えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン高田駅
新潟上越市の直江津駅と妙高市の妙高高原駅を結ぶ「妙高はねうまライン」の途中駅です。〝えち鉄〟ET127系に乗って、一路高田駅へ。
外に出ると、お城のような瓦屋根と煉瓦造りが合わさった立派な駅舎で驚きました。駅構内には、観光案内所で観光マップなど情報が得られます。ただレンタサイクルは置いてなく、借りるためには少し歩いたお店にあるようです。
マップを見ると、高田駅前からマス目のように並んだ通りを右斜めに向かえば、20分くらいで高田城へ着きそうです。歩いて向かう事にしました。
のんびり歩きながらお城を目指します。緑が多くなってきました。外濠の跡でしょうか、整備された小川が真っ直ぐに囲むように流れています。
すっと視界が拓け、朱色の橋と沢山の蓮の花たちが現れました。どうやら内濠に着いたようです。
快晴のお昼でしたので、多くの蓮の花が咲いていました。九州の福岡城も似たような感じですが、こちらのお堀は特に広い。元々この蓮たちは、明治維新後の財政難を救おうと地元の地主さんがレンコン栽培事業を始めたのがきっかけのようです。
高田城址から見える妙高山とは、新潟と長野を代表する山々「北信五岳(妙高山、黒姫山、斑尾山、戸隠山、飯縄山)」の中で一番高い山で標高が2454mあります。
高田城址
高田城は別名:鮫ケ城、高陽城とも呼ばれ、高田平野の中心、菩提ケ原に築かれた近世の典型的な平城で、本丸、内濠、外濠に囲まれていました。築城主は、徳川家康公の六男である福嶋城主松平忠輝公で、完成間もない福嶋城を廃城にして慶長十九年(1614)高田に城を築きました。
その理由は加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗するため、より堅固な城が必要だった事と諸大名に普請(ふしん)させて経済的な圧迫を加えるのが目的だったと思われます。普請には、仙台城主伊達政宗公、米沢城主上杉景勝公ら十三名の大名が、徳川家康公の命令で参加しました。
当時の本丸御殿や櫓などは明治三年(1870)に焼失してしまい面影はありませんが、復興天守として三層櫓(平成五年建立)が現在建っており、「高田公園」として市民の憩いの場となっています。特に春は「日本三大夜桜の一つ」に数えられ、花見客で城内はいっぱいになるのだとか。
わずか四ヶ月で完成した高田城には石垣がありません。大阪冬の陣の直前でもあり、石材を集める余裕が無いほど急がされ、天守閣も建てる事が出来ませんでした。本丸西南部に建てた三重櫓がその代用となりました。
復元された鉄筋コンクリート製の三層櫓の中は、とても綺麗なうえ、当時のような木造の雰囲気が再現されています。一階、二階には高田藩の歴史を伝える掲示物や具足の展示物もあり、それらを見ながら三階まで上がり展望する事ができます。
三層なのであまり高くはありませんが、お濠とそれを囲む緑の大地、遠くには妙高山でしょうか山々を眺める事ができます。時折吹く風が心地よかったです。
初代城主松平忠輝公は、大坂夏の陣で失敗し、舅の伊達政宗公とはかり父徳川家康公に叛いた事で、入城後わずか二年の元和二年(1616)に領地を没収され伊勢の朝熊へ流されました。その後、酒井家次公、松平忠昌公、松平光長公へと城主は変わりながら高田藩二十六万石を治めました。ちなみに光長公の母勝子は徳川二代将軍秀忠公の三女でした。
松平光長公の治世
松平光長公は、元和元年(1615)11月、北庄(福井県福井市)で生まれ幼名は仙千代。父は松平忠直公、九才で家督を継ぎました。寛永元年(1624)十歳で、北庄城主から高田へ転封を命じられました。幕府は、尾張・紀伊・水戸の三家に次ぐ待遇を与え四家と称し、越後中将家とも呼ばれました。寛永十一年二月、母と共に江戸屋敷から高田に入り藩主となった光長公は、
まず領内の開墾事業を進め、最初26万石ほどだった石高が36万石以上にまで増やす事ができました。その後の度重なる凶作や大火、寛文五年には地震にも見舞われますが、幕府から借金して城郭及び城下町、交通網の整備と復興に尽力され、領民と共に凌ぎました。現在の高田地区の街並みはその時に出来たと伝わります。
また、町人に対し減免した事で産業・商業が栄え、高田の城下町は活気にあふれ大変賑わいました。しかし、そんな名君光長公の代が終わりを迎える事になりました。延宝二年に嫡子綱賢を病で失ったことで、その後継を巡って家中で分裂騒動が発生。家老の小栗美作守も巻き込む「越後騒動」に発展。
その結果、天和元年(1682)幕府から高田藩は没収され、関係者も厳罰に処さられました。光長公は改易、松山城主松平貞直公の預かりの身となり、当地にて7年過ごした後、許され移った江戸の榊原邸にて93歳で没しました。歴代藩主で最長だった58年間、光長公の治世により高田領内の人口が飛躍的に増えたと伝わります。
その後、貞享二年(1685)高田藩が再度立藩され、稲葉正通公、戸田忠真公、松平越中守家を経て、最終的にな榊原政永公が十五万石で入城し、明治四年の廃藩置県まで越後高田藩を約130年間治めました。
こちらは「極楽橋」と呼ばれる橋で、初代城主松平忠輝公が慶長十九年(1614)高田城を築城された際に二の丸から本丸に通じる木橋を架けました。明治四十一年(1908)に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ、堀を埋め立て陸続きにした際に橋は無くなってしまいましたが、平成十四年に復元されました。
築城当時をイメージしたCGです。出来る限り忠実に復元できるよう努めましたが、安全性、構造耐久性、法規制、維持管理などの面から、根本となる部分は鉄筋コンクリートなどで補強されたようです。ちなみにこのCG画像は三層櫓の中で放映されています。
周辺の立ち寄りスポット
●上越市立歴史博物館
高田城跡の城内にある歴史博物館で、中は結構広くジオラマなどの展示物があります。常設展示などは撮影できないようです。
油田に関する展示が行われていました。新潟といえば油田が採掘された地としても知られていますね。館内には、当時の油田採掘に関する展示物がたくさんありました。天智七年(668)越の国から京都の朝廷へ「燃える土と燃える水」が献上されたと日本書紀に記されています。慶長時代(関ヶ原合戦の頃)、板倉区地内の山林の地盤に変動が生じて大崩壊が起こり、臭気を発する油水が大量に湧き出ました。
これを好奇の者が汲み取り、試みに点火したところ、まばゆい明るさで燃え上がりました。村人は徳利に入れ、火を灯し用いたという。頸城郡(くびきぐん)では、松之山周辺や板倉区・清里区周辺の村々で「燃える水」が見られたとされ、江戸幕府の絵図にも記されました。明治時代に石油ブームが起き採掘し過ぎたせいで、昭和初期から産出量が減少し採算が取れず閉坑していきました。
上越市というと、やはり上杉謙信公の春日山城が有名ですが、近くにある高田城跡にも足を伸ばしてみるのはいかがでしょうか。博物館では高田城の御城印も販売されていますよ。