楠木正成公の嫡男 楠木正行公
南北朝時代に忠臣として活躍した楠木正成公の嫡男であり、父が亡くなった後、北朝側の高師直と戦った南朝側の武将「楠木正行(まさつら)公」。延元三年/建武五年(1338)北畠顕家公、新田義貞公が散り、翌年には後醍醐天皇も崩御。
東国の北畠親房公も敗れて吉野に還るなど南朝側の劣勢が顕著な中で、河内から鬨の声をあげたのが小楠公(楠木正行公)でした。これは南朝側の諸将たちに盛りかえす勇気を与えました。写真:JR四条畷駅の楠木正行公像
楠木正成公との別れの地「桜井駅」はこちら
JR西日本 四条畷駅しじょうなわてえき
最寄りの駅のJR四条畷駅。ゆかりの地の近くにあり便利です。こちらから各所へ路線バスや徒歩で目的地へ向かえます。まずは四条畷神社。
建武十五社四條畷神社しじょうなわてじんじゃ
飯盛山の方へ一直線に長く続く参道は、麓の四條畷神社へと続いています。「畷」とは〝なわて〟と読み、田んぼやあぜ道など泥にまみれた事で、当時の四條畷はそういう湿地帯でした。
こちらが四條畷神社の御本殿。綺麗な虹が映えてます。御祭神は楠木正行卿、楠木正時卿、和田賢秀卿、他殉節将士二十四柱です。明治天皇の思召しにより明治二十二年に別格官弊社に列格仰せ下され翌年鎮座。摂社は御妣神社 正行公御母。
「楠正行公は楠正成公の嫡男であり、正成公の大楠公に対して小楠公と申し上げる卿は、延元元年(1336)湊川へ出陣をせられる父君と桜井の駅にて訣別されたが、時に御年十一歳爾来(以来)母君に孝養を尽くして臥薪嘗胆練武に励み報恩の至情を捧げた
正平二年(1347)十二月後村上天皇に拝謁国難に殉せん事を誓い如意輪堂の扉に鏃をもって決死の和歌を遺された。翌年正月敵将高師直の軍勢八幡を発し河内に至るや正行卿一族は兵よくこれを迎え撃ち獅子奮迅さられたが、満身に創を受け遂に殉節せられた時に御年二十二歳の青年であった
この正義に燃えたる小楠公の事蹟と吉野朝史の一齣は四條畷に永く留められ万古に変わらぬ飯盛山は青少年の道義昂揚を叫び老松は史蹟を語っている。」
「楠木正行公は、大阪府千早赤阪村に生まれました。南北朝時代、不利を覚悟で正統の天皇を守うり明治維新の思想的原動力ともなった楠木正成公の嫡男である。」戦の天才と言われた父の楠木正成公とは違い、正行公の仁愛溢れる人物像を表す二つの合戦があります。「渡辺橋の戦い」と「四條畷の戦い」です。
関係ありませんが、不二家のペコちゃんが時々境内に現れます。参拝した時期は秋の「七五三」でしたので、千歳飴を持たれてます。フォトスポットにもなっています。
御朱印
こちらは四條畷神社の御朱印で楠木家の菊水紋の朱印があり、南北朝時代に活躍した忠臣を祀る建武十五社の一つです。
渡辺橋の戦い
正平二年/貞和三年(1347)九月、河内の八尾城を落とし京へ進軍を目指す楠木正行軍に対し、北朝幕府は細川顕氏を大将として軍勢を向かわせますが、藤井寺にて撃破されました。慌てた北朝幕府は十一月に山名時氏を増援、細川軍を立て直し再度討伐に向かわせましたが、摂津の住吉、天王寺にてまたもや正行軍に撃破されました。その際、敗走する細川軍の兵達の大勢が「渡辺橋(現天満橋と天神橋の間に架けられていた橋)」から川に落ちました。
季節は霜月(11〜12月)で、川の水はとても冷たく凍りついていました。そこへ雨あられのように落ちた敵兵たち。川は流される者や溺死する敵兵で溢れかえりました。普通ならこれ幸いと放置するところですが、楠木正行公は意外な命令を下しました。それはなんと
味方の兵は耳を疑いながらも、敵兵五百人を川中から救いあげました。それだけでなく、凍河の水に凍えて半死半生の敵兵たちの小袖を脱がし新しい小袖に着替えさせるばかりか、さらに薬も飲ませ傷の手当ても行いながら四〜五日も介抱し、最後は騎馬の兵には馬を与え、具足を失った者には具足を与え送り返したのです。
されば、敵ながらその情けを感ずる人は、今日より後心を通ぜんことを思ひ、その恩を報ぜんとする人は、やがてかの手に属して後、四條畷の合戦にて討死をぞしける
捕虜の一部は恩情を感じ、そのまま正行公に帰服して翌年正月の四條畷の戦いに従い討死したという。
四條畷の戦い
正平三年/貞和四年(1348)正月五日の朝、楠木正行公に率いられた兵三千騎は霧が包む中、菊水紋の旗を流しつつ四條畷の宿敵高師直(こうのもろなお)の本営へ向かいました。対する北朝軍は北進する楠木正行軍を挟撃するべく八幡から南下。高師直勢本隊六万余、西から挟撃する兄の高師泰勢は二万。合わせて八万を超える大軍で迎え撃つ形となりました。写真:高師直と思われる肖像画(文化庁蔵)
その上で北朝軍は、楠木軍の進路にあたる飯盛山に白旗を旗印とする小集団「白旗一揆」、その東方に「大旗一揆」を置き、さらに佐々木道誉の軍を生駒山に配置するという周到ぶり。これに対する南朝軍は、四条隆資の指揮する二万の野伏が多くの旗を押し立てて、山に配置された一揆勢を牽制する形となりました。
楠木正行公最後の戦い
午前十時頃に「四條畷の戦い」の戦端が開かれました。兵力で勝る北朝軍の圧勝かと思われたこの戦いは、午後五時に終結する実に七時間に及びました。その理由は、南朝楠木正行軍の三十数回に渡る奮闘の凄さにありました。
度重なる正行軍の攻めに苦戦する師直軍でしたが、用意周到に計られた挟撃の前に正行軍三千騎は十分の一の三百騎余りまで減らされてしまいます。更に減らされながらも正行本隊は、ついに50m先の高師直の本隊に到達することができました!正行公は高師直を探します。
高武蔵守師直これにあり!
と大声で名乗り出た者を見た正行公は、勇壮に襲いかかり師直の首を見事討ち取りました!
多年の本懐達したり、人々これを見よやぁ!
と大声とともにその首を宙に投げ上げて正行本隊は大喜びました。しかし、しかし…その首は師直ではなかったのです。周りの兵から
それは上山六郎左衛門なる者の首である。
と告げられます。帰服した捕虜で師直の恩情に身代わりになった影武者上山六郎左衛門だったのでした。普通ならば、ここで激怒し首を投げ捨てたりするところですが、正行公は
さりながら、その豪気は殊勝なり。他の首に紛れないようにしてやらねばなるまい。
こう言い、自分の小袖の片袖を引きちぎり首を包み、堤の上に置いたのでした。他の武士とは違う正行公の優しさに〝武士の情け〟を感じます。戦闘は尚も続き、とうとう三十二人になってしまった正行軍。弟の正時公は眉間と喉を射られ、正行公は膝に三箇所、右の頰、左の目尻を射られ二人とも身がすくみ、もはや動けません。
今はこれまでぞ。敵の手にかかるな!
そう言い放つと兄弟で刺し違え、残兵三十二人も自害し重なり合って息絶えました。楠木正行公二十三。以後、仁愛の若桜が散った四條畷は「南北朝の聖地」となりました。
写真;博多祇園山笠(福岡)
楠木正行公墓
楠木正行公の墓所はJR四條畷駅から西へ400mほど離れた地にあります。
拝殿と石柱に囲まれた中にお墓があります。周りも綺麗に清掃されていて横には社務所のような建物がありますが、お留守のようでした。
和田賢秀公墓わだけんしゅうこうぼ
JR四条畷駅バス停①から京阪バス「寝屋川市駅(東口)行き」に乗り、「塚脇」バス停で降車すると
バス停の裏に和田賢秀公墓があります。とても綺麗にお手入れされています。
「このお墓は正平三年一月五日楠正行公が、四條畷で敵将高師直の大軍と戦い討死にされた時、共に戦われた和田賢秀公の墓です。賢秀は源秀ともいわれ、正行公とは従兄であり、歴戦の勇将で新発意ともいい、
伝説によると賢秀公討死の際、敵の首に噛み付き睨んで放さず敵はそれが因で死んだ。以来、土地の人は賢秀公の霊を歯噛神様として祀っている。」と解説してあります。
四條畷市立歴史民俗資料館
和田賢秀公の墓から徒歩10分くらいの住宅地の中にある歴史民俗資料館です。営業時間は9:30〜17:00まで。休館日:月曜日。
展示物は主に民俗資料館なので、生活を中心とした展示物の他、古墳時代の生活などが主です。
こちらでは飯盛城の御城印があります。飯盛山山頂には楠木正行公の銅像が建っています。
JR西日本 四條畷駅
JR西日本四条畷駅。こちらが最寄りの駅になります。史跡群が比較的近くに点在していますので、短時間で巡れます。
駅舎内には楠木正行公の銅像も展示されています。
早や、あの者共も救い上げてやれぇ!