦い」に挑みます。

因縁の戦いに勝利した政宗公は黒川城(会津若松城)へ入城。蘆名領も手中に収めたことで伊達領は一気に拡大しました。が、当然秀吉公は激怒し「奥州仕置き」として旧蘆名の領地は召し上げ、小田原城攻めへの参陣、その後に起きた葛西大崎一揆の首謀者としても疑われ、絶対絶命のピンチ。

なんとか改易は免れましたが、伊達氏は米沢城を追われ奥州岩出山城へ移され代わりに黒川城には蒲生氏(地名を若松に・城を鶴ケ城と命名)が入り、後に豊臣五大老の上杉景勝公が城主となりました。

慶長出羽合戦

慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の発端となった直江状。激怒した徳川家康公は会津(上杉氏)討伐に向かいましたが、そこに「石田三成挙兵」の知らせ。引き返せば西軍上杉氏に背後を突かれてしまうため、家康公は東軍の奥州諸将へ動員を命じました。東北での関ヶ原「慶長出羽合戦」の始まりです。

伊達政宗公は、奪われた旧蘆名領の返還を条件に東軍として参戦し、早速上杉領へ進軍しました。一方、最上義光公は米沢口の先陣を命じられ出陣し西軍上杉・直江軍を迎え撃ちます。写真:最上義光公騎馬像(山形城)

最上領の長谷堂城にて両軍は交戦する形となりました。上杉・直江軍三万、最上領の長谷堂城にて交戦となりましたが、最上勢は約1000、対する上杉・直江勢は約20000。あまりの劣勢に義光公は伊達氏に援軍を要請。家臣の片倉景綱は両軍の消耗を待つべきと進言しますが断り、

伊達政宗公

年月少し情けないこともあったが、その宿怨を打ち捨てて あなた様をお引き立て申そう

と回答し出陣、最上・伊達両軍が力を合わせ戦いました。その戦いの終局は、あっけなく

上杉軍に知らされた「関ヶ原にて西軍敗北」の報で、やむなく上杉・直江軍が撤退し決戦は終結。しかし、この戦いの功で最上氏は大幅に加増され57万石、伊達氏は60万石と共に大大名になりました。

最上義守公

たとえ出羽奥州で戦して輝宗が一旦勝利を得ても、最上の主となることはない。義光が戦に勝つとも奥州を手にすることもない。両家とも佐竹上杉などに討たれるだろう。もし、我意に背いて伊達最上仲違いすれば、草葉の陰にて泣き崩れ、この義を守れば我ら霊は心良く子孫の祀りを受けるだろう。

祖父最上義守公の言われた事が現実となり、またその助言が両家を護ったと言っても過言ではないでしょう。

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