中世・近世の日本で剣豪として活躍、剣聖宮本武蔵と並んで日本で知らない人はいない「柳生家と柳生新陰流」。近代では小説をはじめ数々の映画や時代劇も大ヒットしました。「柳生の里」そのロマンを求めて向かいました。
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JR奈良駅西口16番バスのりばから柳生行きの奈良交通バスに揺られ約1時間(後ろ乗り後払い970円)、一路「柳生の里」へ向かいます。
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山奥の先にある少し開けた柳生町にある終点「柳生」バス停に到着。では探訪してみましょう。
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案内板に色々名所が載っています。公衆トイレは、柳生バス停近くのガソリンスタンドの裏と旧柳生藩陣屋跡横の有料駐車場内にトイレがあります。道の駅などがあるといいのですが。
柳生の由来
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まず最初に柳生バス停横の郵便局裏の一角にある「柳の森」へ向かいました。あぜ道を歩いて行くと大きな柳の木が見えてきます。
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「柳生という地名は、大昔この場所に誰かが杖を立てておいたところが、その杖から芽が出てやがてそれが柳の大木となり、そこから柳生と言う地名となり、この地が「柳の森」と呼ばれている。大化改新の時に楊生郷と言う字で書かれていたが、南北朝時代に後醍醐天皇に味方して敗れ領地を没収されるが建武の中興で復活される。
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それ以後、楊生から柳生に変わったと考えられる。平安時代の初め、関白藤原基経の領地となり藤原氏の荘園であったが、平安の中期長歴二年奈良春日大社に寄付され春日さんの社領地となっていた。平安時代の終わりに近く大膳永家が荘官となりました。その嫡男が地名の柳生から柳生氏を名乗るようになったと言われています。
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家紋は二蓋笠で柳生笠とも呼ばれています。
もみじ橋
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続いて徒歩数分の所にある綺麗な朱色の「もみじ橋」を訪れました。11月に訪れましたので紅葉が綺麗でした。
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小さな打越川に架かる小さな橋ですが、しばし時間を忘れ中世のロマンを感じさせてくれます。柳生の侍たちもここで川遊びしてたのでしょうね。
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もみじで赤く彩られた小道を登って当時の雰囲気に浸りながら目的地を目指します。
臨済宗(大徳寺派)神護山芳徳禅寺(芳徳寺)
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訪れたのは芳徳禅寺。まずは拝観料200円を入口の箱に入れ中へ入ります。
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「芳徳寺は、寛永十五年(1638)創建の禅宗寺院で、徳川将軍家に新陰流の剣術を教えた柳生家の菩提寺です。現本堂は宝永八年(1711)の火災後の再建です。前方に三室、後方に三室、計六室を配し、周囲に広緑をめぐらすなど、禅宗寺院にみられる典型的な方丈形式の建物です。
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文政八年(1825)に屋根がこけら葦から瓦葦に変更されています。禅宗寺院の少ない奈良市内における唯一の方丈建築として高い価値があります。本堂裏手の柳生家墓所とともに柳生家の歴史を伝えている点も貴重です。開山は宗矩公と親交のあった沢庵和尚です。」
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本堂の裏手へ向かい柳生家の墓塔へ向かいます。最初に案内板の無い墓所がありますが、更に右奥への小道へ歩を進めると、
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柳生家のお墓がたくさん並んでいます。お供え物を持っていかれる方は少し多めに。
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丁寧な案内板があり、それぞれの配置や解説が分かりやすく書いてあります。
●柳生宗厳(石舟斎)筒井氏、三好氏、松永氏などに仕えた。上泉信綱から新陰流を継承し、1594年家康に秘術を披露し、宗矩を家康に仕えさせた。
●柳生宗矩 石舟斎の五男。家康に仕え、秀忠・家光の兵法指南役を務め、家光の下で大名となる(初代藩主)。芳徳寺を創建。
●柳生三厳(十兵衛) 宗矩の長男。新陰流の研究に務めた。家督を継いだが四年後に急死。
●列堂義仙 宗矩の四男。芳徳寺第一世住職。
●上泉信綱 上野国(群馬県)の武将。新陰流の祖。(供養塔)
柳生宗厳公のお墓が小さいのは、少し驚きました。
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他にも、こちらの本堂には宗矩公の木造・沢庵和尚の木造、そのほか史料・鎧などの展示物もあり拝観できます。(最初に200円払ってますので無料です。)必ず訪れたい場所です。
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芳徳禅寺を出て、すぐ右側にある「石舟斎塁城址」の石碑。
柳生正木坂剣禅道場
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芳徳寺のすぐ横にある「柳生正木坂剣禅道場」。柳生新陰流兵法は、戦国末期、上泉伊勢守秀綱に新陰流の秘伝を授けられた柳生石舟斎宗厳が新たに「無刀の位」に開眼され、柳生新陰流を創始。その子である宗矩公は徳川将軍家の兵法指南役として、新陰流を秀忠公・家光公へ教授しました。現在でも柳生新陰流を受け継ぐ人たちの鍛錬場になっています。
マップを見てわかる様に駐車場があります。もみじ橋から山道を登るのが億劫でしたら、駐車場に車を停めて道場側から舗装された道を徒歩で行く事もできます。
一刀石
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この一刀石を見る目的の方も多いかと思います。道路沿いの駐車場そばの登山口入り口です。
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柳生宗矩が修行中に天狗を一刀のもとに斬ったものの、それは天狗では無く巨石だった。と伝わる「一刀石」。数年前からアニメ「鬼滅の刃」の影響で訪れる方も多いのではないでしょうか。柳生藩屋敷跡そばの駐車場から登る道には、そんな方達の為にこの様な記念品が置いてありました。無人なのでカップにお金を入れて持ち帰れられます。
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結構、傾斜と距離がありますので、途中で休憩しながら進みましょう。
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天石立神社の鳥居が見えてきました。炭焼き小屋と巨石たちを眺めながらさらに進むと
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「一刀石」が現れました。舞台の様になっていますが、地面が湿地の様にぬかるみ、不安定なためだと思います。セルフ記念撮影用のスタンドが設置され、横にはおもちゃの刀まであります。他にも何人か来られてましたが、皆さん利用されていました。何か用意してくればよかったと思いました。
旧柳生藩陣屋跡
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町営駐車場のすぐ横にある「旧柳生藩陣屋跡」。柳生但馬守宗矩公が正木坂に築いた陣屋。現在では史跡公園になっています。特に建物はありません。「柳生陣屋は柳生新陰流を生み出した宗厳(石舟斎)の子宗矩が亡き父宗厳の菩提を弔うため芳徳寺を建て、引き続き三年の歳月を費やし寛永十九年この地に建築したものである。
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「柳生藩旧記」によるとその坪数は1374坪(4534m2)表は竹の枝門であったと記されている。その後宗冬により増築整備されたが延享四年(1747)の火災により全焼し仮建築のまま明治の廃藩により姿を消した。」とあります。焼失とは残念です
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※ちなみに柳生十兵衛三厳公と言えば片目に刀の鍔を付けた隻眼姿が浮かびますが、実際は両目が使えた剣士でした。隻眼は、その後の映画や時代劇で創作された姿です。剣聖宮本武蔵さんもこの柳生の里を訪れた事は無く、同じ様に小説で観光を目的に創作されたストーリーです。
柳生八坂神社
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旧柳生藩陣屋跡の下にある「柳生八坂神社」。もとは四之宮大明神と呼ばれ、奈良春日大社の第四殿比売大社を祀っていましたが、承応三年(1654)に柳生宗冬が大保町にある八坂神社の祭神素戔嗚尊(スサノオ)の分霊をここに勧請し、社殿が造営され八坂神社と改められました。
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境内の拝殿は天之石立神社から移築したものです。先ほど一刀石の手前にあった神社のものです。とても歴史を感じます。
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コロナの影響もあるのか無人でしたが、御朱印は郵送での受け付ける形になっていましたので初穂料を納め、送り先を記載して帰りました。
旧柳生藩家老屋敷
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こちらは、旧柳生藩家老屋敷です。柳生藩家老であった小山田主鈴のお屋敷。小山田氏はもともと平家で、信州に落ちのびたのち甲斐の武田勝頼公に仕え「小山田」と名乗りました。武田氏滅亡後は、奥州へ移住しそこで後に柳生藩家老となる小山田主鈴が生まれました。
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とても働き者だった小山田主鈴は、大坂の堂島に出入りしていた際、井戸水の温もりで米相場を当てて莫大な利益を得たと言い伝えられています。その商才と勤勉さで足軽から知行200石を賜る上席家老となり、わずか12500石の柳生藩の財政難を救ったと言われています。その後柳生藩は明治維新後の廃藩置県で無くなり、柳生家も東京へ移りました。
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全国各地から門下生が殺到したのがわかります。
十兵衛杉
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現在は落雷で枯れてしまいましたが、十兵衛杉と呼ばれる杉があり、柳生バス停から眺められる場所にあります。
十兵衛食堂
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柳生地区には、食事ができる場所がほとんどありません。道の駅も見当たりません。食事したい時は、バス停近くにある「十兵衛食堂」。
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二枚傘をイメージしているのでしょうね。とろろと山菜が乗っていて素朴で美味しいお蕎麦でした。
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柳生の里。今でもとても静かでロマンあふれる山里でした。
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後日、御朱印が届きました。